秘密の店
這う這うの体で小さな宿にたどり着いたときにはすでに夕方だった。アレクシアは重たい足どりで部屋まで進み、エマがふうふう言いながら眠っているのを確認してようやく心から安堵した。
廊下でまだ幼い小間使いに金を渡してパンと水を買って来てもらう。小鍋にパン粥の準備をして火にかけたあと、自分の分の食事を済ませた。北国のことだからすぐに暗くなる。【大氷河】が作る暗がりの色は、普通の宵闇より濃い気がする。アレクシアは寝台の上に転がり込んだ。刺繡入りの靴を脱ぎ捨てぐったりと肩を落とす。
「人間の海を泳ぐ化け物め……」
クラックのことである。ああなってしまっては終わりだ、とアレクシアは思う。人心をただの数字か、いつでも好き勝手できる人形としか見られなくなったら。
今までおぞましい連中をさんざん相手してきたアレクシアだったが、さすがにあそこまでのは滅多にいない。誰しも大切なもの、矜持や家族や愛着があるものだ。
……食べ、そして眠って回復する時間が必要だった。
だが彼女はむくりと身を起こし、胸元から魔力石つきネックレスを取り出す。数日おきに連絡を取るというのが、ヴィヴィエンヌと交わした約束だった。
通話が繋がると、食ってかかる勢いのヴィヴィエンヌの声が聞こえる。
「アレクシア様!――よかった。連絡がないものだから、てっきり何かあったのかと」
「ご心配おかけしてごめんなさい、ヴィヴィエンヌ様。こちらは大丈夫です」
アレクシアは一拍を置いた。言いづらいことだが、言わなければならなかった。
「一つ、残念なご報告があります。フュルスト商会の面々は、だめでした」
「……大丈夫?」
気づかわし気な声に、不覚にも喉の奥がわななく。アレクシアは誰も見ていない笑みを浮かべた。寝台の奥でエマがけほっと小さな咳をした。
「私は平気です。敵討ちをしなくてはなりません。身内を殺され、舐められっぱなしでいられませんから」
通信機が動く、ガサゴソいう音が聞こえた。シルヴァンの囁くような声が聞こえたのはすぐあとである。
「アレクシアお嬢さん。あーもう、これ使いにくいな……わけがわからん。こちらからもご報告があります。奇妙なメイドが俺の前に姿を現しました。あなたから俺のことを聞いたのだと言います。名前は、ムズと名乗ればすぐわかるはずだと」
「もう? 早いわね」
ほとんど昨日の今日。そうだ、ムズと別れて、ほんの数日しか経っていない。
あのねえ、と聞こえたシルヴァンの声は呆れ果て、ため息交じりである。
「俺のことを見に来たんだと、笑っていましたよ。なんか人間じゃないみたいな笑い方だった。俺が困ったら助けてやると言っていました。――あんた俺の知らないところで、俺に何したんです?」
アレクシアは抑えた声でくすくす笑った。都モルセリア、テトラス王宮ルム・ランデのシルヴァンのそば近くで、ヴィヴィエンヌも笑ったようだった。反響する笑い声がひどく懐かしい。
「いいえ、何も。私は彼女に何も強制していないわよ。ムズに関することはすべて、あなたの縁だわ」
強いて言えば、アレクシアがムズに接触しなければ彼女はまだこのカーミエールの街で治療女をやっていただろう。愛するミストヴェルの血筋を魔法使いが見ることはなかっただろう。
はあ、と呻いたきりシルヴァンは黙った。再び、ヴィヴィエンヌの声。
「アレクシア様。それで、ご連絡の意図は? あなたのことですから、ただの近況報告ではありませんでしょう」
「ええ、ヴィヴィエンヌ様。申し訳ございませんが、手詰まりの状態ですの。初手で商会員たちを殺され、もう使える手駒も伝手もありません。――使わせていただきます」
「わかりました。ご自由にお使いくださいな。あなたが私を故国に連れてきてくれたこと、忘れません」
「ありがとうございます。心より感謝いたします」
それで、通信は終わった。
アレクシアは寝台の上で動かない。放心していた。不思議な、からっぽの感情が胸の中にあった。それが怒りだということはわかっていたが、どうしてこんな自嘲的な、苦しい気持ちなのかがわからなかった。
あるいは、認めるのが怖かったのかもしれない。
生家ガイガリオン伯爵家を貶めるのは、怖くなかった。彼らに復讐する正当な権利がアレクシアにはあり、彼らがいなくなれば胸の激情は静まるとわかっていたから。だが、これは。今のこの、状況は。
エドマンド・ハロド、ナッサン・フィリオ、リトルト・グレゴー、ロズ・クォウッド、トリエッテ・ハミルト。たとえ何をしても、五人は帰ってこない。失われた。彼らが持っていたかけがえのない能力や実績、家族や友人、商会に与えてくれた目に見えないものと同時に。永遠に。
もし幼少のときに血縁上の父親によって母を失っていたら、こんな気持ちだったのだろうか?
