とても考えられない②
リュイス一の大聖堂、シュトリ・オルカ寺院にて朝の神聖集会が再開されたのは翌朝のことだった。アレクシアは参加し、双子は逃げた。
もちろん彼女だって信心深いわけではない。神々が人間を救ってくれないことは商売の世界でいやというほど学んだから。ただの人脈づくりである。
「王国の混乱を憂い、慈悲深き天の高きところにおわします神は天使を遣わしましょう――」
という聖職者の文言も、全部頭の上から耳の横を滑り落ちていく。
「神々は人間をつくりたもう。ゆえに、神々は被造物たる人間を愛し、愛でたもう。神々の尖兵たる天使たちはその翼でもって罪深き者たちを打ち倒したもう」
信仰心篤く慎ましい娘に見えるよう、黒いドレスに黒のヴェールを合わせてきた。波打つ土色の髪とヴェールのレースの下、数珠を握りしめ説教に聞き入るふりをしながら、こっそり周囲を伺う。
平民用のこの席でさえ、名立たる街の名士が家族一同勢ぞろい。遠く、貴族の信者席にはカレンナ・ブレインフィールド伯爵令嬢とそのご両親さえ見える。あんな大貴族までも集まるのだから、ここに参加すること自体に意義がある。
説教が終わると、アレクシアは顔見知りに挨拶をして回った。帰りがけに知人や友人としばし歓談することは、社交界の外での社交の一部だった。商談相手や王宮で出会った相手。弟たちの同級生と家族に会ったときは少しばかり困った。
「あの双子はどうしたんです?」
「それがその……お説教を嫌がっていて!」
事実である。恥ずかしいったら。
アレクシアは今や、戻ってきた娘と呼ばれていた。リュイスから逃げ出した伯爵夫人の娘。ガイガリオン伯爵家を乗っ取った、けれどそれを国に容認された娘。
父の敵と目が合うと、厳しい質問攻めにあうこともある。フュルスト商会の今後の進出予定は? コトル運河の運行状況は正常か? 塩の件に一枚嚙んでいるというのは。噴水広場の通りに新しく出店するご予定は?
アレクシアはそんなことを言われるたび、空っとぼけて小娘のように笑うのだった。
「さあ? 私、むつかしいことはわかりませんの。父に言われてここにいるだけで!」
大噓である。が、嘘が必要なときがあるとすればまさに今だ。
アレクシアの名前と顔はどんどん知られていく。彼女の存在を知らない者の方が今や少なく、敵も味方もどちらでもない者も、ネズミ算式に増えていく。――もうすぐ、議会は王を選出する。
そのようにして馬車でホテルに戻ると、何やらフットマンやメイドが慌てふためいていた。
「何かあったのかしら?」
と呟き、御者に駄賃をやって中へ向かう。
ドアマンによって玄関ホールに招き入れられわかったのは、どうやらフィリクス・ルミオンは今日は部下を連れてこなかったようだ、ということだった。
「呆れた……」
とついつい呆けてしまったのは許されたい。だってまさか、二度目があるとは思わないだろう。
玄関ホールにはソファとローテーブルが何セットか設置されている。双子は長い方のソファで笑い転げていた。そしてフィリクスの方は猫足の椅子にきちんと座り、何やら話をして子供二人を楽しませていたらしい。
――通りすがりを装う支配人が、早くどうにかしてくださいと潤んだ目で見つめてくる。周囲にはソファでくつろいだり隣のレストランから取った朝食を食べる客がおり、まなざしは中庭や皿の上であっても耳に全神経を集中させていることがよくわかった。
ドレフ帝国の高貴な男は、商人の娘を見つけてぱあっと顔を輝かせた。大きな窓から差し込む光に照らされ、浅黒い肌の健康的でなめらかなことがよくわかる。
「アレクシア――」
と微笑みながら近づいてきて、その場で跪こうとするのを両手で肘を掴んで止めた。
「おやめなさいまし」
「ん。わかった」
彼は素直に従った。ふと、彼女の顔に目を留める。
「顔をどうしたんだ? 切れている。かわいそうに」
先日、自分でわざと切った例の傷である。医者に治療魔法をかけてもらい、すでにほぼ塞がった傷だ。赤い線さえずいぶん薄くなっていたのに。
「よくおわかりになりましたね。自分で引っかいてしまったのです。大事ありません」
「そうか。気を付けて。せっかく綺麗なのに……」
