ミーゼリアン①
彼女はうつくしかった。
結びもせずに腰まで垂らした土色の髪はくるくる渦巻く。そのまま種を植えたら芽吹きそうなほどたっぷりとして、深味のある色合いをしていた。眼窩に収まる濃い青色の目は吊り上がった瞼とけぶるような睫毛に守られ、いかにも勝気そうである。引き結んだ口元。泣いたあとの赤い目元。かすかにひくつくこめかみ。
「お金はいくらでも支払うわ」
とうつくしい女は言った。
「仲間たちが殺された、仇を討たねばならないの。力を貸して」
かすかに仰向いた顎の青白さ。ひくつく唇の端に、噛み締めて出た血の跡がついていた。
ムズはぎこちなく彼女から目を逸らす。窓の外にはさんさんと降り注ぐ日光、カーミエールの街並み、都モルセリアへ続く街道の白い一本道が草原へと消えていく様子。都にあるという壮麗な寺院の鐘楼は影も形も見えずとも、その背後にそびえる【大氷河】の威容はここからでも見てとれた。何しろ、天まで届くほど高い山脈だから。
中央大陸の最北部に存在する【大氷河】のことを知らぬ者はいない。大陸いちの大国であるドレフ帝国の北部はほとんど【大氷河】の山裾が占めている。国土の三分の一が山岳地帯であるテトラス王国も、その山岳は【大氷河】の一画である。
大陸の中でこの天高くそびえる大山脈の影響を直接受けない国など、大陸中央に位置するリュイス王国と、その南にあるファーテバくらいである。
春でもその身の雪が溶けることがない。山麓に広がる雪原には数多の断崖が口を開け、突発的な吹雪が渦巻く。【大氷河】は中央大陸を東西に横断し、北には永遠に凍り付いたいにしえの大地があるという。そこは人間には到達できない土地であると言われていた。
【大氷河】はこの大陸に古王国を打ち建てた始祖王が倒したドラゴンの死骸であるとも、そいつの吐いた氷が未だ溶けずに残っているのだとも言われる。
三階の窓からは、その白さがよく見える。白を背負った女の怒りに震える肩までも発光しているかのよう。
「私は――私は、アレクシア。アレクシア・フュルスト。フュルスト商会の長、フュルスト卿の娘よ。そして、テトラス支部のみんなを守らなければならない立場だった」
彼女の土色の髪を通り越し、窓の外のきらきらしい雪の白に焦点を合わせながら、ムズは静かな声で言った。
「何が何やらわからない。どうしてそれで、私のところにくることになる? こんな田舎町の、どこにでもいるただの治療女に、何をしろと?」
「あなたが魔法使いだからよ」
「勘違いだね。どこで聞いたんだい、そんなデマを?」
「いいえ、あなたは魔法使い。魔法使いレディ・ミーゼリアンよ。私はそれを知っているの」
アレクシアが突然、風のような速さでムズに詰め寄ったものだから、小さな古い部屋全体が竦み上がるようだった。アレクシアは悲痛な表情をしていた。ムズの膝の上の編みかけの手袋が、ぱさりと音を立てて白木の床に落ちる。
年老いた女、少なくとも内面はそうだけれど顔面には皺ひとつない、多くの貴婦人が羨むだろう特殊体質を持った女は、降参とばかりに両手を上げた。
「なるほど、その名前を出してくるとは。――どこで聞いたのか、ますます問いたださなけりゃ。いったいどうやって、私がここにいることを知った?」
「それだけじゃない。私は知っているわ。あなたの知りたいことを。あなたの役に立つわ。その見返りとして、協力してほしいと言っているの。これは取引よ」
真剣な濃い青い瞳。ムズはまぶしくそれを見つめ上げる。嘘をついている気配はない。テトラス西部の街カーミエールの喧噪が、薄い扉を通して漏れ聞こえてきた。
カーミエールの街はリュイスとテトラスの通商のはざまにある交易都市である。双方の訛りを持った公用語だけでなく、ドレフ帝国から流れてきた傭兵どもの言葉も混じって姦しいところで、ムズのような独り身の女が身を隠すのにぴったりだった。
ムズは灰色のお下げの先っぽを見せつけるように弄んだが、目の前の女は微動だにしない。案外、こうした交渉ごとの場数を踏んでいるのかもしれなかった。丸眼鏡の伊達レンズごしに見る美貌は、覚悟に青ざめている。
黙ったままのムズに、アレクシアも沈黙を持って応じる。いくばくかの時間が流れた。
ずいぶん昔に城壁を広げたとき、乱造された集合住宅の一室である。煉瓦づくりの縦に細長い建物が、縦横無尽に生えている。大通りから三本も小道に入れば、この街はどこもこんな様子だ。建物たちは塗装が剥げ、崩れかけ、斜めになったところにつっかえ棒を噛まされて、さながら煉瓦道の隘路に覆いかぶさるよう。
ムズが借りているこの部屋だって、どうしてまだまっすぐ立っていられるかわからないほど傾いでいる。壁の漆喰はボロボロで、空いた穴にネズミの親子が住み着き、折れ曲がった大黒柱は蟻の嚙み切った痕でいっぱいだ。かろうじてましな床に、粉の入った小瓶や薬研が壁に寄せて置かれている。天井からは乾燥させた薬草がいっぱいに吊り下がり、これがムズがわざわざ痛む足を引きずって階段を上ってまで屋根裏に住んでいる理由の一つだった。
ムズ本人だって似たようなものだ。灰色の髪とそっくりな灰色の一枚きりのドレスに、今は壁に下げている群青色が擦り切れたローブ。アレクシアの装飾の少ない仕立ての良い服にはかなわない。
「ミーゼリアンの名前を知ったわけを言いなさい、アレクシア・フュルスト。そして、あなたの知る秘密とは? 先に答えて。そうでなければ私は協力しないよ。決して。決してね」
これが最後、答えがなければこれ以降は応じない。との意図を込めてムズは言った。幸いというべきか、近隣住民は格安で負傷や病気を看てくれるムズに寛大である。叫べば昼日中から暇している誰かが来てくれるだろう。
アレクシアは静かに目を閉じた。ふっくらとした唇がわずかに震え、目を開いた彼女は大切なものを手渡すような口調で言った。
「レディ・ウラリール・ミストヴェルの曾孫シルヴァンは生きているわ。私は彼の居場所を知っている。そのことも含めて――すべて話すわ。私のことも、何もかも」
瞬間、ムズの中の時が捲き戻り百年前の出来事が色鮮やかに思い起こされた。
そこにはすべてがあった。ムズの青春、忠誠、喜びと絶望の何もかもが。
彼女は身体の均衡を失い、思わずひじ掛け椅子の肘置きを握って前に倒れ込みかけた。慌てて支えたアレクシアの、冷たく小さな手を大柄な女の手が掴む。灰色の三つ編みがずるんと肩から外れて床まで垂れる。
「話しなさい、何もかも」
平たく冷たい声でムズは命令した。かつて輝ける王への忠誠とともに進軍したミストヴェル侯爵騎士団の魔法使いとして、主君であるレディ・ウラリールとともに戦場を駆けたあの日々を思い出すように。
アレクシアは静かに頷いた。窓から差し込む白い光がその白皙の美貌を照らし、彼女は輝いて見えた。




