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レイヴンクールの場合

 

 リュイスの都、アリネス。国一番と名高いパレットネス劇場の天井は高く、大通りを挟んで斜め向かいに建つ大聖堂のそれよりも高い。鐘楼を除けば外見でも高いだろう。


 アラリック・ヴィオンドレ・レイヴンクールは先祖伝来のボックス席の中、カーテンごしに他のボックス席を睥睨していた。かたわらには、最愛の妻エルヴィーラ・セレーネ・レイヴンクールが眠そうに目を瞬く。


 アレクシアはその様子をボックス席へ続く廊下から眺める。ボックス席は、いや、そもそも緋色の絨毯が敷かれた隠し廊下自体、選ばれた貴族だけが立ち入れるところであって、彼女のような商人の娘が踏んでいい場所ではない。


 彼女はここまで案内してくれたクローク係に手を振り、金貨を数枚、追加で手渡した。彼はほくほく顔で一礼するや、踵を返して持ち場に戻っていく。――このように、聖域不可侵といえども案外、金でどうにかなるものである。


 アレクシアは軽くスカートを整えると、音を立てずにボックス席の中へ滑り込んだ。廊下と中を分けるカーテンは金の刺繡入りで重たいがしょせんは布、その衣擦れも階下の安い大衆席の喧噪に紛れる。


「お久しぶりでございます、おじい様、おばあ様」

 アラリックがゆっくりと振り返り、エルヴィーラははっと姿勢を正す。


 実に十三年ぶりの再会であった。アレクシアは二十歳。祖父母は……もう六十を超えたくらいか。記憶の中の彼らよりも縮んだ、と彼女は思った。


「おまえなど知らん。出ていけ」


 とアラリックは言う。片手をすでに手元の鈴に伸ばしている。警備の男を呼んで、つまみだすつもりだ。アレクシアは間違いなく彼の孫だというのに。エルヴィーラは何も言わない。ただ懐かしそうに孫娘の顔を見つめるばかりである。頬には微笑が浮かんでいるが、それが本心だと誤解するほどアレクシアは馬鹿ではない。エルヴィーラは王女の娘であり、公爵夫人なのだ。


「塩の専売について、お話が」

 と言うと、アラリックの手は止まった。目線はいまだ階下にある。開演間近、舞台の幕は風に揺れる。古く重厚なつくりのパレットネス劇場に吹く風はどこか黴臭い。

 アレクシアは続けた。


「我が父フュルスト卿が立ち上げました商会は軌道に乗り、とうとうファーテバ国に大規模な塩田を開発するに至りました。つきましてはレイヴンクール公爵家へ、優先的に卸させていただきたく思いますわ。……かつての価格で」


 言い添える。あちこちの魔法照明が消える。舞台の幕がゆらめく。階下のざわめきは変わらず、というのも一階席にいるのはごくささやかな商売を営む平民や近場からやってきた農民、下級貴族などだからだ。高位貴族は声を出して役者を応援したりなどしないが、庶民はそうではない。もちろん一階席の彼らとて、地元に戻ればいっぱしの名士なのだろうが。


 レイヴンクール公爵家は五百年の歴史を誇る名家。王の信頼を失い権勢が傾いていることなど、その血の青さを棄損するに至らない。


 祖父のがっしりした手がぐっと椅子の肘置きを掴むのが見えた。低い声がアレクシアを打つ。

「証拠は」

「こちらに。契約書の草稿および塩田の所有証明書の写しと、年間の生産量です。ご確認ください」


 アラリックは静かにボックス席のカーテンを閉めた。手渡された書類を、小さなランプを灯して確認する。エルヴィーラも身を乗り出す。束の間の沈黙。舞台の伴奏音楽が鳴り始め、役者の声が響くと一階席がわあっと歓声を上げた。


 ボックス席は外から中は見えにくく、中からは舞台がよく見える設計になっている。上映が始まれば誰も上を向くことなどなく、貴族の秘密の談合に使われるのは公然の秘密だった。

「確かに、この契約ならば我が家はかつての権利を取り戻せるやもしれん。だがそちらの利益が見えぬ。何を目的にここへ潜りこんだ、恥知らずな娘?」


 アラリックは杖を足元に打ち付けた。絨毯と騒音に紛れたその音は、娘ルクレツィアへのいら立ちの表明にも、孫娘アレクシアへの懐疑心にも思われた。

「それはもちろん、我が商会がリュイスにて立ちいくための先行投資ですわ。レイヴンクール公爵家とのお取引があるとなれば、各貴族の方々のご歓心と信頼もいただけるというもの」


 ほほほ、とエルヴィーラがやっと口を開いた。少しばかり皺の寄った、だが年齢にしては若々しい美貌をほころばせてアレクシアを見やる。

「その言い方。この人のお母様にそっくりですよ」

「王女であったという、ひいおばあ様?」

「ええ、ええ。エレオノーラ姫様。本当におうつくしい、本物のお姫様でした。今の若い貴族娘などとは格が違いましたよ」


 遠い時代。ちょうど、ガイガリオン伯爵家が新興した頃。

 レイヴンクール公爵家は王女の降嫁が認められるほどの名家であった。塩の専売権を持ち、実質的に国内の塩税を独占していた。アラリックの父親、つまり王女エレオノーラを妻に得たアヴェリン公爵の時代に栄華を誇り――そして徐々に、衰退していった。王家との間に亀裂が走ったのである。


