ヴィヴィエンヌ・セレステの場合
アレクシアはフュルスト商会長秘書だ。商会長の娘という立場にともない稀にだが父の代理人の役を果たすこともある。
父親の操り人形だとも、母親似の多情な娘だとも、色々言われる。何を言われてもアレクシアは揺るがない。彼女が大切にするのは家族と、家族みんなで作り上げた商会だけだ。
とある商談を終えてアレクシアは貴族の屋敷を出た。車寄せに馬車が待機している。慎ましい小さな二輪馬車だが、目立たないところに商会の紋章が刻印されている。
艶やかな土色の髪は腰骨まで伸びた。たっぷりした一束が頬にかかって、彼女は鬱陶し気にそれを払った。正直、切ってしまいたい。だがこの髪は見る者が見ればアレクシアだとすぐわかるトレードマークになっていた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
「ええ」
専属の護衛騎士が堅苦しく頭を下げる。不名誉な冤罪でもって国を追われた彼を父は助け、家族の生活を保障し、彼にこの仕事を与えた。よって彼は命がけでアレクシアの身の安全を守るだろう。
「いいわ。出して」
詰め物をした座席にすっぽり収まってアレクシアは合図した。御者がぴしゃりと鞭を振るう。乗り心地のいい道だった。騎乗して後ろからついてくる護衛騎士の馬蹄の音がよく響く、石畳だ。
西の王国、テトラス。夏の離宮がある湖のほとりの街、ルスビア。王女が主催するティーパーティーのため、アレクシアはこの国を訪れていた。
テトラスと生まれ故郷リュイスは隣国だが、文化や言葉も似ているようで違う。先ほどの商談はファーテバが産出する小麦の流通量調整についての最終確認だったが、計量単位が違う上に商人たちの使う独特の隠語についていけず難儀した。
「でもいい経験だったわね」
とアレクシアはひとりごちる。道はあくまでなめらかに続いている。テトラスの交通網はリュイスとは比べ物にならないくらい優れていると知れたのは、収穫だった。
やがて道はさらに広くなり、多くの馬車や乗合馬車、そして通行人が行きかうようになる。散歩される犬もいれば野良猫もいる。ここはリュイスとも、旅してきた他のあらゆる国とも変わらない。
大きな公園があり、人々が昼下がりの陽光を楽しみながら歩いているのが見える。中央には巨大な噴水。涼しい風が窓ごしに入り込み、アレクシアは目を細める。
「――止めて!」
彼女は窓の桟を叩いて合図した。馬車が止まるのを待たずに降りる。
「お嬢様」
「そこにいて」
護衛騎士と御者を馬車用の広い道に待たせ、通行人用の歩道に入り込んだ。
あたりの人々も似たようなものだ。広い道に人はまばらである。よく見れば、貴族は貴族同士、平民は平民同士で挨拶を交わし、いっとき集団になってはばらけているのがわかる。
アレクシアはそっと、令嬢たちの集団の一つに近づいた。
「ヴィヴィエンヌ・セレステ様」
と囁き声で、目を伏せ敬意を示しながら一礼する。
集団の中央にいた令嬢が立ち止まった。レースがたっぷりついたパニエ入りのスカートがふんわりと揺れ、白い日傘の下、仰向いた顔は繊細である。白っぽい金髪に、緑の目はテトラス貴族の純血の証。周りの令嬢たちもまた、似たような色と顔立ちを持っていた。
「はじめまして。フュルスト商会のアレクシアと申します。偶然、お見掛けしたものですから、分を弁えずご挨拶させていただきたく……」
「まあ」
と、この国の王女はほのかに微笑む。貴婦人の笑みはどこの国の誰のものでも似通っている。内心を感じさせない優雅で透明な笑み。
「存じておりますよ。我が国に南や北の国の珍しいものをもたらしてくれたそうですね。わたくしも、我が父も、ありがたく思っているのですよ」
「ありがとうございます。姫様におかれましてもご健勝にあらせられ、何よりでございます」
「こちらこそ。ティーパーティーには来て下さるのかしら?」
「はい。ご招待いただきましたので僭越ながらお邪魔させていただこうかと。私と、――あの者とで参ります所存です」
と、アレクシアは後ろを指し示した。護衛騎士は馬から降りて、周囲を警戒している。景観のための樹のそばでつくねんと立ちすくむ御者とは対照的だった。