「きつい」
と、一人ごちる。全身の力が抜けそうになるのを奮い立たせるのがやっとだった。怒りに支えられていなければアレクシアは何もできないのだろうか? いいや、そんなことはない。
「必ず、敵討ちをして――」
たとえその結果がなんにもならないのだとしても。
必ず、そうしなければならない。アレクシアはそれだけを考える。
いつの間にかエマは穏やかな寝息を立てていた。
***
翌朝、全快したエマは何がなんでもついていくと言い張った。
「昨日一日私がついていなかっただけで! 守備隊と、ジョードメル協会に!? アレクシア様、いったいどうしてあなたはそうもちょっかいをかけられやすいんですか。体質ですか?」
アレクシアとしては、病み上がりを連れ歩くのは避けたい。とはいえ、宿に一人で置いておくのも心配である。結局、くどくど言い聞かせて同行を許可するしかなかった。
「いいわね? あなたが少しでも具合を悪くしたり薬を飲まなかったりしたら、すぐ宿に戻るから」
「わかってますよ! 薬も持ち歩きますから!」
まるきり大人と子供の言い合いだった。
そんなわけでアレクシアはエマを伴い、カーミエールの街の奥へ奥へと向かった。道行く人に何度か尋ね歩き、たどり着いたのは路地裏だった。
「さて、エマ。何も言わずに後で笑っていてくれる?」
「心得ました!」
と、やり取りをして路地に足を踏み入れる。建物はいずれも背が低く、何十年か前に倒壊したまま放っておかれたように見えた。さんさんと陽の光が入り込んで明るい。【大氷河】の姿は見えないが、その光の白さで存在を感じる。
ちなみにどちらも、さっき入った店で新調した服に着替えていた。さすがにリュイスから着たきりのドレスは目立つ。
アレクシアは黒いワンピースドレス、小さい花飾りのついた帽子、レースの手袋。エマはお揃いのデザインの茶色のドレス、花飾りはお下げの先につけて、手袋はしていない。通い慣れた市場に出向く中流家庭の娘とその侍女といった様子になった。
アレクシアは迷わず目当ての店の前まで行き、扉を無遠慮に開いた。カランコロン、ベルの音は重たく室内に反響する。出入り口の絨毯があるところでぱたぱたスカートを振り、ついてもいない埃を払う仕草をしてから、にこり、店主へ微笑みかける。
「今、よろしくて?」
「……どうぞお」
五十絡みの白い髭の生えた男が店主だった。店の奥のカウンターの向こう側で、ぼんやりした表情のまま薄い冊子を開いている。窓から差し込む白い光が真四角に区切られて汚れた床を照らし、壁一面を占領する棚にはぎっしりとあらゆるものが詰め込まれていた。
本当に、なんでもあった。テトラスに流通するすべてのものが、左右にそびえるその棚にあったに違いない。衣類は冬用の羊毛コート、首に巻く毛皮、リネン、神聖集会用の一張羅――すなわち庶民の家の中で唯一まともな服。貴金属は結婚指輪にねじ巻き懐中時計と魔法式で動く腕時計、金のブローチに銀の簪、従軍で得たらしいなにがしかの戦いの勲章金メダル。錆びたミシンや鉄のアイロン、果ては鍋だのフライパンだの。ひょっとしてそれらが乗っているテーブルと、革が禿げた椅子さえも商品なのだろうか? 携帯用ハープの弦は切れ、理容師が使う髭剃りハサミはおかしなことに分解されたまま、もう片方の刃が見当たらない。
「冷やかしはお断りだよ」
と店主は冊子に目を落としたまますげなく言った。アレクシアを見もしなかった。彼女は丹念に店の中を見て回ると、かがんで店主の座るカウンターに手をついた。
「ねえ、リュイス王国のものはある?」
「知らんね。みんなして何でもかんでも持ち込んでくるからな、特に生活に困った輩は。探せばあるんじゃないか」
「これ、質草にしたらおいくら?」