 レイヴンクールが口出しをし過ぎたのだ、とも、王の暴走を諫めて疎んじられたのだ、とも言われる。アレクシアに詳しいところは分からない。確かなのは、現王であるタリオン・ストームヴェイルは高位貴族を政治から遠ざけ、下級貴族から取り立てた官僚を元に専制政治を行おうとしていることだけだ。


 その手始めとして王が行ったのが、レイヴンクール公爵家から塩の専売権を取り上げることだった。見返りにと、リュイスと南国ファーテバの間に横たわる湿地帯、コトルが与えられたが、見返りになるはずもなかった。


 アレクシアは両手を前に揃えて微笑む。貴族育ちの母からさんざん仕込まれた、本心を悟らせぬ笑い方。

「我が商会の威信をかけて、南から上質な塩をお送りいたします。安価に、そして迅速に。なぜなら、コトルの沼地の通行問題に解決が見えております。運河の建設計画が進んでおりますの」

「土地の所有権の問題はどうなった」


 コトルはひとつの沼にひとりの領主がいると言われるほど、小貴族たちの権勢が入り乱れた土地だった。彼らは少しでもましな沼を所有しようと長年にわたっていがみ合っている。御すに御せない、どうしようもない土地。それがコトルだった。


「国王陛下が山岳地帯における高位貴族の治水権を制限なさり、鉄砲水がコトルを襲いました。おかげ様で――と言っては可哀想ですが、農民たちは豊かな耕作地を求めてファーテバへ移住しております。民もおらず耕作地は荒れ果て、こうなっては快く買収に応じてくださいましたよ」


 アラリックは頷いたが、納得したようには見えなかった。エルヴィーラは再び椅子の背もたれに背中を預け、眠たげにする。

 舞台から溢れる音と光。ボックス席からボックス席へ、挨拶回りだろうか、歩き回る足音。祖母の柔らかな香水の香り。アレクシアはふと、ここがどこで今がいつだかわからなくなりかけた。自分はまだガイガリオン伯爵家の娘であり、今は祖父母と一緒に観劇に訪れたところなのだと。


 懐かしさを振り払い、彼女は続ける。

「運河が完成した暁には、わがフュルスト商会は正式にリュイスへ進出します。レイヴンクール公爵家以外の誰に何を言われても、塩を売ることはないでしょう。決して。お約束いたします」

 アラリックは低い笑い声を立てる。


「裁量を持つのはお前ではなく、あの男であろう。どう信じろというのだ? 名前を呼ぶのも汚らわしい、我が娘を誑かした男」

「誑かしただなんて。違いますわ」

「ほう?」


 アレクシアは肩をすくめ、つんと気取って顎をあげた。ちらり、青い目でふたりを眺めてこう言う。

「お母様がお父様を誑かしたんですの。そして彼は彼女を王命による不幸な結婚から救いあげたのです」

 祖父は豪快に笑い出した。コロコロと、気づけば祖母も笑っていた。ボックス席に響くほどの声量、舞台の音も役者のセリフもつかの間消えてしまうほどの。


 やがてアラリックは涙を拭いながら、声を収め、膨れた腹を撫でながらどさりと背もたれにもたれかかる。エルヴィーラがハンカチを取り出して、はたはた仰いでやった。

「そのうち、みんなで遊びにいらっしゃい」

「いいえ、おばあ様。それは運河が開通し、正式に貿易が開始されてからにいたします」

「そう。それはいつなの?」

「――来月です」


 ホホホ、とエルヴィーラは上品に笑う。

「用意周到なこと」

「そうまでして我がレイヴンクールの肩を持つ理由はなんだ、アレクシア? 何がお前をそこまでさせる」

「……名前で呼んでくださるのですね、おじい様」

「おうとも」


 アレクシアは目を伏せ、薄ら笑いを浮かべた。リュイスの高位貴族の間では花のような作り笑いと形容され、それ以外の間では虎のようなと形容される笑みだった。


「ガイガリオン伯爵家の破滅を。そして王家ストームヴェイルを引きずり下ろします」

 笑いは消えた。

 舞台の音はひときわ大きく、一階席のどよめきは天井に当たって跳ね返る。

「高位貴族の権勢を削ぐため、王家はやりすぎました。格の見合わない家に嫁がされた令嬢たちの心痛など、陛下はわかってくださらない」

「不敬だぞ」

「はい。わかっています」


 それでも、アレクシアは揺るがない。アラリックの視線をも受け止める。

 アレクシアは言った。

「私はやり遂げます」

 決して退かない決意を込めて。


 二か月後、レイヴンクール公爵家は事実上の塩の専売権を取り戻し、財政を立て直すことになる。


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