旅立ち
ホテルの三階。ここばかりは双子も入れない、と決めている執務室にした客室。群青色の絨毯の上、黒く塗られた揺り椅子に座ってシャンデリアを眺めている。キイ、キイ、椅子が鳴るたびにシャンデリアが揺れて見える。魔法灯のゆらめきもしない光が星のようだ。
アレクシアの土色の髪はほどかれ、くるくると渦巻いて膝の上を覆っていた。しばらく、彼女は外に出ていない。先日のパーティー以来の悪い噂に怯えて引き籠った、という設定だ。さてさて、これで議会はどう出るか。
「暇乞いに来たよー、娘」
と言いながら父フュルスト卿がいきなり扉を開けたので、ずり落ちそうになった。お腹の上で組んだ腕を起点に起き上がる。
「もうお帰りになるの? お早いことですね」
「挨拶回りはすんだからね。これ以上いると殺されるかもしれないし、ファーテバで商売に精を出すさ」
「……クラシュフ侯爵家の方のおじい様に見つかるから? 潔く謝ればいいのに」
「ごめんだね。あのじいさんに頭を下げるくらいなら死んだ方がましだ」
フンッ、と大人げなく鼻を鳴らす父であった。
ヘンリー・フュルストは商会を立ち上げる前、クラシュフ侯爵家の三男坊だった。ガイガリオン伯爵夫人ルクレツィア、および子供たちを連れて駆け落ちしたことにより、実の父アドエルの怒りを買った。勘当である。クラシュフ侯爵家の家族名簿から、父の名は消されている。
「おじい様だって本当は一目会いたいと思っていらっしゃるかもよ?」
「向こうから言い出すまで絶対に行かないよ」
フュルストはいっそ穏やかに断言する。アレクシアは揺り椅子から立ち上がり、扉のところまで彼を抱擁しにいった。父の腕は幼い頃から少しも変わらず、彼女を包み込んでくれた。
ぎゅ、としたあと離れて、頭一つ分高いところにある顔をしげしげ眺める。貴族らしい平凡に美しい顔だ。普段はこんな意固地をする父ではないのに、どうしてもだめらしい。
アレクシアだって聞きかじりなのだが、フュルストは学生のときもルクレツィアを連れて逃げようとして、アドエルに妨害されたという経緯があるらしかった。父はそのことで祖父を恨んでいる。深く、骨の髄まで。
だからアレクシアも双子も、クラシュフの方の祖父母に会ったことはない――双子はともかく、血のつながらないアレクシアのことを孫と思ってくれるかどうか、わからないという点もあるが。
「お父様、お願いがあるの」
「お金で解決できることならなんでもしてあげよう」
「次にリュイスに来るときは、お母様も連れてきて。それで、レイヴンクールの方のおじい様とおばあ様に会いに行かない? 私、きっとご挨拶に伺いますとお約束したのよ」
しばらくの沈黙があった。彼の目が、ふいに父親から商人のそれに変わった。
「……アレクシア。私はね、二度とルクレツィアをこのリュイスへ連れてくるつもりはないよ」
「そんな。じゃあおじい様たちは二度と娘に会えないの?」
「仕方ないことだ。この国は彼女に冷たすぎた。まるで人身御供のように、レイヴンクールは彼女をガイガリオンに差し出した。王に逆らえず。王の権威を高める高価な贈り物のように扱われ、彼女は苦しんだ。ねえアレクシア、もうわかる年だろう?」
小柄な彼女の耳元に口を近づけ、男はたんたんと告げる。
「お母様があの男にいったい何回流産させられたか、それがどれだけ彼女を弱らせたか、知っているだろう?」
「……」
「双子が生まれたのは奇跡だったんだ。私は奇跡を大切にしたい。もちろん、君のこともね」
アレクシアは頷いた。父の顔を見られなかった。大きな温かい手ががしがしと頭を撫でてくれる。その仕草は昔のままだ。
タリオンの残した変革の残り火は、今なお国を蝕み続けている。
もちろん王だけが悪かったのでも、貴族だけ、官僚だけが悪いのではない。それは確かだ。
かつてリュイスでは貴族がその特権を思うが儘に振るい、民を虐げていた。領主は花嫁の初夜権を主張し、租税を着服し私腹を肥やした。神官も役人も貴族出身者ばかりが優遇され、平民はどうあっても出世が頭打ちになった。
タリオンと官僚たちが着手した改革とは、そうした不条理をなくすことだった。だが若く輝く時代は短く、彼らはすぐに老醜を晒し、変革はほころびた。
権力の源であったタリオンが去ったのち、タリオン一派ときたらもろいものだった。成り上がりどもは連携を取ることさえできず、海千山千の貴族たちに各個撃破されていった。ある者は故郷に帰り、あるいは流浪の旅に出た。そもそも異例の抜擢を遂げた者が多すぎるせいで権力闘争のやり方すら知らず、ライバルの暗殺や賄賂が横行していたのだ。探られてまずいことをしていたらそこを突かれるのは当たり前である。
