モルセリア①
テトラスの都モルセリアに着いたのは、三日後のことだった。
その古く壮健な街並みには、常にうっすら雪が積もっている。それもそのはず、ここは地理的に言えば【大氷河】のお膝元である。冷気や寒風は、冷たいという感覚を通り越して肌に突き刺さる。かろうじて凍死せずにすんでいるのは、地面の下に太いパイプを通して熱湯を流す特殊な構造があるおかげだった。また各戸にある巨大な煙突つき暖炉の排熱も、分厚い壁を通して都全体を暖めてくれている。
すでにリュイスを離れて一週間。残してきた諸問題、女王に選出されるのかという焦り、すべてをアレクシアは忘れることにする。商会の面々は立派にやってくれるだろうし、いざとなればファーテバに家族がいる。
リュイスではまだ来なかった冬は、すでにテトラスを覆っていた。窓は凍り付き、石畳の隙間に霜が降りる。それでも人の往来は活発で、街は活気づいていた。カーミエールの街よりも人数が多く、人々は外套も厚く裕福そうである。
アレクシアはまず、宿を取り、身なりを整えた。フュルスト商会の名前を出せば、銀行の役割も果たすいくつかの商会が金を出してくれた。正直、そろそろ路銀も尽きつつあったので助かった。自分にはテトラス流の貴婦人の装い、エマには侍女の衣装。広いつばの帽子にリボンをかけて顎の下で止めるのが今年の流行なのだそうだ。
(ファーテバで一昨年見かけたわね)
と思う。やはり北方の果てに位置するだけあって、テトラスでは流行がやや遅れるようだ。時間さえあれば南方の衣装や本を持ってこられたのに。香水瓶やその中身、いや調香師とその弟子を雇って盛大に流行に貢献すれば、瞬く間に名も挙がっただろうが、仕方ない。
こんなときでも商売のことを考えてしまう自分自身に、アレクシアは苦笑した。
通信機を用いてヴィヴィエンヌと連絡を取り合い、とうとう王宮から正式な招待状が届いた。バルドリック王の末娘、ヴィヴィエンヌ王女殿下の話し相手としての招集である。ネックレスを見せびらかせば大門をくぐるところまではいけたかもしれないが、どんなときでも正式な手順を踏んだという事実が大切だ。それが身を守ることになる。
二頭立ての馬車に乗って城の凍てつく堀を通る間、隣の席のエマの手がわずかに震えているのにアレクシアは気づく。
「エマ、怖いの? 寒いの?」
「いいえ、どちらでも。――アレクシア様、気づいていますか?」
「何に?」
「私たちはおそらく、生きるか死ぬかの瀬戸際にいます。テトラスの王宮は怖いところだって聞きますもの。毒殺、暗殺、兄弟姉妹が殺し合い、王様は後宮を作りたがっているって聞きますよ。ヴィヴィエンヌ様だって、私たちを守り切ることはできないでしょう。そんな中にあなたは乗り込んでいく。なんて、なんて……凄まじいことなんでしょう、こんなに勇気のいることに付き従ったのは、私のご先祖様には一人だっていやしませんでしたよ!」
目をきらきらさせて言うのだった。
「ううーん。そこまで怖いとこじゃないと思うけど」
「いいえ、怖いとこですよう。百年前、【銀の狼の聖女様】は王様に殺されておしまいになったんですよ、あんなに戦場でお手柄を立てたのに、その功績を妬まれて、他でもない自分の王様に。ここで!」
「……レディ・ウラリール・ミストヴェルのことを言ってる?」
「ハイ!」
「エマあなた、子供の頃【雪花の誓いの物語集】を読んで育ったでしょう」
「アレクシア様もご存知なんですか? いいお話ですよね、あれ」
「あの本の【エルムス川の戦い】はほぼ創作よ。ローデン騎士団はウラリール様を見捨ててないし、王宮で死んでもないわ」
「エエッ」
ががーん、という顔でエマは口を開き固まった。馬車が大きく揺れて、敷居を越えたとわかった。
リュイスとテトラスは、長年の隣国である。いわば腐れ縁のある国同士の常で、敵国になったり同盟国になったりと忙しない歴史を築いてきた。どちらがより優れているわけでもなければ、劣っているわけでもない。強いて言えばテトラスの方が寒い分作物収穫量が少なく不利だが、その分強権的な王権が育った。一方で広大な穀倉地帯、ブレインフィールド伯爵家領ミアルタを有するリュイスの方が生産量は多い。
「……あの本、嘘ついていたんですか?」
