モルセリア②
「このテトラス式の建築に慣れるには、時間がかかる気がするわ」
とアレクシアは冗談交じりに言う。聖なる王のおわします宮殿ルム・ランデは、なにしろ廊下がないのだから。ただ真四角の部屋が連なるばかりの空間に慣れるのはもう少し時間がかかりそうだった。
ヴィヴィエンヌはああ、とシルヴァンを振り返った。彼はヴィヴィエンヌが座るソファの斜め後ろに立っていた。これまでの彼だったら、三人と一緒にソファに腰かけたことだろう。もしかしてフィリクスに言われたことを反芻しているのか、それ以上は表情も何も動かさなかった。彼なりに、考え、成長しているのだ。
姫と騎士は目を見かわして苦笑する。
「私たちも、リュイスに行ったときは驚きました。廊下って……廊下って、王宮にあってもいいんですね」
「俺は逆に、こっちに慣れるのが早かった気がします。生家も似たような感じだったので」
「まあ、そうなの?」
「結局、あまりに不便だといって曾祖父が外廊下を無理やり増築したんですがね」
ヴィヴィエンヌにとってリュイス留学は、辛く苦しいものばかりではなかったのかもしれない。笑いあう二人を見て、アレクシアは少しばかりほっとした。その後ろで、エマも音もなく嬉しそうだった。
会話が止んだ。やがてそわそわと、ヴィヴィエンヌは膝の上で手を組み合わせる。彼女らしくない苛立ちだった。
「……実は、アレクシア様に言いたいことが。我が父が、あなたに会いたいと仰せなの」
「バルドリック王陛下が?」
アレクシアは目を瞬いた。瞬間、頭に去来したのはこれで――という思いだった。これで、バルドリック王を御すことができれば。リュイスの女王の座が、そして二国に君臨する夢が、最短で手に入るのではないか、と。
ぎゅっと足の指を丸めて耐える。それは甘美な妄想だった。決して実現不可能な。
何しろ、バルドリック王が死ぬ未来は、目下のところ見えないのだから。小説での彼は、リュイスとの戦争で死ぬ。だがその戦争が本来起こるのは、八年後のはずなのだ。そこで主人公は、かつて悲劇的な別れ方をしたヴィヴィエンヌと彼女の小さな娘と再会する。
「もちろん今すぐではありませんわ。きちんと休んでいただいてから。けれども、近日中に。王のお召しです。お断りいただくわけには、まいりません」
「構いませんわ。ええ、もちろん。参上いたしますとも」
「よかった」
ヴィヴィエンヌは明らかに安堵したようだった。アレクシアは目を細め、姿勢を正す。不自然な沈黙と、徐々に緊張が雲のように湧いてくる。
真四角の部屋が横に三つ、四つ、縦に無数に並ぶ長方形の王宮。不可思議な場所が、アレクシアの神経を狂わせたのかもしれなかった。
「私にも、言わなければならないことがあります。ヴィヴィエンヌ様。――私があなたを、あなたとシルヴァンの二人をどのように利用しようとしていたかについて」
ヴィヴィエンヌの緑の目がかすかに揺れたが、それだけだった。王女は動揺を見せないものだ。
「聞かせてください」
アレクシアは束の間、目を伏せる。
シルヴァンの灰色の目がじいっと見つめているのを感じながら、目を開く。そして語った。
アレクシアの考えていたことはといえば、つまりこうだった。
シルヴァン・ミストヴェルに金を渡し、ヴィヴィエンヌ自身の幸福を考えろと唆し、中央大陸から逃がす。リュイスからもテトラスからも、そしてドレフからも。南国ファーテバから船に乗せて、南大陸に落ち延びさせるのだ。
そしてヴィヴィエンヌの空けた穴に、自分が入り込む。それができる自信はあった。そのときにはすでにリュイス女王か、それに近しい地位に就いているはずだったのだから。
