挑発
街の東側、古い時代の街並みが残り、住民同士は親密で、そのぶんよそ者をあえて歓迎するような気風があるその区画。
漆喰と煉瓦でできた小さな一軒家は、今は閉じられている。といっても、封鎖と書かれた張り紙と、申し訳程度の綱で二つのドアノブがまとめられているだけ。守備隊の面々がやったのか、あるいは町内の誰かがやったのかもしれない。東の区画のまとめ役はいくぶん寂れた肉屋の店主だった。アレクシアはその店を訪問し、対応が遅れた非礼を詫びた。
フュルスト商会の面々が殺されたことはおくびにも出さなかった。
「あの家かあ。いつ片付けてくれる?」
「引き受けてくれる業者が見つかればすぐにでもそういたしますわ」
「そんじゃまあ、いいよ」
と、けんもほろろな対応であった。店主の意識はむしろ、アレクシアの後ろで順番待ちをするご近所の奥方に向けられていた。
これは当たり前の対応である。アレクシアは外国人のよそ者だ。それ以前に――自分たちが受けた傷は自分たちで返さなければならない。揉め事は身内の中で解決すべきなのだ。国の別に限らず、それが常識だった。
間違ってもカーミエールの街の誰かを巻き込むだなんてことは、あってはならない。
二階建ての一軒家は綺麗に整えて貸主に返し、奪われた書類などが出てきたらそれを買い戻すのもアレクシアの仕事である。誰も助けてくれない。上等だ。
「アレクシア様、どうしてここへ? まだ貸借期間なのでしたら、わざわざくる必要なんて……」
道路沿いの家にはよくある、猫の額のごときささやかな庭らしきスペースに置かれた花壇を見つつ、エマは尋ねる。細い眉は痛ましそうに歪んでいた。熱の名残りで頬が赤い。きっと花壇を世話していたのはロズ・クォウッドだ。そういうことが好きな人だった。
アレクシアは腿に括り付けていたナイフを取り出し、綱を切った。
家の中に踏み入る。人がいなくなったあとの家特有の閉め切ったあとの空気の匂い。あとは埃と、混乱の跡が見てとれるばかり。二人が入って両開きの扉が閉まると急に薄暗くなる。カーテンが閉めっぱなしなのだ。
「正直言ってね、エマ。私たちは手詰まりの状況よ」
とアレクシアは言う。ナイフを腿に戻し、笑う。
「ここは外国で、手駒はいない。テトラス王国が行った対リュイスの防衛線は、あらゆる人と物の流れを遮断するわ。通れるのは私たちみたいに尊いお方の馬車にでも同乗させてもらうか、役人に袖の下を渡して突破した者か。でも私は、このまま追い詰められるばかりでいられない。わかってくれるわね?」
「はい、お嬢様」
エマは凛々しく頷いた。お腹の上で両手を揃え、きゅっと唇を引き結ぶ。
「今はね、まだ平時と変わりない。人も物も流れてる。でもそのうち、止まるでしょう。経済が止まったら住民は移動を始めるわ。だって食糧備蓄がなくなれば、商人は店を閉めるしかなくなる。最悪の場合飢餓が発生してしまう」
もし戦争が、たとえ小競り合い程度にしかすぎなくても、それが始まってしまえば移動はかなわなくなる。そうなる前に、敏い平民身分たちはわあっとばかりに家財道具をまとめるだろう。まだ、その段階ではないというだけだ。アレクシアたち外国人がのんきに宿屋に泊っていられるのも。王家の諜報員たちがいるのも、そうした人の流れを調べて報告するため。
「考えてみたの。もし、私なら? フュルスト商会所属の商会員という属性を消し去って、ただの五人。ただの五人の人間を殺してしまったのが私だとしたら。当然、証拠なんて残さない。少なくとも素人の私たちの目につくようなものは何も。……だから、ここの捜索は後回しにしたの。一気に五人も殺すなんて、怨恨や、それ相応の理由がないはずない。犯人とフュルスト商会に関係がないわけはない」
話ながら頭の中身を整理しているようだった。エマは辛抱強くアレクシアに付き従い、自分でも考えようと顎に手をやる。
「ええと、だからここに戻ってこられたんですね。ない証拠を見るために。証拠がないということを見るために?」
「そう。悔しいことに私たちでは犯人の持つ力には敵わないでしょう。腕力でも狡猾さでも、私たちは後手に回ってしまっているわ」
家の中を見て回るうち、アレクシアの手足に徐々に血の巡りが戻り始めた。徐々に徐々に――彼女の顔には虎のような笑みが浮かんだ。
海岸に打ちあがったイルカかクジラを描いた絵を、アレクシアは見たことがある。あの、黒いかたまり。最初は何を描いているのかわからなくて、母に聞いた。
