旅立ち④
ドレフ帝国宿舎まで秘密裏にたどり着いたテトラス貴族は、ヴィヴィエンヌの母方の伯父の従姉妹の息子だという。王族にかろうじてつながっているのだけがよすがの、典型的な傍系貴族だった。彼は案内された貴賓室でヴィヴィエンヌを見つけたとたん目に涙を溜めた。
「で、殿下あ……ご無事でえ……」
とぜいぜい言ったきり、力尽きたように頽れてしまう。
「ミフトル男爵、まあ、あなたが来てくれたの」
とヴィヴィエンヌは目元を和ませ、シルヴァンも嬉しそうである。
ミフトル男爵ははち切れそうなほど太った男で、小さな口髭がなければ赤ん坊かと思うほどである。これでいて物資運送に詳しく、とくに兵糧の手配が得意だが、戦場に出たことはないという。
愁嘆場の様相を見守っていたフィリクスは、さて、と伸びをした。
「俺たちもそろそろ撤退するよ。準備はできてる」
「フィリクス、その……大丈夫なの?」
アレクシアは急に喉が渇くのを感じた。彼は両親の死と弟の行方不明を聞いたばかりなのだ。だがフィリクスは少しばかり、リュイス式のシャンデリアを興味深そうに眺めるふりをする。
「まだ、実感が湧かない。――なあアレクシア、少し話せないか?」
「ええ」
アレクシアは頷いた。一も二もなくそうしてしまったことに自分で驚いた。わけもなく心臓がドキドキと痛む。エマがそうっと二人の元を離れ、テトラスの面々に挨拶をしに行った。
フィリクスはアレクシアをバルコニーに連れ出した。昼日中の空はごく普通に雲がたなびいている。都アリネスの喧噪もここまでは届かない。のどかでゆるやかなひととき。――この空の向こうで何百人かが死んでいるだなんて。死んで、火にくべられ、薪のように燃えているだなんて。
(私が行こうとしているのはこういう道なのだ)
と思えば奮い立つ気もするし、怖気づくようにも思う。自分が二つあるみたいだ。アレクシアはこの頃よく、自分というものがわからなくなる。
二人は並んで手摺にもたれかかり、空と、目隠しのため植林された雑木林を眺めている。心はどちらもここにあるようでない。そして、こんなにも無意識を晒しているというのに警戒が呼び起こされなかった。
それこそがある種の答えなのだと、恋の達人であり女優のミナ・ラグスならいうかもしれない。
「最後に一度だけ無様を言わせてほしいんだが。一緒に来てくれないか? おそらく大陸は再び戦乱の時代に入るだろう。これまでのような国境付近でドンパチやるだけの小競り合いがせいぜいの時代じゃなくなる。大陸のどこにいても危険だというなら、ドレフ帝国の俺の傍で守られていてほしいんだ」
アレクシアは首を横に振ったが、それがこんなにも難しかったのは生まれて初めてだった。幼い頃から否定の意志ばっかり強い子供だったのに。
「夢を諦めるわけにいかないから」
「そうか。――未来が見えると言ったね? これから先は、どんな未来になるんだ?」
「覚えていたのですか。戯れ言でしたのに」
「嘘でも構わなかったよ、俺は。君が俺に言ってくれたことだもの」
フィリクスは寂しく笑った。
「全部覚えてしまって、忘れられないのだと思う。なんでこうなったんだか俺にもわからない」
瞬間、アレクシアはもう少しでこの男の腕に飛び込むところだった。困っているのはお互い様だった。彼女の持って生まれた寂しさは愛しい家族にさえ埋めることはできなかった。彼の持って生まれた苦しみは家族を得てもなお埋まることなどなかった。本当に、どうしてこんなことに。
「私の知っている未来が確かなら、これから――」
思い出す間もなく、思い出せる。これからの大陸の歴史は本能に刻まれている。といっても、それはもういないザイオスの物語の記憶であるのだが。
「まず、リュイスとテトラスの間で国境戦が起こるわ。どんどん戦線が拡大し、リュイス王国の新国王はドレフ帝国の混乱に乗じて領土拡張を狙い始める。一方でドレフ帝国の内乱を収めようとする新皇帝が大陸統一を掲げて諸国を席巻し始めるの」