「……私がこの国を変えるわ、お父様」
「うん。遠くから見守っているよ、娘」
父の元を巣立つときがきたのだ、とアレクシアは直感する。もちろんこれからも、彼は娘を助けてくれるだろう。でも彼の手の届く範囲を超えたところから先は、自分の足で立たなければならない。
――わかっていたはずだ。当たり前のことだ。
それでもアレクシアは寂しかった。いつまでもフュルスト商会の秘書、父の庇護下にある生意気な小娘として振る舞っていたい……そんな心が、自分の中にはまだあった。
それを幼心という。アレクシアは首を横に振って、必死にそれを振るい落とそうとする。
「お父様、リュイスとテトラスが連合国家となれば、ドレフ帝国と渡り合い独立を維持できると思う?」
「――リュイスを立て直しその経済力にテトラスの騎馬隊を合わせるか。五分五分だね。帝国内部がいくつに分裂するか、攻め込んできた勢力の頭領がどれだけ話の通じる奴かによる。なんだい、いつかドレフ帝国とさえ戦う気でいるの」
「いいえ、あの国はそのうち内乱が起こるの。すぐではないけれど十年以内に。流民が流入し、国家は疲弊するわ。大貴族たちが分離独立を求めて自軍を挙げようとする。そうなってからでは遅いから、その前に、私が二国を合わせるわ」
父はしげしげとアレクシアを見下ろした。娘は挑みかかる目でそれを受け止める。緑と青の貴族の目がぱちっと合う。
「どんなに辛い道のりになるかわかっているのか?」
「ええ。でもやるわ。そうしないと……お母様の身に危険が及ぶかもしれない」
小説では、八年後。だがザイオスがもういないので、いつになるかもわからない内戦の開始。アレクシアはそれまでにリュイスを立て直す気でいる。だって戦乱の世を生きるのも、得体の知れない相手に殺されるのはいやだもの。次の国王はタリオンより有能なの? 根拠は?――私がやった方が安心だもの。
アレクシアは家族に平和で幸福であってほしい。だから小説の記憶があることも、どうやら自分には前世と呼ばれるものがあったらしいことも、言わないでいる。だって奇妙過ぎる。どの国の宗教にもこの世界が小説に書かれているだなんて教えはないのだ。誰かに話せば頭がおかしくなったと謗られて不思議はないのに、アレクシアの中であの記憶は確固たる真実なのだ。
前世について覚えていることは、実のところ小説についてしかない。どんな親がいて、どんな人間としてどんな人生を過ごしたのか? それさえ覚えていないのに、ただこの世界の前知識ばかりは覚えているのだった。
父が南国ファーテバに商会の拠点を置いたとき、アレクシアは嬉しかった。ドレフ帝国のごたごたに巻き込まれない唯一の国が、海を通じて南大陸への交易路を持つファーテバだと知っていたからだ。それに、ファーテバにいれば何かあればすぐ別の大陸へ海路で逃げられる。
なぜだろう、ふと、全く関係ない男を思い出した。思えばどうして、父にさえ打ち明けていない記憶のことを彼には零してしまったのだろう?――ドレフ帝国皇后の隠し子。放浪皇子フィリクス・ルミオン。
「いいよ、わかった」
と父は言った。
「お前が必要とするときに、フュルスト商会は全力を挙げて支援しよう。十分な金銭と、各方面に貸しをつくっておこう」
「ありがとう、お父様――あのね」
「うん?」
「危なくなったらお母様と双子を連れてすぐ逃げてね」
フュルストは苦笑し、アレクシアのまろい額に口づけた。
「お前は気づいていないかもしれないが。あの子たちはもう姉より背が高いよ。自分の頭で考えて行動できる年だ」
アレクシアが目を丸くするのをくすっと吹き出して見つめ、フュルストは腕にかけたステッキを手に取った。彼の完璧な旅装姿と相まって、急に実感が湧く。もう行ってしまうのだ。
「それじゃ、ここで。元気でな。手紙を書くよ。寝るときは一枚余分に身体に毛布をかけなさい。冷えるとよくないから」
「ええ、お父様」
見送りをフュルストはやんわり断った。気取っていなくても気取って見える歩き方で廊下を去っていく父の背中から、アレクシアは目を離す。
戻った部屋の中は先ほどまでのように居心地よく思えなくなっている、ように思われた。
アレクシアは飾り棚の上の花瓶に咲き誇るオレンジ色の薔薇を見る。テトラスの山間部にしか咲かなかった野生種を、資金提供して園芸用の品種に改良させたものだ。金の力さえあれば自然でさえもねじ曲げることができる。おそらくは人の心さえも。
それではいけないのだ。金はアレクシアが稼いだものではない。もし彼女が本当に女王になるのなら、必要になるのは金ではなく人心を掴む力。
「私にあるのかしら?」
そんな、雲を掴むような力が?
