ミーゼリアン⑤
遺体を見つけた翌々日。ムズとの契約が成って、すぐ翌朝のことである。
起き出したアレクシアの隣のベッドでエマはまだ寝ていた。珍しいこともあるものだった。彼女は自分こそがアレクシア第一の侍女だと心得て、どんなときでもアレクシアより早起きするのに。
エマを起こさないように静かに起き出し、身繕いしていると、とうのエマが苦し気に息を吐く。額に手を当てると高熱である。アレクシアはスカートのめくれもそこそこに街へ飛び出し、まだ寝ぐせのついた灰色の髪を編んでもいないムズを叩き起こして連れてきた。
不機嫌を隠しもせず、とりあえず薬草入れだけ持って出てきたムズはズケズケとものをいう。
「疲れが出たんだろ、そりゃいきなり外国に連れてきてあっちへこっちへ引きずりまわして――エッ? 知り合いのご遺体を見たぁ? なんでそんなもん見せるの。ひどいことするんじゃないよ、こんな若い娘さんにさあ」
「……不可抗力と言いたいところだけれど、避けられた面はあったわ。ごめんね、エマ」
アレクシアは素直に反省した。エマは体力があるように見えて、気力でもっているところのある娘である。限界まで無理してしまうたちなのだ。
アレクシアの冷たい手が心地いいのか、ぜいぜいしながらエマは涙目で主を見上げる。
「ご……」
「ごめんなさいはナシよ。いいこと? 私が起きていいと言うまでここで寝ていること。命令よ。いいわね?」
「……はい」
ムズの煎じた薬草茶を飲み、身体から力の抜けたエマはなんとかそれだけを言った。自責の念がありありと見える赤い顔に、そばかすになり切らなかった一群の点々が浮いている。
ムズは北側の隣の建物に接したまだ暗い窓を開くと、桟に薄く張り付いてまだ溶けていなかった氷の層を剥がして砕いた。それを薄い布にくるんで、エマの額に乗せる。
「女主人にときどき水を飲ませてやれって頼んでおくよ。リュイス人じゃなく私が言えば聞いてくれるだろう。彼女の甥っ子を治してやったことがあるからね」
病人には優しい手つきで額を撫で、アレクシアには厳しい目を彼女は向けた。
「それじゃ、行こうか。私は早めに片を付けてウラリールの血筋に会いにいく」
それでそのようになった。
街はすっかり明るくなっていた。ちょうど出勤や用事に家を出る時間なのか、大人たちが忙しなく行き来し子供たちは煉瓦の上で白い息を吐いて遊んでいる。
アルバ河のほとり。多くの人々が行きかう大通りの東隣に舗装された煉瓦道はあった。
「遺体があればたくさん情報がわかったかもしれなかったのに。リュイスに送り返しちゃったの? その前に私を呼んでくれればよかったのに」
と、ムズは頭をかいた。灰色の前髪がかすかに寝ぐせで跳ねている。アレクシアは腕を組む。
「彼らは私の父の友人であり、私の友人でもあった。外国の冷たい地面に寝転がらせていることなどできなかったのよ。こればかりは譲れない」
「……ああ、リュイス人の信仰か。遺体に魂がまだ残っているという」
「ええ。テトラスでは違うみたいだけど。ま、この話をしても仕方ないわね」
アレクシアはすっかり洗い流された煉瓦の道を静かなまなざしで見た。睨みつけた、と言っていいかもしれない温度の視線だった。怒りは人間の原動力になると同時に、冷静さを削ぐ。彼女のすべきことは道を睨むのではなく、まず落ち着くことだった。
「検死の結果は?」
「あるわ」
連れてこられた街医者に金を払って写しを貰ったのである。アレクシアが渡した何枚かの書類をムズは検分する。
そびえる【大氷河】に目をやる者は誰もいない。その威容は、そのまま異様なものにも見える。アレクシアは欄干にもたれ、行きかう人々の分厚いコートとマフラーの裾を数えた。その間にも、頭の奥でつらつらと考えていた。――どうすれば間に合ったのかを。
女王になる夢が中央で踊る。女王になったアレクシアだ。白いドレスを着て、頭には王冠……双子がその周りで踊る。父や母の顔が優しく微笑むのにつれて、商会員たちが、父とともに商会を支えてくれる大人たち、いずれそうなることを夢見るまだ子供の若者たちの笑顔が、踊る、踊る……もういない人たちが。
むらむらと、怒りが込み上がるのを欄干の鉄に爪を立てて阻止した。爪の根本がギリギリと音を立てるまで、先を食いこませる。
思えばここに来るまで、関所を通るたびにミフトル男爵は関税を支払っていた。フュルスト商会はこうした税金の支払いを遅らせたことなどなかった。生真面目な支払い、意味のない接待、小役人への賄賂。商売の手を広げるにあたって必要な何もかもを文句を言わずこなし、テトラスの慣習に従った。それは報告書からも、そして父フュルスト卿がこれまでやってきたやり方からも明確な事実だ。
エドマンド・ハロド、ナッサン・フィリオ、リトルト・グレゴー、ロズ・クォウッド、トリエッテ・ハミルト。
我々は何ひとつ、悪いことなどしていなかった。それは神々に誓って言える。少なくない実入りを周囲にもたらし、これからもっともたらすはずだった。彼らはアレクシアの仲間だった。
誰が? どんな目的で、あんなことをしたのだ? あんなひどい、むごいことを……よくも……。それとも、フュルスト商会は悪くなかったのだろうか? 防衛線が構築されたから。テトラスがリュイスへの憎悪を思い出したから。その、若干の政治の揺らぎが、彼らの命を奪ったのだろうか?