と彼は目を細める。アレクシアは頬が熱くなるのを感じた。こんなものはあの異母弟をどうこうするための手腕の一つでしかない。まったく気にしていなかったのに。
それを見てまた双子が笑うものだから腹が立つ。アレクシアはフィリクスの手を引いて、先ほどまでの席に戻った。頭からヴェールを取り払い、ライアンダーに手渡す。ルルシエルがくすくす笑っている。
「なんのお話だったの?」
「この人が、南の、アハハ。ファーテバじゃないよ、もっと南の海を渡った大陸にいた頃の話らしいんだけど、」
「象がいて、あ、象っていうのはホラ姉様見たことあったっけ? 部下の人が象にさあ、象に……ぶふっ」
双子はお互いの肩を叩いて笑い崩れた。内容は一切わからない。
良く磨かれた黒檀のローテーブルは長方形で、長辺にソファがひとつ、これは双子に占拠され、残る長辺に椅子がふたつ。アレクシアは仕方なく、フィリクスの横に座った。
「やあアレクシア。神聖集会に行っていたのだって? 信仰心があるんだな。なんて素晴らしい」
アレクシアはじろりと彼をねめつけるものの、フィリクスはにこにこと動じないのだった。まるで本当にアレクシアに会えたのが嬉しいとでも言いたげに。
いいだろう――アレクシアは腹を決める。そっちが何かしたいというなら受けて立つ。利用される前に利用してやろう。そう思った。
「数日ぶりですわね、アミラコム分領公様」
「フィリクスと呼んでくれってば。朝の陽ざしで見る君はひときわ綺麗だな」
面食らわなかったと言えば嘘になる。だがアレクシアも伊達に場数を踏んでいない。商談では化かし合いはしょっちゅうである。
アレクシアはふふんと笑って足を組んだ。簡素な黒いスカートとペチコートがさらさらと床に向かって垂れさがる。裾から覗く、黒レースの靴下とその下のくるぶしをちらっと見せつけてやる。いったいどうしてそうなるんだか、フィリクスの視線はそこに釘付けになった。面白い、けど気味悪い。
「ご用件はなんでしたの? 弟たちがご無礼を働いていなければいいのですが」
「ひどいこと言うなあ姉様」
「とってもいい子でお相手してたのになあ」
双子の茶々入れにも揺るがず、フィリクスはにこにこと上機嫌である。なんというか、心洗われる笑い方だ。からっとして、溌剌として。生命力に満ち溢れている。おまけにアレクシアに会えたことが嬉しいと言外に伝えてくる上、それはおそらく嘘ではない。――調子が狂う。
「話をしに来たんだ。前に求婚者として来たとき、俺のことをよく知らないからと言っただろう? もっともだと思った。だから、今日は君の崇拝者として来たんだ。よければ君を取り囲む男たちの輪の中に入れてほしい」
「ひゅーう」
「ひょーお」
双子さえぽかんと口を開ける立派な口説き文句であった。
アレクシアはすっくと席を立った。他の客たち、ホテルの使用人たち、それからどうやら窓の外にも御者や庭師などちらちら視線を感じる。もう耐えられない。
彼女はにっこりした。フィリクスから見て一番あでやかに見えるよう角度を調整しつつ微笑む。
「よろしければ庭をお散歩しません? 庭園の薔薇が見頃です」
「ありがとう。嬉しいよ。そこでもう一度求婚してもいいか?」
何言い出すんだか。
アレクシアはすたすたと中庭へ向かった。双子は顔を見合わせ、客の一人である太った貴婦人はついていっていいかどうか思い悩む。支配人はほっと胸を撫で下ろし、使用人たちはこわごわ仕事に熱中するふりをする。
ドレフ帝国のフィリクス――アミラコム分領公といえば有名人である。他ならぬリュイス王への反乱に加勢し、それを成功させた立役者なのだから。明日にはよからぬ噂が立つだろうことは、もう仕方ない。
さて、歩くアレクシアの後ろをフィリクスは黙ってついてくる。歩調を合わせるのに苦労しているようであった。
元から貴族邸宅だっただけあって、薔薇園は見事に手入れされている。さすがに、往年より縮小されていると聞いたがそれを感じさせない。
鋼鉄の柵で区切られた庭園の中に入り、フィリクスに礼儀として薔薇の花々を説明する。絶対興味なんてないだろうに、彼はふんふんと感じ入ったふうに話を聞いていた。
(見世物になるのは昨日に続いて二度目。――この人は何も感じないの?)
