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エマ・リシャルの場合


 リュイス南方の小都市、ドレー。南国ファーテバとの国境も近いこの街には、大きな口入屋がある。


 口入屋とは、雇い人を探す者と働き口を探す者を引き合わせる職業のことだ。手数料と引き換えに、条件にぴったり合う人間探しから雇用契約の立ち合いまでやってくれる。金さえあればこんな便利なところはないし、逆に金払いがよくなければ、主人でも使用人でもそれなりの相手しか見つからない。


 古びた宿屋を改築した建物の二階で、エマ・リシャルは軋む椅子の上、かろうじて微笑を浮かべた。目の前には網戸。向こう側には、エマを雇うべきか審査に現れた相手がちょうど座ったところだった。


 エマは震えをごまかすため、ぎゅっとお腹に力を入れた。目の細かい網戸ごしに、失礼にならない程度観察する。ご主人様になるかもしれない人――いや、その人は女性だった、奥様だ! けれど若い、お嬢様だろうか? とにかくその人は、にこっと笑ったようだった。


 虎のような笑みだ、とエマは思った。気を抜いたら取って食われる。


 網戸ごし、人相までは定かに見えないが、とても美しい人だとわかる。豊かな土の色をした、くるくるの巻き毛が肩をすべる。目の色は青のようだ。旅行用のあまり布地を使わないドレスを身にまとい、ぴんと背筋を伸ばして座る姿の凛々しいこと。


(貴族だわ……)

 エマは一瞬、切なく眉を寄せた。リシャル男爵家は没落した、正確にはまだそうと決まったわけじゃないけれど、間違いなく今年じゅうには爵位を国に返還しなければならないだろう。だからもう、エマは貴族と名乗れない。

 網戸の向こうの人はきっと、そんな経験なんて一生しないんだろう。それほど、落ち着いて、凛とした、人だった。


「さて。――エマ・リシャルさんでよろしいわね?」

 声もまた、深みのある女性にしては低い声なのだった。

「は、はいっ。よろしくお願いいたします」

「そう気負わないで。いくつか質問させていただきますわ。よろしいですか?」

「はい、よろこんで、お嬢様」


 相手が思ったより若いことを知って、エマはそう答えた。にこ。また、網戸の向こうの貴族は微笑む。合格よ、と言われた気がした。

 それからいくつかの質問が飛んできた。ごく基本的な、今まさにあちらのお手元にある身辺書にあることを聞かれる場合もあった。エマはそれらすべてに、はっきりと、早すぎない声で答えた。


 年は?――十六です。

 お家は?――男爵家です。

 学院には通っていらした?――中退いたしました、家庭の事情で。

 いつから働けます?――すぐにでも、お嬢様。

 ご病気やお怪我のご経験は――一度もありません。健康体そのものです。


(だからどうか、雇ってください)

 と、心の中で付け加える。

「いいでしょう」

 ぱたん、と身辺書が机に置かれた。チチチ、窓の外から小鳥の鳴き声。小さな面談室が、ぐんと広がったように思えた。


(落ちた)

 と、エマは確信する。ぎゅ、と唇を噛み、涙をこらえた。大丈夫、大丈夫、また次があるわ。でも没落貴族の娘なんてメイドに雇おうという人、本当にいてくれるのかしら……。

 彼女はぎゅっと目を瞑った、そしてその声を聞いた。


「お父様の治療費は全額私が出して差し上げますわ。お母様とご兄弟がそのままお屋敷にいられるよう、借金も肩代わりしましょう」

「……は?」

 ぽかんと口を開けてエマは網戸を見つめる。その向こう、うつくしい土色の髪の人はふっと笑った、今度は虎のような笑みではなかった。


 カタンと音を立てて、思ったよりも小柄な少女が網戸の向こうから姿を現した。背は低いものの均整の取れた身体つきで、何より鋭い切れ長の目の青が、驚くほど澄み渡っている。

「エマ・リシャル。リシャル男爵家の長女。半年前、商談に向かったお父上が運悪く滑落事故に遭遇、命は助かったものの重傷を負う。同時に商品もすべてだめになってしまい、お母上は仕事相手への補填や権利関係の対応などで無理をして、ご病気に。みるみるうちに借金は増え、学院を退学。ご実家は没落に瀕している。違わなくて?」