ぼんやりと、暖炉の炎を見つめたまま時が過ぎた。これではいけない、手紙の返事でも書こうと身を起こした、そのとき。
廊下を走る、絨毯に吸収されきらない足音にアレクシアは眉をひそめる。そしてノックもせずに扉が開け放たれた。
「――アレクシア様!」
「エマ」
エマ・リシャルである。飛び込んでき勢いのまま、子犬が転げるようにアレクシアの元へたどりつく。借金の肩代わりと引き換えにザイオスを誘惑させられ、さんざんな目にあったというのに少女の忠誠心は衰えを見せず、学院を卒業した今、フュルスト商会で見習い秘書として大人たちにしごかれていた。
その彼女が薄い金髪を振り乱して駆け込んできた。伝令役にするには足の遅い娘であるから、何かあったのはすぐわかる。
「どうしたの、落ち着いて」
「あのっ、私船着き場にいて。一番手が空いているからとりあえずって。リヤトフさんが早馬に乗せてくれ……ああ、お嬢様!」
いつもはきらきら輝いて銀色に見える灰色の目が、血の気が引いたことでほとんど白く見える。立ち上がったアレクシアのスカートに縋りつくようにして、ぜいぜい文字通り泡を食いながら、叫ぶ。
「ドレフ帝国で反乱が起きました。エミリオ・カヴィルという総督が、皇帝グリアリスと皇后レニノアを殺害。皇太子エリシアスは行方不明です。そして、そして――我が商会のテトラス支部が。テトラスが対リュイス防衛線を再び結成しました。商会支部のメンバーと連絡が取れません!」
「一から話してちょうだい。まず、リヤトフたちコトル運河にいる面子は無事なのね?」
エマはこくこく頷いた。アレクシアはエマに水を飲ませ、椅子に座って息を整えさせ、話を聞いた。
……小説では三年後に起きるはずのことが、今、起きた。
フィリクス・ルミオンに褐色の肌と黒髪を遺伝させた実父、エミリオ・カヴィル。ドレフ帝国皇族の傍系であり、人妻となった皇后レニノアに執着と横恋慕を隠さない危険な男。その有能さと厄介さゆえリュイスとは反対側、草原地帯の遊牧民と相対する辺境総督として左遷させられていた男が、反乱を?
エマはつっかえながらもよく整理された話法で語る。そして全貌が見えてくる。
「つまり――こういうことね。リュイスはドレフ帝国軍の力を借りて国王を追放したばかりだわ。テトラスはリュイスがドレフ帝国を手引きし、交易路を通じて侵略してくると思い込んだ」
「そう、そうです、アレクシア様……」
「ヴィヴィエンヌ様が危ない。一緒に来て、エマ」
「は、はいっ」
金髪の少女は一も二もなく頷いて、飛び上がった。アレクシアはスカートと髪をなびかせ、迅速に行動した。
すぐさま馬車が仕立てられ、二人は王宮の大門の前にいる。大門前には堀が彫られ、その上には三重の橋。そしてそれぞれに三重の監視所と、通行証書を確認する衛兵の詰め所があった。
まだ、殺気立った様子はない。だが門の向こうに見える、下級役人や衛兵がドタバタと行き交う様子は明らかにいつもと違う。王宮に近しい区画は貴族街である。大聖堂を有するシュトリ・オルカ寺院、建て替えたばかりのパレットネス劇場を始め、名だたる名建築が軒を連ねる。つまり、それだけ働きに出てくる庶民も多いということだ。
(混乱が広まる前に、誰かが王宮内部で情報を統制しないといけない。でも、その権限を持つ王が今はいない!)