彼を見る王女をアレクシアは目の端に留める。ヴィヴィエンヌの美貌はおっとりと落ち着いて、なんの動揺も見受けられない。
「また当日、ご挨拶させてね」
「光栄です、姫様。皆々様もまた、ご健勝であられますよう」
アレクシアはスカートを持ち上げ、丁寧に一礼した。令嬢たちはおのおの、頷いたり、目くばせをしたり、ある者はごく簡単な会釈礼を返してくれたりした。血筋はともかくアレクシアはあくまで商人の娘であり、彼女らに同等の礼を返してもらえる立場ではない。
その場から立ち去り際、アレクシアはヴィヴィエンヌにそっと、一瞥を送った。王女がそれをどう受け止めたかは、定かではなかった。
さやさやと麗しい衣擦れを立てて一行は立ち去る。姿を隠していた王宮の護衛騎士たちがそれを追い、侍女らしき老婦人はアレクシアの無礼を咎めて首を横に振る。平身低頭、やり過ごしながら彼女は内心で舌を出す。
(やったわ。これなら――ヴィヴィエンヌ様を王族から引きずり下ろすことができる)
なんの罪咎もない可憐な少女であるが、仕方ない。アレクシアの復讐のため、役立ってもらう。
その夜、宿屋に落ち着いたアレクシアの部屋の扉を叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
入ってきたのは護衛騎士である。アレクシアは肩をすくめた。部屋の中には彼女の他に父から遣わされたお目付け役、兼会計係の老人がいる。それを知っているので、護衛騎士も未婚女性の部屋に入ってこられたのだろう。
「なあに、何かあったの?」
話の主題はわかっていた。だがアレクシアはあえて聞いた。老人がお茶を淹れ始めた。
「お嬢様――お嬢様、あなたはどこまでわかってるんですか?」
「なんのことかしら? わからなくてよ」
「身内相手に商売のようにとぼけなくてもいいじゃないですか! それとも、俺のことなんて身内とは認めてもらえないんでしょうか。問題がある男だから?」
彼は自嘲する。アレクシアは大きな書類机から立ち上がり、老人がお茶を並べた丸いテーブルへ移動した。広い特別客室は、金に糸目を付けぬ豪勢な内装である。湖から渡ってくる心地よい風が頬を撫で、土色の髪が揺れる。虫よけの香のどこか懐かしい香り。
「どこの問題のことを言っているのかしら、シルヴァン・ミストヴェル? あなたが元テトラス貴族の名門ミストヴェル侯爵家の嫡男であり、叔父に父を見殺しにされ家を乗っ取られるまでヴィヴィエンヌ様と婚約していたこと? それとも我が父フュルストがそれを知ってあなたを騎士として雇ったことかしら? あるいは、復讐しなかったこと?」
彼はぐっと押し黙り、がくりと肩を落とした。
「全部お見通しだったってわけか。……旦那様はやっぱり、俺のことをあなたに話していたんですね」
「いいえ、すべて私が独自に調べたことよ。間違っていなくて?」
本当は、小説の知識をもとに齟齬を探した結果なのだがそのことは黙っておく。アレクシアはお茶のカップのふちを撫でる。
シルヴァン・ミストヴェルの父親は軍閥を率いる貴族だった。二十年前、リュイスとの国境紛争に派遣され、そこで落馬した。助かる傷だった。だが副官として連れてきた実の弟が治療を受けさせず、見殺しにした。
暗殺されかけたシルヴァンを逃がし、母は崖から飛び降りた。遺体は上がらなかった。すでに取返しのつかない、悲しい過去。
「ヴィヴィエンヌ様はあなたのことを覚えていたようだったわよ」
「まさか! あの人、俺を見ても身じろぎもしなかったじゃないですか。お嬢様の勘違いですよ」
「いいえ。女のカンよ。ティーパーティーでそれとなく隙を作ってあげるから、話しかけてごらんなさい。絶対に覚えているし、未練もあるわよ」
シルヴァンは情けない顔をした。信じていないのはわかったが、それでも彼は当日、王女に話しかけるだろう。人目につかないところで、ひっそりと。すべてを忘れて生きるにはシルヴァンは若すぎ、優しすぎる。
「俺が……俺なんて。許されません。俺は一介の騎士ですよ。姫君に話しかけるだなんて、できません。恐れ多い」