魔法のように手のひらから取り出したのは、無骨な金の台座にルビーが嵌め込まれた指輪だった。こうした換金性の高い宝飾品をあちこちに身に着けるのは、旅慣れた者の鉄則だ。
店主はアレクシアはのほっそりした指ごと指輪を睨み、鉛筆を弄んだ。冊子はよくあるパズルの雑誌だった。正解の回答を郵送すると翌月表彰される、仲間内の遊びみたいなもの。
「十五ダリアと六ミル。これ以上はまからんね」
「安くない?」
「あんた、このへんは素人だろう。紹介状もなしに、言い値を払ってもらえるとでも思っていたのかね?」
酒焼けした赤い頬にうずもれた目の眼光は鋭い。アレクシアはにやっと笑った。
「いいわね。想像通り」
一ソルダ金貨は二十ダリア銀貨。一ソルダで軍馬が買える。
一ダリア銀貨は十二ミル銅貨。もっとも下働きのメイドの月給がこのくらいだ。
つまりアレクシアの金の指輪は、馬に劣るが使用人は一か月なら十五人ほど雇える金額に化けるというわけだ。相場で言えば、二ソルダをふっかけてもまからない品物であるのに。
フュルスト商会をはじめ各国の大商会が他国に浸透する時代になってなお、貨幣の価値は現物より低い。貨幣が通用しないほどの僻地はさすがにないが、ソルダ金貨を見たことがない平民はまだ存在するはずだ。
「じゃ、もう一つ、別のを鑑定してくださる?」
店主は疑わし気に睨むばかりである。苛立ちを現わして、鉛筆の下には黒い点が群れになっていた。
アレクシアは胸元をくつろげた。現れるネックレスの鎖、続いて引き出された真珠と、魔力石のついた飾り部分。
店主の顔色が変わった。
「エヴレン王家の通信機よ。値段がついて?」
「……王女殿下のお客人とはいざ知らず、失礼いたしました」
老人は胸に手を当て丁寧に一礼した。アレクシアは腰に手を当て胸を張る。
「構いませんわ。突然訪れたこちらにも非があります」
通信機能のついた魔力石のネックレス。それは別れの朝、ヴィヴィエンヌが持ち歩いていたものをアレクシアが譲り受けたのだった。王女の護身用であるからには、当然一級品であり、身分の証明にも用いることができるものである。
彼らは王家直属の諜報機関の人間たちだ。バルドリック王のため、こうして主たる街や村に潜伏し情報を集める影の者たち。
「姿の見えない方々にも非礼をお詫びします」
と、アレクシアは続けた。天井裏、店主が持たれる壁の向こう、それからおそらく、床下。彼女に気配を感じ取れるのはそのくらいであるが、複数人がいることはわかる。
店主はやれやれと伸びをした。鉛筆は放り出され、床に落ちて店の奥まで転がっていく。
「よくわかるもんだ」
「私も国ではこういった護衛に守られていますから。次第に敏感になるものです」
「この店のことは、殿下から?」
「いいえ、自力で見つけました。明らかに看板が変でしたもの。――でしょう、エマ?」
声をかけられたエマは少し肩を跳ねさせたが、すぐに緊張の面持ちで説明する。
「はい。ギルドの加入証明である五連の金貨の模様がずれていましたし、路地裏に古くからある店構えにしては、商品がすべて均一に埃を被っています。長年に渡って出しては入れられしてきた品揃えではありません」
店主は苦笑し、姿を見せない数人も同じようにしたらしかった。
「ああ、ここは急ごしらえした仮の拠点だからね。やれやれ、見る人が見ればわかるもんだ」
「情報を集め終えたらすぐに出ていくのですね?」
「そうだとも、お客人」
「では、出ていく前にどうかお力添えを。仲間を殺した者を見つけたいのです」
アレクシアは言った。店主は悲しげに首を横に振った。
「フュルスト商会の五人だね? かわいそうに。すると、お客人はリュイスの関係者か」
「私は――」
「ああ、やめてくれ。こういう商売をしているとね、人の名前はあまり聞かないようにしいてる。すぐにいなくなったり、名前が変わったりで切ないからねえ」