アレクシアは臍を嚙む。心のどこかで、まだストーリーが本格的に始動するまで時間があるし……などと悠長なことを考えていた自分をビンタしてやりたい。アレクシアがここにいて、ザイオスが死んだということは特大の変更点なのに。いったいどうしてまだお話がお話のままだと信じていたの、アレクシア!
フュルスト商会の通行手形は商人としては破格の扱いを約束されているが、それでも急な来訪は怪しまれるものだ。また髭もまばらな若い衛兵は怪しんでなかなか通してくれず、次の詰め所の中年衛兵も似たようなものだった。刻一刻と、時間が過ぎる。
こうしている間にも、ヴィヴィエンヌの身は危ない。テトラスとドレフ帝国、どちらが相手をするに楽かといえば圧倒的にテトラスだ。長い歴史の中、リュイスは一時的にテトラスを属国化していたことさえある。とくに王女の身柄を抑えたとなれば、いくらでも脅しがきくと考える者に心当たりがありすぎる。
ただでさえ、ヴィヴィエンヌは微妙な立場すぎる。婚約者であったマリウスが追放され、本人の帰国の意志は固いようだが、政局のこともありその日はまだ決まっていなかった。――最悪の場合、ひとりぼっちの姫君の身柄をどうこうしようとする者の手に落ちでもしたら。
もちろん、あの一途にヴィヴィエンヌを愛するシルヴァン・ミストヴェルが狂犬のように彼女を守るだろう。だが武ではどうにもできない部分というものがある。金の力と悪評さえ味方につけて立ち回ってきたアレクシアには、悪知恵の働く人間の悪辣さに底がないことを知っている。
また、衛兵と隊長がのんびりした口論を始めた。通行証のサイン、これは誰のだい? あー? ああ、女官長じゃないですかあ?……いらいらと両手を組み合わせ、アレクシアはひたすら許可が出るのを待つ。向かいの席でエマは人形のように固まってしまった。そういえば、彼女を王宮に連れてくるのは初めてである。
と、監視所の木の門が開く音がした。戦争の際には一番に閉められる跳ね上げ門扉は、通常、昼間は開き夜は閉まる。馬車をせき止める役目は観音開きの木の門で、形式的な立ち入り禁止の合図というわけだった。
アレクシアは窓の外に目をやり、その開門が自分のためではないことを知った。
フィリクス・ルミオンだった。浅黒い肌に黒髪の、うつくしい男。何騎かの部下とともに今まさに王宮に向かって馬を進めようとしている。――それはそうだ。問題が起こったのは彼の祖国なのだから。きっとフュルスト商会より早く、彼は事態を知ったのだろう。
考えるより先にアレクシアは馬車の外へ転げ出た。ステップが出ていないので、思わず転びそうになりながら。
「あっ、アレクシア様!」
慌てたエマが後を追う。
「あ、ちょっと。出ちゃダメですよ」
と衛兵がのんきな声を上げる。構わず、アレクシアはフィリクスへ駆け寄った。
「フィリクス!」
「アレクシア?」
まさに馬の腹を軽く蹴ろうとしていたところ、フィリクスはぱっと振り返る。彼の目に映ったのはアレクシアの広がり、うねる土色の髪だった。陽光を反射して、青い目は水面より青く輝いた。
彼女は彼の足元へ駆け寄り、抑えた声で叫ぶ。
「一生のお願い。私も一緒に連れて行って。友達が危ないの!」
「……は、」
フィリクスはぱちぱちと瞬きをした。呆然としているようにも、あまりに予想外のことを言われて唖然としたようにも見えた。オイ、とかコラ、とか言いながら、追いついた衛兵が彼女を彼から引き離そうとする。アレクシアは腕を振り回して捕まらないよう悪戦苦闘する。
「っふ!」
彼は笑った。
「何がなんだかわからないが、心得た」
そうしてアレクシアの身体を馬上に引き上げ、馬を一気に駆け出させた。
「ああ、大将!」
「なんだよ、春か?」
「困りますよお」
悪友どもは口々に言いながら後を追おうとして、うち一騎の腹帯にエマがしがみついたものだから一人だけ出発できない。
「うおっ? なんだよ!」
「わ、私も連れてってください! うちのお嬢様なんです。私の――主、そう、たった一人のご主人様なんです、アレクシア様はァ!!」
「怖い顔で叫ぶなよお嬢さん、可愛いんだから」
鳶色の髪の騎士はくすくす笑いながらエマの身体を掬い取って、彼の主に続いて王宮の敷地に走り去った。
あとには、ぽかんとした顔の衛兵たちと、始末書の気配に怯える隊長が残された。