そうだ。アレクシアはあのときその絵のことを思い出していた。そしてこう思った、どうしてこんなときに、そんなどうでもいいことばかり思い出すの? 思い出さないで、すぐそこにいる五人を見るべきよ……。
アルバ河は飲用水の供給元であると同時に、運河として運行されている。護岸工事がなされ、煉瓦の道がそのほとりを埋める。季節としてはギリギリ、氷が張る前だ。ぬるい日が降り注ぐ昼間には、薄い氷の層をかき分けて船が行き交う。リュイスのコトル運河と同じに。
その、煉瓦道の上に。彼らは倒れて、こと切れていた。もがき苦しんだあとが見てとれた。
「犯人の目的を考えていた――」
土色の髪がぶわりと膨らんだように、エマには見えた。彼女は慎重に、小声ではいと答えた。
二階。そこを従業員の居室にしていた。奥の二部屋は女性用で、建物の中央にある階段を区切りに、道に面した四部屋のうち三部屋が男性用。あの日、ひとつひとつ確かめた通り、すべての小部屋の扉には鍵がかかっていた。みんなやるべきことをやっていた、真面目な大人たちだった。
アレクシアは最後の、四部屋目へ向かう。そこはとっくの昔に何度も確認した。だがひとつだけ、数日前と違うものがあった。
執務室、あるいはいったん書類を保管しておくための部屋として用いられていたのが、二階のその部屋だ。磨かれた机の上に、あのとき見たのとは違うものが乗っている。
彼女はそれを指でつまむ。
少なくとも平民には手が出せないつくりの、素晴らしい細工の金時計である。
「エドマンドを誘惑して裏切らせたのだとして、それは誰で、なんの目的だったのか? フュルスト商会に恨みがあったのか、我が父が憎かったのか。はたまた、私が目的? とも考えてみたわ。リュイスの議会からだんだん注目され始めた時期だったから、私を消せば儲かると踏んだ者がいてもおかしくなかった。でも、どうやらそんなことを考える必要はなかったみたい」
「……はい」
エマは息を呑む。アレクシアの中で準備が整ったことを悟って、身震いがするほどに嬉しかった。
「ねえエマ? これは何だと思う?」
「指輪、です。金の」
「ええ。印台の紋章に見覚えはあって?」
「これは……」
「そうよ」
アレクシアはちょっぴり笑った。自嘲にも似て、だがそうではなかった。それは嘲笑だった。牙が見えないのが不思議なくらいに獰猛な、ようやく敵を見つけたのだと勇み足するような。
「エヴレン王家の紋章」
囁くような声で、アレクシアは言う。小さな手が小さな指輪を包んで、まるで愛しい人の形見にするように、腰のポシェットに大切に納める。
特別な指輪だ。本来なら宝石が嵌るべき印台部分が平らで、そこに紋章が刻まれている。並みの人間が指に嵌められるものではない。身分を示し、サインの代わりになれば封蝋にも使われる。
「王家の印を手にできるのは、王家の人間だけだわ」
「まさか、ヴィヴィエンヌ様が――」
「そんなはずないでしょう」
声に苦笑が混じって、アレクシアの様子が平常通りに戻った。いつも通り。傲岸不遜で傍若無人なお姫様。敵がいなければ息もできない人。
「あの人はこんなことしない。……小説通りなら、違ったかもしれないけれど。もう違うんだから」
「え?」
「ヴィヴィエンヌ様ではないわ。さあ考えましょう、エマ? そして行きましょう、テトラスの都モルセリアへ。王家の人間は全部で六人。ヴィヴィエンヌ様を除く五人全員が犯人候補よ。手下を使ってここを襲い、フュルスト商会と私に喧嘩を売った。この私に! まるでゲームみたいに。盤上で思い通りにできる駒みたいに私を扱おうとした、商会員五人の命を勝手に掛け金にして!――思い知らせてやりましょう。アレクシアは駒ではないってことを」
アレクシアは窓に歩み寄り、開け放った。閉め切られた雨戸がやっと解放されて、喜びを爆発させた風が吹き込んでくる。残された数少ない書類の切れ端、メモ書きが飛び、インク壺の横で羽ペンが転がる。床や柱や壁さえも、鳴動するかのようだった。
「そしてフュルスト商会を敵に回したことを。全部全部、後悔させてやらなくちゃね」
この世で最も高く険しい【大氷河】から駆け下りてカーミエールの街までやってきた寒風が、アレクシアの土色の髪を翻した。たっぷりとした豊かな髪は、光を浴びて黄金色に輝いた。