「まあ、シルヴァン」
アレクシアはころころ笑うと、手を付けなかった方のお茶のカップをシルヴァンに差し出した。
「今は壊れた時代よ。王が忠誠を誓う貴族を敵とみなし、己の手駒しか信用しないというのに、どうしてなお、規律を守る必要があるというの?」
「ですが、俺は決めたんです。バルドリック王は叔父の反逆を知っていて許しました。母の不審死も改めようとしなかった。王に認められたなら、叔父がミストヴェルの当主ですよ。今更波風立てたくない。――ヴィヴィエンヌ様には幸せになってもらいたいんです」
「愛しているのね」
「はい」
彼は即答した。
そもそも小説においてシルヴァンは子供の頃に死ぬ。母親とその子供が抱き合った状態の遺体が上がるのだ。
テトラス国との戦争が起き、そこで主人公ザイオスは手柄を立てて出世するが、その手柄というのがシルヴァンの叔父の首級を上げることなのだ。そしてテトラス国王の信頼を得たザイオスはリュイスとテトラス双方の架け橋となる、という物語……。
ちなみに王女ヴィヴィエンヌとの淡い恋物語でもある。死んだシルヴァンはそのスパイスにされる。
させるものか。あの異母弟にそんなおいしい思いをさせるなんて、許せるものか。
アレクシアは毒を吐く。フュルスト卿か母ルクレツィアが見たらこう評したかもしれない、ちろちろ舌を出す蛇が見えるよと。
「では、お話なさい。これは命令です。互いの心を打ち明け合うの。どんなに苦しくても。馬鹿みたいでもね」
「……」
シルヴァンは温かいカップを受け取った。まなざしの向こうに、かつて踏みにじられた少年が見えた。
あと一押し。アレクシアは柔らかく微笑む。両手を胸の前で合わせ、まるで祈る聖女の像のように。
「ヴィヴィエンヌ様はバルドリック王のため、リュイスのマリウス王子とのご婚約が内定しているわ。あの王子様よ。それでいいの?」
明らかに顔色が変わり、シルヴァンはカップを取り落としそうになった。老人が慌てて飛び出し、ぶつぶつ言いながら中身ごとをそれを回収する。まあそりゃそうだ、そのカップはシルヴァンの月収より高いのだから。
リュイスのマリウス王子は、父タリオン王の強硬路線を妄信している。信奉しているといってもいい。貴族を見下し、平民あがりの秘書や管財人や諮問官を重用し、貴族から取ったぶんが自分のものになると信じ込んだ無鉄砲な若者だ。
そして無類の女好きであり、学院で手を出した女生徒の数は両手の指では足らないという。
シルヴァンの拳が握りしめられるのを、アレクシアは眺めた。
そうして、ティーパーティーの日がやってくる。
アレクシアははしたなく高い声で笑い、割り込むようにフュルスト商会の名を売り込み、令嬢たちにすり寄った。何も計算ばかりではなく、まだ新興の商会である以上名前を覚えてもらうことの方が先で、眉を顰められるのはあとである。さすがあの母親の娘だと影口叩かれることがあっても、意に介さない。
そうしてできた隙を突いて、護衛騎士の兜をかぶったままシルヴァンは姿を消した。続いて、王女ヴィヴィエンヌも。
それから何があったのか、アレクシアは知らない。
王女ヴィヴィエンヌたってのご要望により、フュルスト商会から一人の護衛騎士が献上されたこと。彼は彼女にどこまでもついていくと誓ったこと。知っているのはそれだけだ。
ティーパーティーは平和に幕を閉じた。南国ファーテバから持ち込んだ小さなガラスの香水瓶を気前よくあらゆる人間に配り歩いたおかげで、アレクシアの評判は下がり、また上がった。結果としてフュルスト商会は三つの下水道工事と一つの街道補修工事を受注し、あるお屋敷に上質なステンドグラス百六十一枚を納品することとなった。
その商業的成功を前に、護衛騎士ひとりの雇用契約の話など些細なことである。ただアレクシアは、彼らが幸せであることを願う。
帰国の船のタラップに足をかけ、アレクシアはバルドリック王の夏の離宮を振り返った。
「安心してくださいね。マリウス王子なんかに幸せを壊させやしないから」
と呟いた言葉を聞いた者は、お目付け役の老人だけである。