モルセリア③
ノックをした侍従の先導に従って、部屋と部屋の中を進む。同行を買って出たヴィヴィエンヌが先頭を行き、シルヴァンが続き、アレクシアとエマはあと。
おそらくこの王宮の移動方法に慣れることはないだろうとアレクシアは確信した。重要そうな書類を囲んで深刻な口調で話し合う集団や、……なんだか愛を語らっている恋人同士までいた気がする。
ヴィヴィエンヌもシルヴァンもとくに反応を見せず、通り抜けられる側も何も言わないものだから、受け入れるしかない。国が変われば王宮の構造も、人の心だって変わる、当たり前のことである。だが完璧に無視しきるのは、リュイス人には無理がある。
窓の外を見ると、裏庭に向かってコの字型になるよう、二つの別棟が経っている。それぞれピンクとブルーの漆喰が塗られており、ひょっとして使用人棟を男女別に分けているのかもしれない。
部屋、部屋、部屋。ほんとうに廊下というものがない。ひとつひとつがとても広いから、衝立や天井から垂らしたカーテンで空間が区切られている。人のいる空間と人が通る空間というわけだ。……なら壁をぶちぬいて廊下を作れば、といっても、そういうことではないらしい。部屋ごとに壁紙で色調を変えているものだから、アレクシアは目が回りそうだ。
先を行く侍従が立ち止まった。他の部屋とは明らかに質の違う扉がある。黒檀に繊細な彫刻を施し、木材そのものが黒曜石のように光るまで磨いてある。
ヴィヴィエンヌは姿勢を正した。纏う雰囲気がピリッと変わり、アレクシアは微笑をひっこめる。ここから先、彼女たちは友人同士ではないし、主従でもないのだ。シルヴァンとエマはつつましく扉の内側で立ち止まる。残る二人はそんな部下を気遣う素振りを見せることを許されない。ここから先は、王の間だ。
「私はこれ以上いけないわ。王陛下に呼ばれていないのだから。いくら娘といえど、厳格な基準があります」
ぴたりと立ち止まったヴィヴィエンヌに、アレクシアは頷いて見せた。
「侍女殿もご同行いただけません。陛下がお呼びになったのはあなた様おひとりでございます」
と侍従も余計な口を挟む。大人しく頷く。
「ならびにフュルスト商会のアレクシア嬢、王女殿下との篤きご友情に導かれテトラス王国をご訪問!」
扉が開かれた。ふわりと風が通った。
もしここがリュイスであったなら、まず会見場所は城ではなかっただろう。王が娘の友人に会うというなら、それなりの応接室が用意されたはずだ。風通しがよく、使用人が複数人いて、できれば隣の部屋で貴族が聞き耳立てていてくれるような立地の。何かがあったと勘ぐられないために。
だがここはテトラスである。アレクシアが通されたのは王の間だった。正式な謁見室である。
通ってきた他の真四角の部屋が四つか六つ、ゆうに入ることだろう。大理石張りの床は、カーミエールの街の煉瓦道とは比べ物にならないほど磨き抜かれ、まるで鏡のよう。二階分以上の高さを使って吹き抜けに造られた天井。両側に設えられた無数の全面窓から太陽の光が降り注ぐ。アーチ型になった窓枠は金、曇りない上質な一枚ガラス。
大理石の上に一本の線のように続く緋色の絨毯の上を、アレクシアは進んだ。こちらを見つめる目と、ひそひそと会話する声がどこからか聞こえる。おそらくはたっぷりと質量ともにあるカーテンの後ろ、控室の中。貴族たちだろうか、あるいはその指令を受けた使用人? どちらでもいい。アレクシアがへまをしなければ、どちらでも同じだ。
真正面に階段があり、空の玉座がふたつ、ぽつねんと佇んでいる。王と王妃の席である。
アレクシアは階下で立ち止まり、目を伏せて待った。王がいらっしゃるなら先ぶれがあるはずである。
だがそんなものはなかった。
