宴のあとで影が踊る
裁判所に来るのをひどく久しぶりのように感じたが、実際は一か月も空いていない。
(不思議な感じがする)
アレクシアは巨大なドーム状の天井を見上げて思った。心臓も頭の中もいつも通りだった。もう少し緊張するかと思っていたのに。
すでに糾弾裁判は終わり、内部は今まで通り、仕切りによって区切られている。喧噪も、いつも通りだ。些細な揉め事の調停、破産した者が手続きするため息、司法官の怒鳴り声。老若男女の皮膚と香水のにおい、石の壁に染みこんで模様になった埃と貴族の権威主義。
司法官が入場した。アレクシアは立ち上がった。司法官にいっとう近い、訴人席である。高い天井から降りてくる冷たい風が、ガイガリオン伯爵家の紋章が刻まれた旗を揺らす。不思議だ、本当に不思議だ。
今から異母弟を合法的に殺すのに、ぜんぜん緊張していない。
それでもさすがに、父フュルスト卿と双子の弟たちが同席するのは拒んだ。身内にそんなところを見られたくなかったのだ。――満面の笑みを浮かべてしまったらどうしようと思って。
司法官がまっすぐに自分の席につくと、残り全員が着席した。それが裁判の始まりの合図である。一番高い席に、国王と国家の権威を体現する司法官。
一段下に陪審員が居並ぶ。いずれも隠居して暇になった老人ばかり、とある貴婦人など今にも居眠りをしそうだ。
司法官は机の上に置いた書類を確認した。老眼らしく、眉ごと目をしょぼしょぼさせ、片眼鏡を近づけたり遠ざけたりしながら。
やっと納得いくまで内容を吟味したらしい、老司法官は重々しさを装った仕草で木槌を打ち鳴らした。ドン!――と音がドームのてっぺんまで反響していく。隣、そのまた隣、反対の隣からも、時折同じ音が聞こえる。
「これより、平民ザイオスによる傷害事件の裁判を始める。法は明確である。貴族に傷を負わせた平民は理由を問わず死刑。これはリュイスの根幹を為す法律であり例外はない――アレクシア殿。神々に誓って真実のみを述べることを誓うか?」
アレクシアは立ち上がって、しらじらしく頷いた。
「はい、司法官」
「あの日起こったことを我々に教えてください」
「父ガイガリオン伯爵が亡くなり、他国にいた私は相続手続きのため生家を訪れました。すると、父と非常に懇意だったという平民の女性エイナさんと、そのお子様が二人いました。ザイオスさんとペルアさんです。戸籍を調べたところ、お二人はガイガリオン伯爵家とはなんの関係もありませんでした」
中央の被告席には立つザイオスの肩が大きく震えた。嘘だ、と口が動くのが見え、当然のように無視してアレクシアは続ける。
「父ガイガリオン伯爵を支えてくれた功績を鑑み、エイナさんペルアさん両名には嫁ぎ先を、ザイオスさんには我がフュルスト商会にて仕事を与えることを告げましたところ、ザイオスさんが突然激昂し、私に掴みかかりました。――すでに消えていますが、顔に傷をつけられました」
陪審員たちが低くざわめく。こっくりこっくり首を上下させていた貴婦人が、なにごとかと目を開けた。
ザイオスはぽかんと口を開けていたが、ようやく閉じた。やっと実感が湧いてきたとでも言いたげに、きょろきょろと周囲を見渡し、アレクシアへひきつった笑みを浮かべる。彼女は冷めた目つきでそれを受け止めた。――なあに? 今更懐柔されてくれとでも?
ぼろ布のような囚人服からして、ここ数日を郊外の牢獄に拘留されたのは確かなはずである。足首は逃亡防止用の鎖に繋がれている。――なのにどうして、そんな目をするの? なあ、冗談だよな? みたいな。
「司法官および陪審員の皆様方のお手元に、顔の傷を診察した医者の診断書の写しがあります。ご確認くださいませ。私がわかることは以上です」
司法官が髭を撫でながら頷き、アレクシアは着席した。
まあ、顔の傷は嘘であるわけだが。
アレクシアがザイオスに直接害されたのは暴言が限度。残念ながらリュイスの法では傷害罪は成立しない。
貴族保護法にもとづき、平民が貴族を害すれば死刑である。そしてアレクシアはあの日、ガイガリオン伯爵家の正当な跡取り娘としてたくさんの友人たちとともにいた。法律が彼女の相続権を証明した。
よって、この場ではアレクシアが正義である。
司法官だって暇ではない。面倒なのだ。よりよい判決を出そうとすることなど。『平民一匹程度』に手間暇かけたくないのだ。
「証人、入場!」
と叫ぶ司法官の皺がれた声にやる気は見当たらない。一刻も早く家に帰って暖炉の火にあたり、読書なり勤しみたいという風情。
あうあう、と口を開閉していたザイオスが叫んだのは、証人と呼ばれて入ってきた母親と妹を見たからだった。やっと、彼の目に燃えるような怒りがぎらついた。アレクシアは少しだけ肩をすくめる。もっと早くからそうして本気を出していれば、死なないですんだかもしれないのにね。
