旅立ち②
フィリクスとは途中で別れた。
「貴族連中に呼ばれたのでなければ同行したいんだが」
と悔しそうな彼の顔を見て、アレクシアはあやうく頬にキスしてしまうところだった。
「助かったわ、本当に。どうもありがとう!」
と、彼の両手をぎゅっと握りしめ、それから王宮の奥へ奥へと走り出す。顔見知りの侍女に袖の下を渡し、何も聞いていないくせに訳知り顔の侍従に頭を下げ、うだつが上がらない武装侍従には娼婦と遊んで病気を貰った件を親に黙っておいてやると言いくるめ、あの離宮へ。
こんなときばかりは、使用人が使うという小道や抜け道を心底知りたかった。走るアレクシア、同じく走るエマは大変目立ち、誰もが慎ましく目を逸らした。ふかふかの絨毯は足を取られ歯がゆかった。大理石は足音が反響するので憎たらしかった。
アレクシアは――何をこんなに取り乱しているのだろう?
ヴィヴィエンヌがいなくなっても、フュルスト商会には影響がないのに。ばかっ。いいえ、違う。
ヴィヴィエンヌは王族らしく自我を抑圧され育てられた女性だった。そして小説のアレクシアもまた、抑圧され続けた鬱憤を父の妾と異母弟妹にぶつける女性だった。母親を亡くし、味方のいない屋敷で孤立して、父の裏切りを目の当たりにして。半分、狂っていたのだろう。そして無様に断罪されて辺境に追いやられる運命。
(思い出した)
そうだ。アレクシアは――アレクシアという存在は、辺境で死ぬのだ。辺境とは、リュイス、テトラス、ドレフ帝国の三国の国境が交わる点の近隣地帯をいう。戦争が起きたとき真っ先に踏み潰されるところだから、誰も住みたがらない。なので国家は、おのおのの罪人たちを住まわせる。そして辺境伯、あるいは駐留軍に安全を保障させる。元々いなくてもいいとされた人々だから、当然、いざというときは捨て石にされる。
この世界では魔物が人の死体から湧く。うじ虫のように、湧く。
国境地帯で衝突が起き、兵士たちの屍が地平線を埋め尽くしたとき――。
魔物どもが現れる。巨体を誇るオーク、水死体から湧く馬のかたちのケルピー、死を告げる妖女バンシー。小鬼ゴブリン、小人レプラコーン。騎士の死体からは永遠に首を探し求めるドゥラハン。血のしみた土からトロール、目玉からピクシー、砲撃で地面に空いた穴が地中につながると、コボルドが。
魔物に襲われるのが役目の罪人たちはなすすべもなく食い尽される。
魔物の発生こそが【雪花の誓い】の伝承を産み、大規模な戦争を抑えていると言っても過言ではない。
魔物どもは食うべき人間がいなくなると共食いを始め、やがて巨大なドラゴンへと変貌するという。ドラゴンの羽ばたきは地響きを起こし、嵐を呼び、吐く炎は一度草木に燃え移れば永遠に消えず、世界を破滅に導くという……。
それを防ぐには、魔物が罪人を食って腹が満たされた一瞬に攻撃を仕掛け、火で焼くしかない。
あの小説で、末路を語られなかったアレクシア。おそらく彼女は辺境で生き抜くことができなかった。ザイオスが活躍する戦乱に巻き込まれ、誰にも守ってもらえず魔物に食われたのだろう。死体さえ残らず、思い出されることもない。
――ぜったいにいやだ、誰にとっても無価値なまま終わるなんて!
(この世で一番むなしい死に方!)
弔われずに死ぬということは、生まれてきたことがなかったことにされるということだ。アレクシアは母の持ち物に小さな小さな産着があるのを知っている。名づける前にいなくなった赤ん坊の作りかけの産着。施されなかった名前の刺繍。ああ。
「ヴィヴィエンヌ様!」
アレクシアはその離宮へ走り込んだ。行く手を遮ろうとする使用人たちは、一睨みで道を譲った。後ろからついてきたエマは、疲労困憊、息も絶え絶えである。それでも気丈に顎をつんと上げて、アレクシアに続くにふさわしくあろうとしている。
どうしてこうも悪い予感というのはあたるのか。そこにいたのはトンムーク侯爵だった。つい先日まで栄えあるリュイス議会の議長の座にあった、タリオンの子飼い貴族の一人。丸腰のシルヴァンがすっくと仁王立ちする。その背中に庇われたヴィヴィエンヌは白い顔で、それでもまっすぐに立っていた。
「まあ、いったい何事ですの、これは? 失礼、失礼。なんてこと、何かお困りですか、ヴィヴィエンヌ様?」
アレクシアは声を張り上げる。束の間、ヴィヴィエンヌの顔に生気が戻った。
「おお、これはこれは……失礼、お嬢さん。どちら様ですかな? 今は大事な話の最中です。弁えなさい」
頸だけ振り返ってトンムーク侯爵は笑う。はなからアレクシアなど相手にしていない、と自分にも彼女にも知らしめるためだけの、嫌味な笑い方だった。