「――は、はい」

 その通りだった。

 エマが頷くと、ぽろりと涙が一粒、拳の上に落ちた。うつくしい人はヒールをカツカツ鳴らして少女に近づき、レースのハンカチで優しく、まろい頬を拭う。


 人の、赤の他人の優しさに触れるのは、久しぶりだった。父の友人だったはずの人たちは手ひどくリシャル男爵家を裏切った。母の兄ですら。誰も助けてくれなかった。

「な、なにが……わ、わたしは何をして、お返しすればいいのですかあ……っ」


 ぽろぽろ泣きながら、それでもエマは必死に目を見開き目の前の人と目を合わせる。どんなに落ちぶれても、おどおどと人の顔色をうかがうようにはなりたくなかった。

「私はアレクシア」

 とその人は言う。さらさら、土色の髪に窓からの光が差して、金色に光る。

「アレクシア・フュルストといえばわかるかしら? フュルスト商会の娘です」

「あの、フュルスト卿の?」


 新進気鋭の大商会だ。小間物から土地、水道や鉄道といった国の事業にまで手広く裾野を広げ、保有する財産はちょっとした貴族など目ではないのだとか。なんでも長年諸国をめぐって修行した商会長が天才的な投資の勘を持っているという。


 そして彼とその家族は――やっかみもあるのだろうが、リュイスではたいへん評判が悪かった。フュルスト卿のうつくしい奥方様は、元は別の人の妻だったのだという。それを夜逃げか駆け落ち同然に商会長の手を取って家を出ていったというのだからすごい。


(それじゃ、この人が、あの悪女と言われるルクレツィア夫人のお子さんなの? 貴族じゃなくて、商人の娘……ううん、でも、お血筋は貴族だわ)

 エマは必死に脳裏で情報を整頓しようとしたが、どんどん頬が真っ赤になるばかり、ぜんぜん何も考えられない。いつの間にか涙は止まっていた。


「エマさんと呼んでもよろしくて?」

「え、え。どうぞお好きに」

「ありがとう、エマさん。ひとつ頼みがあるの。私はあなたに、悪女になってもらいたいのよ」

「ひょ、ひょええ……」

 エマの脳味噌は完全に固まった。


 アレクシアは静かに語った。破滅させたい人がいる。リュイスの学院に。それは異母弟なのだという。

「あなたに再び学院に入学してもらうわ。費用は私が持ちますから安心して。ご家族が心配でしょうけれど、きちんと通ってもらう。そしてザイオスに近づいて。この条件が呑めないならば援助は諦めてもらいます」


 ずきん、とエマの心臓は痛む。学院に? 戻れるの? 急に心臓がどきどき脈打つ。あの学舎、校庭、教師、授業――友達! みんなに、また会えるの?


 エマは本当は、退学なんてしたくなかった。魔法を勉強して魔法使いになり、家族に楽をさせることが夢だったのだ。お父様があの忌々しい悪路で足を取られた馬車ごと川に落ちたから、何もかもが終わった、と思っていた。


「何も裸になってザイオスに迫れと言うわけじゃないわ。私はただ、あの男が学院にいてもらっては困るのよ。あれにそんな権利はないのだから。再入学したら、ザイオスと同じクラブに入るなり授業を取るなりして、仲良くなってほしいの。他の生徒と分け隔てなくね」

 くすっと笑う声にエマは正気に返る。


 そうだ。これは真剣な話で――とんでもないチャンスなのかもしれなかった。エマが、父母が、弟たちが、そしてリシャル男爵家が救われるかどうかの話だ。


「そして他の子たちと同じくらいザイオスと打ち解けたと確信したら、こう言ってほしいの。自分はアレクシア・フュルストの援助によって学院に来ている、とね。そしたら彼は食いつくわ。間違いなく」

「間違いなく、ですか」


「ええ。彼と実際に会ったのは一度きり。小さな舞踏会でだった。けれどその一度で私は確信したの、あれは私を憎んでいるんだわ、ってね。私の名を出せば彼は必ず歯を剥き出しにして噛み付いてくることでしょう。そして、こう言ってほしいの。アレクシアに全部握られているんですと。金にもの言わせて、ひどい目に遭っている家族を人質に、アレクシアに服従させられているんだと。卒業したらフュルスト商会に身売りのように就職させられると言ってもいいかもね。そうしてザイオスを夢中にさせて。これがあなたと、あなたのご家族を救う条件よ」


 エマは考えた。未だかつてこれほど考えたことはない。

 けれど思えば最初から、どちらを選ぶかなんて決まっていたのだった。だってリシャル男爵家が助かるには、それしかなかったんだから。


 エマが顔をあげたとき、アレクシアはあの虎のような笑顔で両手を広げ、待っていた。エマは彼女の手を取った。


「わかりました」

 声は震えなかった。

「あなたのご提案を受けます、アレクシア様」

 光は柱のようにアレクシアに降り注ぐ。埃がキラキラ舞って、その中で虎のように微笑む彼女がいる。

 エマにとってこの瞬間、すべてが再び息をするように思われた。

 


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