リュイスとフュルスト商会の持つ力。それは南方からの交易路と、それに伴う文物の移動。および軍事力をも左右する、塩と食糧生産力。ゆっくりとゆっくりと、アレクシアはテトラスを侵食するつもりだった……南方の派手な演劇で王の心を虜にするのでもいいし、また塩の専売権を餌にしてもいい。足掛かりなど、なんでもいいのだ。
そしてタルヴェル・ミストヴェルの犯した罪を突きつける。かつて甥のシルヴァンをその母ともども殺そうとしたのだと、だがシルヴァンはアレクシアが逃がし、幸せにしているのだと。他ならぬ王の娘と共に。
バルドリック王はアレクシアに逆らえなくなるはずだ。娘が駆け落ち、臣下は甥殺し、そしてその二人はすでに手元にない、となったとき、彼は不名誉を避けるため全力でその秘密を見て見ぬふりするはずだ。その不名誉を握るのが、リュイス女王アレクシアだったとしたら? もはや、手も足も出ないことになるはずだ。
「まさかドレフ帝国での反乱がこれほど早く起きるとは思っていませんでした。結果として、私のもくろみは昼日中の霜柱のように消え去ったわけです」
ここまで語り終えたとき、室内に残るのは暖炉で火が爆ぜる音だけだった。やがてヴィヴィエンヌが、とさりとソファにもたれかかり扇を広げる。はらり、音を立て、開いたり閉じたり。そのたびに描かれた蝶の絵がひらひらと舞い踊るよう。
「おみごとですわ」
とだけ、王女は言った。シルヴァンが後を続けた。
「俺もそう思います。あなたの計画通りにことが運んでいたら、テトラスはもたなかったでしょうね。――ヴィヴィ、お茶は?」
「ちょうだい……」
二人とも、ぐったりと口を噤んでしまう。エマがぽつんと口を開いた。
「アレクシア様なら、できたと思います。その計画も。とんでもなく、浮世離れしたお芝居みたいな話ですけれど。アレクシア様とフュルスト商会のみんなが協力したら、やってやれなくは、なかったかも」
「でしょう」
アレクシアは彼女らしくなく弱々しく微笑んだ。
「軽蔑してくれていいのよ」
「いいえ、いいえ。そりゃ、驚きましたけど。きっと私は、その段階になったら協力したでしょうし、協力してと言われたら、信頼されてるのが嬉しかったことでしょう」
エマははあっと息をつく。暖炉の火が呼応してぱちっと跳ねた。
ヴィヴィエンヌが焼付塗装のついたカップをローテーブルに置く。濃く煮出されたお茶にたっぷりのミルクと砂糖が入ったもの。
「アレクシア様は、それでは――テトラスの名だけ残し、リュイス主導によって二国を統合しようと考えていらしたのね?」
「ええ。あなたのお兄様か、甥御さんかどなたかと結婚すれば、エヴレン王家の面目も立つでしょうし」
「え、じゃああのドレフ人はどうするつもりだったんですか? 遊び?」
ヴィヴィエンヌのカップに嬉々として新しいお茶を継ぎ出そうとする手を止めて、シルヴァンがきょとんと聞いた。本当に間の悪い男である。
「彼の話は全然してないでしょう」
「シルヴァン、どうしてそうも無神経なの、あなたは」
「なんですぐ話をそっちに持ってくんですか?」
三者三葉に言葉で殴られ、護衛騎士は身を縮めて沈黙した。
とはいえ、とアレクシアはよく通る声でひとり言のように言う。
「今となっては、とてもそんなことはできそうにないわ。二人を利用するだなんて。この国を乗っ取るには、もっと別の手段が必要みたい」
「乗っ取るというのは決定事項なのね」
「ええ。そうですとも」
笑いを含むアレクシアの声に、ヴィヴィエンヌは身を起こした。
「あるいは、その方がいいのかもしれません、とは……テトラス王女として決して言うことはできませんけれど。そのくらいの梃入れは必要かもしれないわ、この国には」