と思わないでもない。
他ならぬ彼に玄関ホールで求婚沙汰をやらかされたのはつい先日のこと。他の宿泊客は多くはないがいるし、使用人たちはもちろん見ていた。宿泊客は出国のタイミングを逃した外国人が多い、フュルスト商会と付き合いのある貴族や商人などである。つまり皆、アレクシアが誰か知っており、フィリクスのことも知っている。
あー、もう。だった。
とはいえ、さすがに薔薇園の中に二人で入ったのを追いかけてくるほどの詮索好きはいない。いたら大陸一の礼儀知らずである。未婚女性が男性と二人きりなど許されることではないが、薔薇園は一応野外だから多少の目こぼしされる(ちなみに同じ理由で逢引に庭園を使う恋人たちもいる)。
その多少の時間のうちに、彼の本心を知れたらいいのだが……。アレクシアはフィリクスに向き直る。男の中でも背が高い人なので、のけ反らなければ顔を見ることができなかった。
「あー、それで。フィリクス様は――はいはい、フィリクスね。呼び捨てね。ええと、フィリクス。あなたは本当はなんの目的で動いているの? 私は商人の娘です。貴族流のエスプリには疎いし、ドレフ帝国流なんてもっての他よ。腹を割って本音で語っていただかなければ話し合えません」
フィリクスは叩かれた犬のように眉を下げた。
「君と話がしたかったんだ、アレクシア。本音は――ドレフ帝国公妃の称号と、それに伴う権利のすべてを捧げたい、だが」
「……まず、えーと、そうね。ちょっと座りましょう」
出鼻を挫かれつつ、ちょうどよくあつらえられた木製のベンチを指さすと、フィリクスは素直に頷いた。やっていることはともかく、こうしてみるとまあまあかわいい男である。
二人は並んで座ったが、ベンチは大柄なフィリクスと小柄なアレクシアが一人分の間隔を開けるには狭かった。半人分くらいの空間を開け、互いの顔を見ずになんとか座る。――と、アレクシアは薔薇の垣根の向こうに見慣れた灰色の頭をふたつ、見つける。双子である。こっちを邪魔しないギリギリまで接近して身を隠し、面白がっているのか、いざ危機的な状況が訪れれば飛び掛かってくるつもりなのか。
(おまえたちじゃこの男には勝てないわよ……)
と、遠い目をするアレクシアであった。
ともかく。ちょっと膝の角度を調整して、フィリクスの横顔が見えるように座り直す。
「フィリクス・ルミオン――あ、ルミオンって偽名だったりするかしら?」
「帝国を出て彷徨っていたとき、助けてくれた聖職者の苗字をもらった。思い入れ深いから、呼んでくれるのは嬉しいよ」
「まあ」
アレクシアはまばたきした。それは小説にも記載されていなかった気がする。というか、彼はこんなに自己開示してくれる人だったろうか? もっとミステリアスなキャラクターだったし、この世界で集めた情報を思い返してももう少し慎重で、むしろ尊大、相手への嘲笑を隠さないタイプだった気がする。
「初めて会ったときと人格が違って見えるわね」
「君にだけだよ」
恍惚、には一歩遠く、だがとろんとした表情だった。彼が少し俯くと、黒い目にくるんと上向いた睫毛の影がかかる。思わず、瞳孔が開いているんじゃないかと疑ってしまう。
「そうだな。いきなりじゃ不安だろう。まず初めに――俺は青い目が好きなんだ」
「はあ」
アレクシアの目は青だ。冬の蒼天に似た晴れやかに澄み渡った青。
「まずそれで、最初にオッと思った。ファーテバの、ハクスの旅籠で会ったときだ」
腹を割って本音で話しすぎである。
アレクシアは天を仰ぐ。