離宮の決して大きくはない玄関ホール。前に来たときより綺麗になって、細かな改修もされたようだ。何より黄色の花々を描いた絨毯がぱっと雰囲気を柔らかくしている。その上に立つのが気取ったトンムーク侯爵なのは興ざめだが。
アレクシアはつかつかと、侯爵を素通りして二人の前まで歩いていった。すでに呼吸は根性で整えていた。
シルヴァンの喉がぐる、と野生のけだもののように唸る。ヴィヴィエンヌの唇が小さく、ありがとう、と動いた。アレクシアは彼らにくるりと背を向けて、侯爵に対峙する。大仰なひだが付けられたレース飾りに覆われた喉元に目線を固定する。
「私はフュルスト商会のアレクシアです。まことに恐れ多いことながら、ヴィヴィエンヌ王女殿下とは個人的に親交を持たせていただいておりました。少しばかり時間が空きましたので、ご機嫌伺いに来たところでございます」
「ははは、商人とはな。抜け目なく商談にでもきたか」
侯爵は呵呵大笑、を装って笑った。ぴっちりしたタイツと華美な編み上げ靴に覆われた脛がかすかに震えていた。
「だが今は呼んでおらん。下がっておれ」
アレクシアは強気に出ることにした。
「まあ、怖い。閣下のごとき立派な紳士たるお方が、か弱い王女殿下になんのご用件でしょう?」
「貴様には関係ない」
「おおありですわ、閣下。次のシーズンのご衣裳のご相談でして? 混ぜてくださいな。当商会は紳士淑女に見合う布地と縫製を取り揃えております」
うがーっ、と聞こえる声を、トンムーク侯爵は出した。アレクシアが、もとい女が身の危険を感じざるをえない声音だった。これは、そうとう追い詰められているらしい。
「アレクシア様、お下がりください。危ないですよ」
進み出てきたのはシルヴァンである。目が座っている。彼がここまで激怒しているところをアレクシアは見たことがなかった。
「シルヴァン、おやめなさい。お下がり。トンムーク侯爵はわたくしと話をなさりたいそうよ」
ヴィヴィエンヌが抑えた声で言うのさえ、聞こえていない様子である。
シルヴァンは護衛騎士を任されるほど腕が立つ傭兵だったが、その強さは常に冷静であることに起因した。――本当に大切なものを守ろうとしたとき、人は手元が震えるほど取り乱すのだ。
彼は声を張り上げる。
「何度も申し上げます通り、ヴィヴィエンヌ殿下はテトラスの使節以外にお会いになりません。お引き取りください、侯爵。突然ご訪問なされましても、貴婦人には準備もありますゆえ」
「なんの、なんの。護衛騎士と二人で庭に出ておったではないか。ハッ。騎士と二人で花を見るとな。国の危機さえ知らず、悠長なことだ……」
ぴくり、ヴィヴィエンヌの肩が震えた。
「国の危機ですって? いったいテトラスに何が――」
ヴィヴィエンヌが前に出ようとするのを、シルヴァンが腕いっぽんで止める。
「離してシルヴァン!」
「いけません」
エマがおろおろと両手を上げ下げして、ふいに何かを見つけ、あっと呟く。
「――いい加減にしろ!」
一喝が空気を揺るがし、瞬く間に緊張を打ち破った。
アレクシアとエマは手を取り合って、シルヴァンがヴィヴィエンヌを抱えるかたちでぱっと飛びのく。トンムーク侯爵が歯ぎしりしながら振り返ると、そこにいたのはフィリクスだった。
やや乱れた前髪が凛々しい眉の上に零れ落ちる。彼は息を乱した素振りも見せず、朗々とした声で言う。
「トンムーク侯爵、罪人になりたいですか?」
「何を突然、無礼な! 話に割り込むとは」
「もう一度聞きます、侯爵。俺がドレフ帝国の名のもとにあなたにされた不義理を並べ立て、正式に抗議すればあなたの政敵があなたを罪人に仕立て上げるでしょう。そうなりたいですか?」
洒落た口髭のトンムーク侯爵は顔を真っ赤にした。だが、フィリクスに勝てないのは明白である。落ちぶれ貴族と、他国の公子。喧嘩でさえ分が悪い。彼は肩を怒らせ、かろうじて威厳を保って見えるように見せかけながら離宮を出ていった。
全員が肩の力を抜いた。エマがハンカチを取り出してアレクシアのこめかみを伝う汗をぬぐう。シルヴァンはヴィヴィエンヌの怪我を確認しようとして、ぱしっと手を払われていた。
「どうしてわたくしが対応しようとするのを邪魔したの! あなたはいつもそうだわ、何故なの!? 助けに来てくれたアレクシア様の立場をあやうく悪くするところだった。フュルスト商会では贖いきれない罪に巻き込むかもしれなかったのよ!」
シルヴァンはたじたじである。アレクシアがガイガリオン伯爵を殺してお咎めなしだったのは、目撃者が買収されたことと、すでに社会的に終わった人物の死だったからだ。トンムーク侯爵をシルヴァンが害せば、ヴィヴィエンヌは主人として詰問されただろう。
「……ヴィヴィが、腕を捉まれそうだったから。誘拐されるのかと思ったんだ。また離れ離れなんて耐えられない!」
