ミーゼリアン③
夜。カーミエールの南の区画にアレクシアは宿を取った。ほどほどのランクの小さく古い、清潔な宿である。鍵をくれるときに店主が二人をリュイス人だと気づいて忠告してくれた。
「気を付けなよ、今の王様はリュイス嫌いだから、ドレフのあれこれにかこつけて宣戦布告するかもしれないよ。厄介ごとに巻き込まれたら……」
「わざわざ、ありがとうございます。用事を済ませたらすぐ出国しますから」
「ならいいがねえ」
中年女の肥った頬の肉に埋もれた小さな目に心配されながら、二人して少ない荷物を二階へ運ぶ。階段は一段上がるたびに軋んだ。この国では【大氷河】の冷気のせいで、どこへ行っても霜や隙間風によって建物が傷んでいく。
エマと同室の小さな部屋に腰を落ち着けると、さすがに疲れていた。アレクシアは結い上げた髪をほどき、ベッドに座って手のお椀に顔をうずめた。
「アレクシア様、お湯をもらってきますね。お顔を洗いましょう。それとも、もうお風呂にしますか?」
「まずは洗顔でいいわ。あなたと私、二人分もらってきてちょうだい」
「はあい」
コインを手渡されたエマが跳ねるように階下へ下がってしまうと、アレクシアは苦笑する。初めての外国、初めての旅行、何もかも初めてづくしの経験に、エマは疲れ知らずだった。
アレクシアは胸元を探り、下着と服の間に隠したネックレスを引っ張り出した。真ん中に真珠、周りに青い宝石が埋め込まれた逸品である。記憶をたどりながら宝石を順番に叩いた。宝石は魔力石である。術式を正しく発揮させる順番になった魔力石の内部に記された魔法式が、ぐるぐる回って効力を発揮する。
フィリクス・ルミオンに生家の様子を探ってもらったときは、傍聴魔法の式を書き込んだ魔力石があればこと足りた。彼は微小ながら魔力を持つ傭兵であるから。しかし魔力のないアレクシアでは、顔も知らない魔法使いが書いた式を利用することでしか、魔法の恩恵を得ることができない。
アレクシアは古いベッドを軋ませながらぱたりと上半身を倒した。ブーツ、脱いでおけばよかった。ふらふらと爪先が床に擦れる。やがて魔法式がぴかぴか光って、目に見えない魔力が空気中を走っていく。やがて通信が始まった。向こうもちょうど部屋に下がったあたりらしかった。
アレクシアはひそめた声を上げる。
「ヴィヴィエンヌ様?――シルヴァン?」
ややあって、ヴィヴィエンヌの声がした。
「アレクシア様ですか? そちらは、いかがです?」
「順調ですことよ。シルヴァンを知っている魔女を見つけたわ。これで……」
あっ、きゃ。とかすかな悲鳴が聞こえ、アレクシアは慌てて身を起こした。ネックレスの向こうに映像は見えない。映像まで運べる通話魔法機ともなると、国が買えるくらいの値段になる。アレクシアが用意できたのは、せいぜい遠方に声を届けることができるこの小型の魔法機くらいだった。それでも平民なら手が届くものではないし、貴族でもかなり勇気のいる買い物である。
「ああ、ごめんなさいアレクシア様。通信機を落としてしまいましたの。壊れてないかしら?」
焦った様子のヴィヴィエンヌの声が聞こえてほっとした。笑顔が相手に見えないのを失念していたアレクシアは、慌てて朗らかな声を上げた。
「こうしてお話できているもの、きっと大丈夫ですわ。それで、こちらは順調です。商会員たちの仇は打ちます」
息を呑む音のあと、緊張した固い声が返ってきた。
「……わたくしたちも、できるだけのことをします。幸い、父上はすぐに次の嫁ぎ先を出してくるわけでもなさそうですから。何か知っていそうな貴族がいたら、ご連絡しますわ」
「お願いいたします。でも、くれぐれもご無理なさらないでね。ご自分とシルヴァンを大事にしてください」
「心得ましたわ」
少しだけ得意げな声である。やはり顔が見えないというのは会話がしづらい。アレクシアは舌打ちしたい気分だった。
「お父上は、バルドリック王陛下はリュイスについて何かおっしゃっていますか?」
ヴィヴィエンヌが首を横に振るのが目に見えるようだった。
「父は娘などにそんな大事なこと言ってくれませんわ。女官たちも、何も知らないよう。シルヴァンさえもこの私室には入れてはいけないことになっておりますの」
「……彼の身元が誰かにばれる心配は?」
「大丈夫、誰も幼い頃にいなくなった貴族の嫡男のことなど覚えていません。とくにテトラスでは、時が流れるのが早いんですの」
あまりにきっぱりとしたもの言いに、こちらの方が少し動揺する。ヴィヴィエンヌは早口に続けた。
「ああもう、すぐに誰か来てしまうんだから――それではアレクシア様、ごきげんよう。その、ミストヴェルの魔女のおんかたのお話、どうかまた聞かせてくださいまし」
「わかりましたわ。ごきげんよう」
通話が切れた。ちょうど、魔力石に貯められた魔力も切れたあたりだった。魔力石は自動的に空気中の魔力を吸うのだという。明日には充填され、明後日には再び通話ができるようになるというのだが、本当だろうか?