店主は引き出しを開け、そこにあった万年筆の筆先でさらに隠し底を開き、一枚の紙を取り出した。胸ポケットから分厚い眼鏡を取り出し、目を細めながら文字を読む。アレクシアからはどうでもいいメモ書きに見えても、読む者が読めば重要情報の暗号なのだろう。
「他の四人をアルバ河に突き落としたのはエドマンド・ハロドだよ。彼が明け方に死体を運ぶのを見た者がいる。袋に入れられた人間大の大荷物を四つ、荷馬車に積んで、アルバ河まで運んだところをね」
「そんな……」
エマが口元を手で隠し、呟く。
アレクシアは自分で思っていたより衝撃を受けない自分に、やや驚いた。
「その、見た者とは?」
「我々の身内だ、としか言いようがない。王女殿下の名誉に賭けて、決して嘘はつかないよ」
「そう……」
アレクシアは唇を噛み締め天井を仰いだ。
困ったことに、真実を告げられたのだとわかっていた。証言がすべてムズの幻視と一致する。口裏合わせはありえない。あのムズがエヴレン王家の手の者と仲良くするはずがない。ウラリール・ミストヴェルは戦死したが、その死を国威高揚のため利用し尽くしたのが王家だからだ。
また、彼らがアレクシアに嘘をつく理由はない。遠方の人間と言葉を交わせるこのネックレスは、この世に残っている数少ない魔道具のひとつである。リュイス留学のためテトラスを旅立つヴィヴィエンヌに、バルドリック王が手ずから授けたといういわれのあるもの。アレクシアはこの魔道具によって身元を証明した。この世に百も残っていない魔道具を、王女ヴィヴィエンヌから預けられた身分であると。
彼らがアレクシアに誠実に接する理由は、このネックレスだけで十分なのだ。
店主は娘二人から目を逸らし、静かに言った。
「予感していたようだね」
アレクシアは歯の隙間から言葉を絞り出す。
「ジョードメル協会が――ヤーヴェ・クラックが私の元に現れたのは、あまりにタイミングがよすぎたわ。あらかじめ見張られていたと考えるべきだし、ああ、それに。クラックはフュルスト商会の債権の持ち主が私だということを知っていた」
息切れがした。くらくらと視界が回った。だがアレクシアは拳を握って耐えた。
「そこまでの情報は、中枢に近しい者しか知らないわ。エドマンド・ハロドは商会でも最古参で、父の信頼篤い交渉役だった。彼から洩れたのだと考えれば、納得がいく」
目の奥で記憶がちかちかする。ゆるゆると現実を受け入れ始める。
彼は父がファーテバに腰を据える前から、商会に参加してくれた。幼いアレクシアは彼に抱っこしてもらったり、高い高いをしてもらったりした。双子だってそうだ。年若いリトルト・グレゴーと婚約者の間を取り持ったのも彼だ。いつか彼らの結婚式で、手柄を吹聴してやるのだと豪快に笑っていたっけ……。
だめだ。引きずられてはだめだ。
アレクシアは目を開く。
彼女は服の上からネックレスの鎖をもう一度確かめ、帽子をかぶり直した。心得たエマが扉までいく。踊るような足取りで。
「どうもありがとう、名も知らぬ方々。あなた方のおかげで突破口が見えたかもしれません。エヴレン王家とヴィヴィエンヌ王女殿下のご名誉に祝福があらんことを」
スカートを広げて丁寧な一礼をするアレクシアに、店主は立ち上がった。その背後の何人かがどうしたのかは、わからない。
「いやなに、仕事をしただけさね。年若い隣国のお嬢さん、バルドリック王陛下のご治世が弥栄に続きますよう、祈っておくれ。それで充分だ」
アレクシアとエマは店を出た。小さな居心地のいいごちゃついた空間を後にしたからだろうか? カーミエールの街はいやに冷たく静まり返って見える。北方にそびえる【大氷河】の威容も冴え冴えと抜けるように白い。空気までもが青く、白く、凍てついて。
「冬がきますね」
エマが呟く。
「ええ、その前に」
すべての決着を。――アレクシアは頷いた。