「だからといって貴族相手に前に出るなんて、限度があるわ。――ああアレクシア様、アレクシア様にお怪我はありませんか?」
「大丈夫です。皆様ご無事?」
「すまない、申し訳ありません。……でも、ヴィヴィが。俺の剣を捧げた主が、あんなふうに追い詰められて……」
「ちょっといいか?」
口を挟んできたのはフィリクスである。彼は仕立てのよい、なんてことのないチュニックと乗馬用ズボン姿だった。おおかた、どこかの貴族に誘われて遠乗りにでも行っていたのだろう。郊外の宿舎に籠っていても、むしろ籠っていることを推奨される兵士たちとは違い、彼はドレフ帝国を代表してリュイスに駐留した軍司令官である。社交も必要だ。
「次が来るんじゃないか? もう少し頭のいいのが送り込まれてくるかもしれないぞ。逃げないでいいのか?」
まっとうな意見だ。
アレクシアは頭を切り替えた。
「そうですわ。ヴィヴィエンヌ様、ここは危険です。もし私を信じてくださるなら――」
「わかったわ。逃げましょう。シルヴァン、剣だけ取ってきなさい」
あっさりとヴィヴィエンヌは頷き、シルヴァンは駆け出して瞬きの間に帯剣して戻ってきた。目にも止まらぬ速さで手袋を嵌め、アレクシアに問う。
「ヴィヴィエンヌ様のお命にも危険が?」
アレクシアは頷いた。シルヴァンは手に持ったヴェールをヴィヴィエンヌにかぶせた。
「裏道があります。こちらへ」
「いや。やめとこう」
身体ごと割り込むようにして、フィリクスが前に出た。
「俺の部下が近くにいる。ヴェールをもっと取ってこい、小僧。他の二人ともども王女殿下には侍女に扮していただく。混乱が広がる今なら抜け出せるだろう。――どうした? 早く行け」
シルヴァンはぐっと言葉に詰まったようだった。拳を握り、かすかに震えるのがわかる。フィリクスは興味をなくしたように青年から目を離すと、ヴィヴィエンヌの前に跪いた。
「名乗りもせぬ無作法を平にお許しくださいませ、テトラス王女殿下。ドレフ帝国公子フィリクスと申します。お見知りおきを」
ヴィヴィエンヌはすうっと息を吸い、吐いたときには平静であったのはさすがである。シルヴァンに後ろ髪を引かれないわけがないのに、すぐに彼女は王女らしさを取り戻した。間近に見ていたアレクシアでさえ、感嘆する切り替えだった。
「お名前は聞き及んでおりました。友国リュイスをお救いになりました英雄とまみえることができるとは、このヴィヴィエンヌ感動に打ち震えております。――いったいどうして、この場にお越しくださったのですか?」
ヴィヴィエンヌは片手を差し出し、フィリクスが口づける。形式的な挨拶。貴族的な仕草に見惚れたエマが両手を握り合わせて身悶えするのが見えた。
「そこのレディ・アレクシアが城内へ入るのに手間取っているところに居合わせましてね。気になって、後を追ってきたのです。あまりに速いので見失うところでした」
シルヴァンは二つのヴェールをアレクシアとエマに手渡した。ヴィヴィエンヌがどんな顔をしてフィリクスに対応しているのか、気になってたまらないという様子である。そんな場合ではないのにアレクシアとエマは顔を見合わせ、肩をすくめる。
「大将、人が来てますよ。行くんなら早くしましょう」
と、言いながら男が顔を出した。大柄で、紫色に近い青色の髪の毛は染め粉だろうか? 少なくともリュイスでは見ない色だ。顔立ちもどことなくこちらの人間とは違う。
「よし。じゃあとっとと逃げ去ろうか。使用人は仕方ないが自力で頑張ってもらおう」
フィリクスは明るく言う。それで、そういうことになった。
驚くべきことに、離宮からの脱出は拍子抜けするほど簡単だった。草木が生い茂る小道の向こうからやってくる一行を避け、離宮とその他を隔てる柵の緩んだところから王宮内部へ出る。
そのときにはすでに、王宮は噂渦巻く悪意の坩堝と化している。国境から飛んできた噂は風より早く人々の耳と口を駆けまわり、すでにドレフ帝国の次の皇帝を予想する者まで出る始末だった。
「あなた、聞いた?」
「聞いたわ。なんでも――」
「困ったことになった」
「まだ陛下もいないのに開戦なんてことになったら」
「こんなことならタリオン前王を追放するのでは……」
お仕着せ姿の使用人たちが群れては喋り合い、フィリクスの姿を見ると壁に並んで礼をしたあと、三々五々に散っていく。その繰り返しである。ずんずん歩くフィリクスの後ろに騎兵の制服を着た男が三人続き、侍女らしくヴェールを深くかぶったアレクシアたちがしずしずと従い、しんがりはシルヴァン。
これだけ堂々としていると、誰にも怪しまれようがない。
入るのにあれだけ苦労した王宮だったが、出るのは一瞬だった。