疑惑のまなざしをネックレスに注ぎ、アレクシアはそれをサイドテーブルの引き出しに入れた。肩から首から、身体じゅうがこわばって痛んでいた。慣れない山道を歩き、【大氷河】の冷気に晒されたせいかもしれなかった。
頭のなかをぐるぐると、回る記憶に翻弄されて彼女は再びベッドにつっぷした。よく日に当てた真新しいシーツと、羊毛の香りがする。まるで太陽の下にいるかのようだった。
――ほんの三日前のことだ。
リュイスを出国して街道を駆け抜け、一行はテトラス南西の貿易都市カーミエールに行きついた。
アレクシアは真っ先にフュルスト商会のテトラス支部へ向かった。裏路地とはいえないが大通り沿いでもない、ひどくごちゃついているわけでもないが金持ちの区画というわけでもない、そう、ちょうどこの宿があるような繊細さがまだ残る東側の一画に、その建物はあった。二階建ての一軒家を借り上げ、一階を仕事場に、二階を商会員の住居にしていたはずだった。どの階にも住人はおらず、また一階にあったはずの書類や帳簿も何もかも消えていた。
通常の失踪ではないことは一目見て分かった。あまりにも、不自然すぎるのだ。まるで住人が昼休憩でちょっと席を外しただけのように、机の上にはカップが置かれたまま。冷えたお茶が入ったままである。人間と書類だけが消えている。明らかに何者かの意志が介在していた。彼らを連れ去り、その結果何かを成し遂げたいと考える者がいたのだ。
アレクシアは一通り支部の中を見て回り、青白い顔で立ちすくんだ。
「彼らが死んでいたら私のせいだわ」
出遅れた、自分のせい。あるいは、どんな敵が襲来しても立ち回れる人材を配置しなかったフュルスト商会のせいだ。
ぬかった。基本的に外国の土地で活動する商人や外交員は、国王や大貴族の保護を受けるものだ。フュルスト商会ももちろん、テトラス国王バルドリックの庇護を受けていた。多額の献金とひきかえに。法律と国と王の庇護をものともせずその保護下にあった一般人をどこかへ連れていくなんて、いったい誰が、なんの目的で?
「護衛を増やすべきだった……。もの慣れた、どんな状況下からも彼らを連れて逃げられるような騎士を」
アレクシアは拳を握りしめた。ヴィヴィエンヌはおろおろと両手を上げ下げし、シルヴァンは気まずげに頬をかく。床の上の絨毯は剥がされ、寒々しい木材が露出していた。壁紙もだ。誰かが何かを探した跡。窓は開け放たれカーミエールの街の雑音が響く。ミフトル男爵が玄関口で所在なさげに立っていた。やがて、エマがぽつんと言った。
「どうします、お嬢様? このままテトラスにいますか、それとも帰国なさいますか?」
その言葉にアレクシアは顔を上げ、ふうっと息をついた。
「できるだけのことをするわ。彼らが生きていても死んでいても。なるべく情報を集めるの」
それで、そういうことになった。
ヴィヴィエンヌとシルヴァン、そしてミフトル男爵とはそこで別れた。高貴なる貴婦人、尊き王女殿下であるヴィヴィエンヌをまさか一介の商会員の消息を知るため連れ回すわけにはいかない。当たり前のことである。
馬車の前で別れを惜しむヴィヴィエンヌとエマを横目に、アレクシアはシルヴァンにつかつかと近寄った。彼女の頭の中にはすでに、この街で自分に役立ちそうなものが何なのか目星がついていた。――魔女ムズ。ミーゼリアン・トレイズモア。彼女がいてくれれば、そして味方に付けることができれば、きっと商会員たちのためになる。
「な、なんですか」
「シルヴァン、お願いがあるの」
と、挙動不審になりかける彼に詰め寄り、身辺書の形式で手紙を書いてもらった。
「親しい人に語り掛ける感じで、生い立ちから書いてね。さほど詳しくなくてもいいわ。今元気なことを伝えればいい。親戚に手紙を出すんだと思って」
「俺の生い立ちですか? なんでそんなもんがいるんですか? あと、親戚なんてもういませんよ」
「早く!」
「はい」
という感じであった。ムズが知ったら怒るかもしれない。