故ガイガリオン伯爵の妾エイナ、その娘ペルア。法廷の魔法灯の下で見る彼女たちは、厚化粧の平民女以外の何物でもない。二人とも怯えた表情でアレクシアを見つめていた。ザイオスを、ではない。
家族が死ぬ、その現実が目前にあるのに見るのはこちらなのか……。
アレクシアの胸に、深い失望が浮かんだ。そしてこれまで決して感じたことのない感情も。彼女は亡き実父ガイガリオン伯爵を憐れんだ。こんなものしか手元に残しておけなかっただなんて。妻子のみならず先代から仕えていた使用人にさえ見限られ、我が子に謀られ溺れ死んだ。
(私は絶対にあんな負け方はしない)
仮に負けるのだとしても。この茶番劇のような惨めな死に方はしない。そう、心に刻んだ。
アレクシアは青い目を見開いてただ司法官の言動を見つめる。老人は居心地悪そうに身震いすると、エイナに向かって手を振る。
「あー、罪人に弁護人を雇う金がなかったので、証人の証言が頼みの綱である。建国王の【雪花の誓い】に恥じることのなきよう、平民ザイオスがフュルスト商会所属のアレクシアを害するに至った件について、真実のみを話せ」
エイナの後ろについた裁判所の衛兵が、槍の柄で彼女の踵をつついた。女はふらふらと証言席に進み出たが、恥ずかしそうな笑みを浮かべてアレクシアを見つめるばかり。まるで突然気が変わったアレクシアがここを出ていき、裁判が終わることを期待するかのよう。
だがそんなことは起こるわけがない。年甲斐もなくもじもじしていたエイナは、やがて諦めて口を開いた。不貞腐れた声である。
「あたし、エイナです。ザイオスの母親です」
さすがに語尾を伸ばす喋り方ではない。
「あの日、アレクシア様が突然家に来て、『この家は私のものだ』って言い出して……。怖かったです。で、ザイオスは我慢してたんだけど、アレクシア様があたしたちを追い出すって言ったから。そのせいなんです。ザイオスちゃんはわざとじゃないんです!」
最後の方は嗚咽が混じっていた。司法官およびその場に同席する陪審員たちは、無表情に陳述を聞いた。そしてエイナは再び、槍の柄によって下がらされた。
次に前に出されたのはペルアである。彼女はとろけそうな目つきで陪審員の一人、唯一四十代と比較的若い子爵を眺めていた。正確には彼の胸ポケットに入った金時計が欲しいのかもしれなかった。
「あたしペルアです。女学校に通ってます。貴族の娘だけが通える学校です。ええとお、アレクシア様が急に家に来て、でかい声で『この家は私のものだ!』って怒鳴って、おにいちゃんが『ひどい!』って言い返してました。あとうちのパパのこともう死んだって言ってました。あたしもひどいと思いました。うちのパパって国王陛下に呼ばれて会議に出向くくらい偉いんですけどお……」
「証人は聞かれたことにだけ答えなさい」
「あっ、あのお。えーとね、だからー……悪いのはあの女なの!」
ペルアはアレクシアを指差し、キリッと眉を吊り上げる。綺麗な顔の少女だなあ、とアレクシアは改めて思う。生まれる場所が違えば、もっと別の人生があったろうに。
そしてペルアは退席した。使用人として家にいた平民たちは皆、証言を拒んだ。だからザイオスを守る側の証言は、これで終わりである。
さて、続いてフュルスト商会の面々が呼ばれた。アレクシアに不利な発言をする者など一人もいなかった。積荷監督者リヤトフ、積荷助監督デーケス、秘書イネスタ・ベッタ、その他大勢。
ザイオスが叫んだのは、最後のアレクシア側の証人が発言を終えたときだった。鎖を引きちぎりそうな勢いで彼はアレクシアに向かって走り出そうとする。
「嘘じゃねえか! 嘘ついてんじゃねえ! 俺は……俺はただ書類を見ようとしただけだ!」
司法官は書類を投げ出し、顔を手で擦った。陪審員席から嘲笑が漏れ、アレクシアはただ泰然と異母弟を見る。衛兵が五人がかりでザイオスの首や肩を抑え、槍で作った十字に彼の頭を挟んで拘束した。老司法官はザイオスを見ないまま言った。空気中を漂う埃を見ているように見えた。
「弁明があるのなら、許そう」
「ちくしょー! アレクシアが偉そうに、偉そうにうちに来たんだ! 家探しして、書類全部持っていきやがって。俺は、俺はただそいつの鞄つかんで、書類を見ようとしただけだぞ! 顔に傷? 傷なんかねえじゃねえか! ちくしょう、ハメやがって。俺のことハメやがってお前えええええええええええ!! 雌犬! この雌犬が!」
「黙らせろ」
衛兵たちはそのようにした。分厚いブーツの底に頭を踏まれ、猿ぐつわを噛まされてザイオスは鎖をガチャガチャ鳴らす。顔が真っ赤になり、泣いていた。
「騙されたー……」