「ばあっ!」
と、耳元で声がする。アレクシアの肩はわずかに跳ねたが、彼女は視線を動かすこともなかった。なにしろ、ここは王に会うための空間であり、その王の許しを得ていなかったので。
「あれ? なんだ、つまんない」
とくすくす笑う声がする。
「これ、やめなさいエドレッド。エドレッドや」
「きゃははははは!」
王は斜め前のカーテンの裏から顔を出し、ひょっこり、ひょっこり、大儀そうに足を引きずりながら近づいてくる。カーテンを掲げ持っていた侍女が、しずしずと下がる。彼女が閉ざした扉の音が、奇妙に反響した聞こえた。ぱたん……。
やってきたバルドリック王はまさに挿絵の通り。恰幅のよい体格、青々とした髭、優しそうな目つき。王にふさわしい金ボタン煌めく服に、白貂の毛皮の外套を室内なのに肩にかけている。
「すまんね、お客人。ヴィヴィエンヌの友達だと聞いたものだから、息子が興奮してしまった」
そして愛おしそうに、第二王子を眺めるのだった。アレクシアは礼儀正しく一礼した。
「いいえ、何も。御意を得ます、国王陛下」
「あはははは、ヴィヴィー、ヴィヴィ、どこ? ヴィヴィいない?」
と、エドレッドは妹を探す素振りである。彼はヴィヴィエンヌの実の兄だった。その奔放さは知っていた通り――それ以上でさえある。顔は、どんな美女でも青ざめるほどに美しい。体格はほっそりして、女になる前の少女のよう。だが立派な成人男性だ。
生まれてくるときの事故で、頭に血が上らなくなったのだという。ぼうっとした表情、へらへらと笑う声は舌足らず。何もわからず、わかろうとする意志もない青年。
だがバルドリック王にとって、子供たちのうちで最も愛しい子なのだった。
「知らない?」
と彼はアレクシアの前で立ち止まり、にっこりした。彼女はゆるく首を振る。
「何とも申し上げられません」
「ふうーん」
それで王子は興味を失い、両手を広げて駆けて行ってしまう。お付きの者は誰もいないらしい、王の間を縦横無尽に駆け巡り、きいーとかぷーとか奇声を発している。
「驚かせてしまったかな?」
「滅相もないことでございます、陛下。むしろ嬉しゅうございますことよ。陛下が謁見の場に第二王子殿下を伴われるのは親しみの証というのは、大陸じゅうの常識でありますゆえ」
バルドリック王は息子とそっくりな表情で破願すると、アレクシアを窓際へ誘った。分厚いカーテンの向こうにはまだ空間があった。小さいが頑丈なつくりの椅子と、丸テーブルのセット。
「座りなさい。話を聞かせてもらおう」
アレクシアのため椅子を引いてくれながら、王は命令する。ヴィヴィエンヌに似た、だが何倍も厳めしく苦しみを知った人の声。
王子の足音と歓声、時折、それに応える大人の声が王の間の反響していた。
王は彼女をカーテンの後ろに導いた。窓が開け放たれ、心地よい花の香りの風が柔らかく吹き込む。魔法的に寒さを遮断しているようで、春の陽気のようにぽかぽかと温かかった。
小さなテーブルと、椅子が二つ。勧められた席につくと侍女が現れ、香炉に火を灯して一礼し、下がった。火はぽっと小さな灯火になり、香炉の中で粛々と燃える。鼻の奥から耳の奥までをもくすぐるような、爽やかな香りが生まれた。
「お茶の方がよかったかね?」
「いいえ。先ほど王女殿下のお部屋にて頂戴いたしましたので」
「そうかい」
「――なんとよい香りでしょう。【大氷河】の氷のかけらを砕くとこの香木になるという話はまことでしょうか、陛下?」
アレクシアは小娘の付け上がりに聞こえる声で言った。交渉ごとを優位に進める方法はたくさんあるが、うちひとつが侮られてやることである。人間というものは、一度見下した相手には口が軽くなるものだ。