「ヴィヴィ、」
「黙って、シルヴァン。テトラスのことは大事よ。愛する祖国だわ。でも、ええ、私はあなたと幸せになりたい。他の人と結婚なんてしたくない。でも、父上がそうお望みなら。国のため、なら。私は駒として顔も知らぬ他人に嫁がなくてはならない、と……」
シルヴァンの顔が悲壮一色に染まる。
「思っていたけれど。でも、やめにします」
「え」
目を丸くしたシルヴァンの目の前に、ヴィヴィエンヌはすっくと立ちあがった。そうしてみると見上げるほどシルヴァンの方が背が高いのに、何故だか彼の方が気圧されている。
「アレクシア様、その逃亡ルートや手助けは、まだ期待していいのかしら?」
「ええ、もちろんですわ。ヴィヴィエンヌ様たってのお頼みでしたら、いかようにも」
「わかりました。――シルヴァン」
「あ、ああ。ヴィヴィ」
ヴィヴィエンヌはソファの背もたれを回ってシルヴァンの目の前まで行くと、彼の分厚い手を細い指で握った。
「わたくしと結婚してください、シルヴァン。必ず幸せにします」
ぴゃやあ、みたいな声をエマは上げた。ほとんど奇声である。唖然とするアレクシアの側を行ったり来たりして、叫び出したくてうずうずしている。シルヴァンといえば、言葉もない。口をはくはく開け閉めして、はしたなくも王女殿下を指差し、自分の鼻を指差し。次の瞬間、彼の顔が真っ赤に染まった。
アレクシアは笑いがこみ上げるのを我慢できなかった。とはいえ、この真四角の部屋のどこにいけば気づかれずに笑い転げることができるだろう? 結果として彼女はエマと手を取り合い、部屋の片隅まで行ってけらけら思う存分笑った。涙まで出てきた。
奇妙なつくりの王宮といっても広さは相当なものだから、ボソボソと喋る二人の声を意識すれば聞かないですむ。アレクシアはしゃがみこみ、エマは応接用の装飾棚にすがりついた。そこに飾られた絵皿を壊さないように肩を震わせる。
「あー、終わりましたわ。お二人とももう立ってよろしいのよ」
と、気まずそうな声をかけられるまでそうしてしゃがんでいたので、立ち上がるときアレクシアはちょっとよろめいた。ヴィヴィエンヌとシルヴァン、どちらも耳まで真っ赤である。二人して手をつなぎ、王女とその騎士であったときよりはるかに距離が近い。
「お話まとまったようでよろしゅうございましたわ」
アレクシアの横でエマがこくこく頷き、くるくる笑って踊りのステップを踏んだ。シルヴァンが頭をかいてうろうろ目線をさまよわせるのに対して、ヴィヴィエンヌはしっかりとアレクシアを見据えている。
「できればすぐにでも外国に行きたいところですが。アレクシア様の一件が片付くまではここにおりますわ。私がいることで有利に働く場面も多いでしょう」
「助かります。では、そのときが来たらすぐにでも動けるよう準備を整えておきます」
「……お願いしますよ、お嬢さん」
羞恥のためか投げつけるような口調で、シルヴァンが言う。
「もうこうなったら、あんただけが頼りです」
「いいですとも、頼ってちょうだい」
アレクシアが胸を叩いたとき。扉に控え目なノックがあった。エマがしずしずと歩み寄って細く隙間を開き、用件を聞く。この短時間でテトラス式のやり方を覚えたのか、元から知っていたのか。
「国王陛下がご息女、およびアレクシアお嬢様をお呼びでございます。長旅のお疲れを労いたいとの仰せです」
アレクシアたちは目を見かわす。ヴィヴィエンヌは眉を曇らせる。
「もう少しお時間をくださいと、私から――」
「いいえ、大丈夫です。お会いいたします」
アレクシアは衣擦れの音も爽やかに颯爽と扉へ向かった。闘志が漲っているようだった――まずは第一戦、である。