「それが君と、俺かい?」
「いいえ。私でもあなたでもないの。ぜんぜん別の人たち。それからとある傭兵団の団長が、……」
くす。思わず笑みが浮かんでしまう。大人になったザイオスのことであるのだが、彼はもういない。アハハハ。
「……彼が、傭兵たちを取りまとめ独立軍を率いて戦うの。契約の反故や違約金の問題で、傭兵たちにも不満がたまっていたからね。大陸は彼らの略奪の波に晒されるわ」
「それはなんとしても阻止しないとな。傭兵が連携するだなんて考えられないが」
フィリクスは眉を寄せて嘆いた。アレクシアは流れる土色の髪を耳にかける。風は冷たい。
「大丈夫、それはたぶん起こらないわ。その傭兵はもういないから」
「そうか。安心した」
笑いあうと、声の調子まで揃っているようだ。――そうとも、もしもこの男の側をついて回ることができたら、きっと幸福だろう。この上もない幸運だろう。きっと仲良しになれると、もうわかっている。
目の端に浮かんだ涙を瞬きして追い払い、アレクシアはフィリクスに向き直る。
「リュイスを統べるのは私よ。女王になりたい。ならなくちゃいけないの」
「そうか。わかった」
「テトラスも私がやる。二国の統一も、君臨も私がやる。やりたいから」
「わかった。正直、このままあんたを攫って逃げちまいたいんだが――国がばらばらになるってんなら話は別だ。統一しておかないと、魔物が跋扈する【魔国】になってしまう。故郷をそんなものにするわけにはいかない」
「ええ。戦乱も、止めないといけない。止められる地位までいかないと」
「戦力が必要ならすぐ呼んでくれ。アティフの小刀はもうあるから、見返りはいらない」
「お父君とお母君は――」
「残念だったが、もういいよ。一目、息子として会えたのが僥倖だったさ。弟を探し出して、二人で帝国を切り盛りできるのが理想だな――アティフの小刀は、あいつが持ってるんだ。探さないと」
世界がぐるぐる切り替わっていくのを、アレクシアは感じる。小説の知識なんてあってないがごとし。もう知っているものは、人の名前くらいだと思った方がいいだろう。
ここはアレクシアにとって現実で、この人も現実で。この世界を生きていくのだ。
小説のフィリクスなどどこにもいない。どこかアンニュイでミステリアスで、無口なペシミストで身体が大きいフィジカル男。仲間が斃れたら怒り狂って覚醒するキャラクター性が好きだった。それ以上に、今ここにいる目の前の男が好きだ。
陽の光が奥まで入ると夜空のようにきらきらする黒い目。完璧に近い左右対称ですっきりした顎の線。神々の彫刻がいきなり動き出したかのように、生き生きと脈動する首の頸動脈。
さあっと上空を鳥の群れが飛んだ。無数の影がバルコニーに落ち、それらに囲まれた彼は非現実的だ。
室内から誰か男の声がフィリクスを呼んだ。彼はそっと、アレクシアの手を取り口づけた。唇は熱かった。喉の奥がぐっと狭まり、彼女は呻いた。
「それじゃあ次期女王様、また会おう」
「もし、神々がそれを許してくれるなら、また」
束の間の夢想がアレクシアを襲った。ドレフ帝国皇帝フィリクスと、リュイス王国女王アレクシアが再会する。二人の結婚が大陸の統一となる。貴族も神殿も傭兵も知ったこっちゃない、なんのしがらみもなく、まるで物語の終わりのように!
「ああ、また」
「ええ」
夢は現実に搔き消える。するり。アレクシアは自らの意志でフィリクスの硬い手の中から右手を引いた。
その日のうちに、ひそやかに馬車はテトラスへ向けて出発した。用意したのはフュルスト商会だったが、道を見つけ、監視兵に賄賂を支払って一行を先導したのはあの太ったミフトル男爵だった。見かけによらず有能な男である。
すぐにリュイスへ戻るつもりだった。王の選定に間に合わないなんて馬鹿げたことになったら、何もかも台無しだから。
だがアレクシアが生まれた国に戻れたのは、テトラスへ旅立ってから一か月後。
そのときリュイスには彼女ではない別の王が立っていた。