とエイナが小さく呟き、だが陪審員の一人が顔を向けるとぱっと俯く。ペルアはにやにや笑っていた。状況が飲み込めていないのか、それとも――受け入れられないのか。
「では、判決を告げる。貴族保護法、および神々と建国王の定めたもうた古王国のしきたりにもとづき、平民ザイオスに死刑を命ずる」
陪審員たちは柔らかな笑みを浮かべ、満場一致の拍手によって判決を支持する。この程度の裁判で、いちいち意見を述べることはない。彼らは貴族であり、忙しい。
司法官が立ち上がる頃には、衛兵たちがザイオスの両腕を掴み扉の向こうへ消えようとしている。アレクシアは声を上げた。
「お待ちください。この目で判決を見届けさせていただきたいのですが」
「どうぞ、お嬢さん。しかし気持ちのいいものではありませんよ」
「構いません」
目を剥いた司法官に笑いかけ、アレクシアは衛兵たちの後に続いた。
陪審員たちが次々と退席し、傍聴席にいた使用人たちに囲まれて次の予定に向かう。司法官もやれやれと肩を叩きながら退廷した。
法廷には硬直するばかりのエイナとペルアが残された。
そのようにしてアレクシアは裁判所の地下までやってきた。処刑場は石でできた円形の大きなすり鉢のような部屋だった。中に入って来てはいけないと言われ、大人しく外で見物する。部屋の扉はひとつきり。鉄格子が嵌った鉄製の重たい扉。
衛兵たちは迅速に仕事をした。猿ぐつわが外され、叫び出すかと思われたザイオスは静かだった。失禁の音とにおいがする。石は魔法が刻まれているようで、それらを吸い込む。
彼は跪いた姿勢で首切り台の上に固定された。差し出された首のうなじの白さに、アレクシアは彼の若さを思う。
「たすけて」
と彼は言う。
「おねがい、たすけて。ごめんなさい。ごめんなさい」
「駄目よ。遅すぎるわ」
お前がお前である限り、許されることは決してない。
どうして母ルクレツィアは不幸な結婚を送らねばならなかった? どうしてアレクシアは父のいない幼少期を送らねばならなかった? どうしてアレクシアが受け取るべき跡取りという称号と待遇を、この男が手に入れたの?
確かに、ザイオスに責任がないことも多かった。だが彼は責任がある者たちの起こした行動の結果である。
「母親が本気で懇願すれば考えたかもしれないけれど、何もしなかったでしょう」
「おれのせいじゃ……」
「ええ、そうね。でもあなたが生きている限り、私は傷つけられ続けるの。正しい理由なんて必要ない。あなたは私を傷つけたのだから、死んで」
つまりは、アレクシアの考えはこうだった。ザイオスは主人公である。世界に選ばれ、女たちに愛され、男たちに尊敬される素晴らしい人生を歩むはずだった男の子である。今はまだ幼いが、いずれ物語通りの英雄になるかもしれない。
アレクシアは彼に負ける運命なのかもしれない。
運命の通りに、筋書きの通りになるのかもしれない。
許せない。
許さない。
決して。
アレクシアはこれまで努力してきた。報われた努力も、報われない努力もあった。頭の中には常に敗北への恐れがあった。ザイオスに歯向かった愚かなやられ役として断罪されるという恐怖が。
ザイオスが小説のキャラクターであるか否か。生きた人間であるか否か。愚かか、賢いか。ガイガリオン伯爵家を愛していたか? 母を妹を、そしてセオドア・ガイガリオンを愛していたか?
すべて関係ない。
アレクシアを害そうとする者、害する可能性のある者を、アレクシアは許さない。殺す。確実な手段でもって、誰からも謗られることのない方法でもって、この目で息絶える瞬間を見届けてやる。
それだけの話である。
気づけばアレクシアの横で、裁判所づきの聖職者が何か言っていた。言い残したいことはあるか聞いているのだった。ザイオスはだくだくと涙を流しながら、光といえば魔法灯がひとつ頭上に輝いているだけの狭く丸い部屋の中で、いやいやをするように首を横に振り、失禁し、震えている。父も母も呼ぶことなく。アレクシアを見ることなく。
聖職者が立ち去った。
衛兵か、係の者か、誰かが魔法式に魔力を流し込んだ。
ザイオスは最期の瞬間、アレクシアの耳に聞こえるだけの音量で叫んだ。目いっぱい目を見開きながら。
「――お前、怖がってる!」
がしゃん。
頭上から落ちてきた巨大な刃が彼の首を跳ね飛ばす。首はてんてんと飛び、一拍遅れて赤い血が噴出し、部屋じゅうを赤と黒が染めていく。首の切断面から湯気が立ち、アレクシアは地下が寒いことを知った。刃はするすると天井まで戻っていく。刃が収納されている天井は裁判が開かれるホールの床であり、地下の存在を知らない者も知る者も、今まさにアレクシアの頭上を行き交っている。
ほーうっ。と、深いため息が胸をついて出た。
額に冷や汗が浮かび、腹立たしいことにザイオスの最後の言葉は正しいらしいとわかった。