エマが悲しげに灰色がかった青い目を曇らせて言う。馬車の外から聞こえてくる誰何と検問の声に、ヴィヴィエンヌが寄越した迎えの御者が答える声を聞きながら、アレクシアは手を振った。
「どんなときでも人は物語をわかりやすく、より劇的にしたがるものなのよ。文字が読めない平民なんかもそうで、刺激的な劇の方が好まれるのは万国共通だわ」
「そんな。実際にあったことだとばっかりに」
「まあ、学院じゃテトラスのそんな細かい歴史まで習わないでしょうからねえ」
魔法実技を含むありとあらゆる分野の学習内容を生徒の頭に詰め込むことが最終目的の学習機関である、隣国の歴史など、せいぜい王と宰相の名前を覚えて終わりだろう。
エマははっとした様子だった。まるで自分が学院出の貴族の娘だということを今の今まで忘れていたみたいだった。
「国に戻ったら改めて歴史を勉強し直します」
とエマは拳を握る。アレクシアはくすくす笑った。
「頑張って。――おっと、ついたみたい」
馬車の扉が外側からカツカツ叩かれる。そうして二人はテトラスの中枢に降り立った。
そのうち敵国、と言った方がよくなるかもしれない国の王宮――聖宮ルム・ランデは、正面から見ると完璧な長方形の城であった。リュイスの白亜の王宮は改装を繰り返し、古い時代の建築と新しいそれが同居していたが、こちらは古くなったところは取り壊して新築するらしい。壁の黄色い漆喰さえ他の部分と調子を揃えて塗るそうだ。その甲斐あってか、完璧に在りし日の権勢をこの世に伝えている。外観のみならず室内もまた。
案内係に導かれるまま歩いていくと、自分が蟻になったような気持ちになる。それほどまでに大きな城だった。また、驚いたことに室内には廊下というものがなかった。真四角の部屋と部屋が延々と続くばかりなのだ。
尋ねると、係の侍従は無表情でたんたんと告げた。
「はい。外国からいらした皆様は揃って驚かれます。ですがこれがテトラスの文化なのです」
「とても素晴らしく、興味深いですわ」
応接間は他の部屋と同じに真四角だった。豪華な装飾はファーテバのアレクシアの部屋に勝るとも劣らない……値段は。こちらの方が年季が入っている分、格上だ。
採光と換気口を兼ねた大きな窓。それに見合った大きなカーテンは珍しいレースを三枚重ねて光を和らげている。【大氷河】の真白に真白を重ねたような光量には、このくらいでちょうどいいのかもしれなかった。
部屋の反対側には暖炉があり、火が焚かれている。
「わあ。燃え盛ってますよ。薪もたんまり。アレクシア様、お寒うございませんか?」
とエマが火搔き棒片手に世話を焼いてくれるのに任せ、アレクシアはソファに陣取った。
王宮に踏み入った時点で、腹を括っていた。なるようになれでしかない。少なくともここには敵か、敵の手がかりがあるのは確実である。
繋げる顔を全部繋ぎ、使えるものは全部使って、挑発に相応の返礼をする。
胸元の魔力石のネックレス。ポシェットの中の王の紋章がついた指輪。鎖骨の間のくぼみと腰、ふたつの箇所が、火がついたように熱かった。
そして扉が開き、入ってきたのはヴィヴィエンヌとシルヴァンだった。アレクシアは立ち上がる。棒立ちになったエマは、少し涙ぐんでいる。
「アレクシア様」
ヴィヴィエンヌはアレクシアの頭を包み込むように抱きしめた。温かな体温と香水の香り。
「アレクシア様、アレクシア様。お仲間のこと、本当に、なんていったらいいか……」
「……ありがとうございます、ヴィヴィエンヌ様。彼らも浮かばれます、王女殿下にそう言っていただけるなんて」
アレクシアは抱きしめ返す。続いて、流れるようにシルヴァンへ片手を差し出した。彼はその手を取り、貴婦人への挨拶であるキスではなく、戦友にするように握手をした。
「アレクシアお嬢さん、少し離れてただけなのにとても久しぶりに感じます」
「こちらこそよ、シルヴァン」
アレクシアはぎゅっと抱き着きあっているヴィヴィエンヌとエマを振り返る。若い小さい獣の仔が無事を確かめあっているようで、微笑ましい光景だった。
エマが沸かしたお湯でお茶を淹れて、なごやかな歓談が始まった。肩肘張らずに会話できる気楽さ、楽しさ。アレクシアは自分が心から笑っていることに気づいた。胸の奥につっかえていた、五人の死にざまが――消えはしないまま、かすかに薄れたのがわかった。