いくら考えてもわからない。アレクシアは書類を読み終わったムズを見る。もはや魔法使いが、魔法だけが頼りと言っていい。
「だいたい、わかった」
ムズは書類を二つ折りにしてアレクシアに返した。ぐるぐる肩を回すと、古いローブから数々の薬草の香りが立ち込める。
「一応言っておくけれど、魔法は万能ではないよ」
「わかってるわ。でもきっと、あなたならできるって信じてる」
「あんたの未来を知る力とやらも、信じたわけではない。そういう魔法があるのは知っているし、かつて異種族が持っていた異能力が稀にではあるが人類に顕現することもある。魔力がなくても異能を持つ者はいる――でも、あんたからはそういう感じもしない。正直言ってうさんくさい」
「そりゃあそうでしょうね」
「私があんたのため力を奮うのは、ミストヴェルの血筋のためだ。あんたのためじゃない」
「もちろん。それでいいのよ。あなたはウラリール様の魔法使いなんだもの」
もう百年も前に亡くなった人の名前を口に出すと、ひどくそぐわない服装で社交界に出てしまったような気がした。ムズの口の端に、ちらりと笑みがひらめく。まるで、わかってるじゃないと言うかのように。
そうして魔法が始まった。それは呪文の詠唱があるわけでもなく、音や光が現れることもなく、とにかく不可思議な現象は何一つ起こらなかった。それでも、アレクシアはそれに見惚れた。
集中するあまり、ムズの額に無数の青筋が現れる。祈りの形に握りしめられた両手は、力を籠めすぎて骨の鳴る音が聞こえるようだ。
彼女はこの場所で起こった、過去を見ている。魔法には属性があり、基本的に一人の魔法使いは一つの属性しか操ることができない。ムズの魔法は闇属性。彼女は夜や影、人間の心の暗く淀んだ部分に影響する魔法を使うことができるのだ。
幼い頃に魔力を現したムズのことを、両親は大喜びで売り払ったという。売られた先は牧畜の神クーロ・フォーロスの神殿で、そこで巫女による魔法の訓練を受けた。まだ、リュイス王立魔法学院が今ほど大々的に生徒を集めていなかった時代のことだ。
そのまま神殿の巫女として自由のない生活を営むことを定められたムズを、行儀見習いのため預けられたウラリールが見つけた。二人は友情を育み、互いを大切に思うようになり、長じたウラリールはミストヴェル女侯爵となり、法外な金額を支払ってムズを神殿から貰い受けた。
そうして二人は同じ時間を歩み、戦争によってウラリールは落命した。ムズはしばらくミストヴェル侯爵家の魔法使いとして仕えたが、ウラリールの名声を我欲のため利用する子孫のふるまいに嫌気がさして、出奔した。
その最たるものが、シルヴァンの父オストンを見殺しにしたタルヴェルの悪行だろう……。
ムズの目が開いた。宵闇より黒い目が底知れぬ深さでもって河の流れを凝視する。
彼女は闇の魔力によって過去を幻視したのだ。フュルスト商会の面々が殺されたのは、五日前。エマがアレクシアの部屋に駆けこんでくるその一日前には、すでに息がなかったのだと街医者は言った。アレクシアには受け入れがたい。だが、これで真相がわかるだろう。ムズが見るものはすべて真実だと、小説にはあったし――今ここにいるアレクシア自身も、魔法使いが魔法に関して嘘をつくことがどれほど難しいか理解している、つもりだ。
「男がみんなを荷馬車に積んでここまで連れてきた。担いで、河に突き落とした。みんな。四人全員を」
「――四人ですって?」
「かわいそうに、薬を盛られていたんだろうね。昏倒していたみたいだ。その上、縛られている。その状態で河に。ひどいことだ。せめて苦しみが少なかったことを祈ろう」
「おかしいわ。死んだのは五人よ。その犯人は誰で、残り一人はどうしていなかったの?」
ムズは静かな口調で、混乱するアレクシアを叱るように言った。
「ばかだね。どうしてわからないんだい? 一人が、残りの四人を気絶させて河に連れてきたんだよ。犯人は三人のリュイス人の男のうちの一人だ。さすがに女が大の男を担いで欄干を越えさせ、落とすまでやるのは無理だろうから」




