はじまる、前に 【12/21追記】
薔薇の焼ける匂いがする。かぐわしい、湿っぽい、青臭い、いい香りだ。
「お母様……」
アレクシアは庭園の周囲を駆けまわったが、中に入れない。薔薇の垣根が、組まれた丈夫な木の支柱が、行く手を阻む。そして火が。熱が、こじ開けようとする手を拒む。もうもうと立ち込める煙に巻かれ、目も開けていられない。
「お母様! お母様! お母様!」
泣きじゃくりながらアレクシアは叫ぶ。
「お母様ァァァァ!」
夫から毒を授けられ、母ルクレツィアはそれを持って庭園に入っていった。庭園は、母の心の拠り所。決してあの妾にだけは渡せない場所。彼女は薔薇に火をつけ、その中央で毒を煽る。
焼け残った灰の中に毒の小瓶とエメラルドのネックレスだけが残るのだ。アレクシアはそれを知っている――何故? どうして知っているのかしら?
「お母様――‼」
気を失いかけ、使用人たちの手によって屋敷に引き戻されるまで。最後までアレクシアは母を探したけれど、結局見つけることも、応えが返ってくることもなかった。
最期まで。
***
アレクシアは飛び起きた。
「ハアッ、ハアッ、ハアッ、ハアッ……」
恐怖のあまり息が、息ができない――あの夢の中の出来事、でも今も、息ができない、気がする。ドラゴンの咆哮じみた耳鳴り。周りにまだ、火がある気がする。薔薇の花びらの焼ける匂いがする。焼け焦げて黒くなった母の変わり果てた顔が、そこにある気がする!
「アレクシア! ヘンリー、アレクシアが変だわ! ひきつけみたい!」
「どうした⁉」
ばたばたと、物音がする。ああ。アレクシアはひいひい言いながら顔を上げた。
「だい、じょぶ……よ、おかーさま……」
大きく優しい手が四つ、アレクシアを抱え起こした。彼女は力なくそれに身を委ねた。瞼の裏がチカチカして失神しそうだ。冷や汗が出て全身が冷たい、と思った瞬間に母が抱きしめてくれた。濡れた髪をフュルストの手が撫でつける。二人ぶんの心配の視線に包まれて、だんだん呼吸が落ち着いてくる。
「アレクシア、平気?」
母ルクレツィアに囁かれ、コクン、とアレクシアは頷いた。ヘンリー・フュルストは眉を顰めて首を横に振り、今すぐにでも駆け出しそうに見える。
「念のため医者を呼んでこよう。まだ小さいから、何が起こるかわからない」
「だいじょぶ、アレクシアは大丈夫よ」
と本人が言うのに、まだ二人ともハラハラしているのだった。
ニャーンと高い声がして、白猫が芝生に降ろされたアレクシアに寄り添った。彼女は手を伸ばしてふわふわの身体を膝に乗せる。途端、騒々しく双子が泣きだした。全員がそちらに集中する。二人ともまだ、生後六か月だ。母が弟たちを優先するのは当然のことである。アレクシアは土色の髪を揺らして笑った。
「もう、平気よ。お母様、赤ちゃんたち泣いてるわ。行ってあげて」
そう言うと、母は納得しきれていない顔をしながらもゆりかごの方に向き直るのだった。ゆりかごは、すぐそこにある。木陰が風でさやさや揺れる。フュルストと一緒にアレクシアはその光景を見る。生きている母が、生きている双子を交互に抱き上げ、あやすのを。
「どれ、どちらかもらおうか」
「ありがとう、お願いね」
双子、どっちがどっちかしら。母に抱かれているのがライアンダーで、父に抱かれているのがルルシエルだわ、たぶん。アレクシアはまだぐるぐるする思考で、そう考えた。
あんまりにもたくさんのことを思い出して、心も身体も追いつかない。後ろ脚で立ち上がった白猫が、にゃおんと甘い声で鳴いて頬を舐めてくれた。
「ミミ、うう、くすぐったいよっ」
「うあーん?」
猫がひくひく鼻を鳴らすと、髭がこすれてこそばゆい。アレクシアはくすくす笑った。大人二人はほっとしたように顔を見合わせる。
「いい子でお昼寝してたのに急に大声出すんだもの。お母様びっくりしたわ」
「ん。ごめんなさい。フュルストおじちゃんも、ごめんね」
「いいよ。もう本当にどこもなんともないんだね? 痛いところもないんだな?」
「ウン」
「何かあったらすぐ言うんだぞ」
アレクシアは頷いた。ここには幸せが満ち溢れていた。渦巻く金髪と白皙の美貌を持つ母ルクレツィア。その恋人、貴族らしい秀麗なヘンリー・フュルスト卿は双子の弟たちの父親で、三人とも灰色の髪と緑の瞳。大事なきょうだい。大事な家族。
アレクシアはほうっとため息をついた。彼女もまた幸せだった。ついさっきまで。世界は静寂と平穏と愛されることに満ち、それしか知らなかったのに。
透き通るミルク色の肌、小さな手足。土色の髪、青色の目。困ったことにアレクシアは、二人にちっとも似ていない。強いて言えば切れ長の目と肌の色が母に似ているかもしれなかったが、瞳の色合いはまったく違う青だし、フュルスト卿に至っては似ても似つかない。
その通り。この場にいる者のうちアレクシアだけ、本当の意味で家族ではない。アレクシアの父親は、セオドア・ガイガリオン伯爵。母ルクレツィアの正式な夫であり、そしてアレクシアが父と慕うフュルスト卿の不俱戴天の仇であった。
さっきまで、そんなことは知らなかった。この二人を実の両親だと思って生きていた。だってガイガリオン伯爵とは、会ったことさえ数えるほどしかなかったもの。
双子が泣き止んだ。そんなところまで息ピッタリだ。アレクシアはのそのそと、母の傍に座りに行った。まだ首も座らない弟たちの顔を見て、頭を撫でて。白猫のミミが勝手にゆりかごに上がり込んで丸くなる。
「ライとルル、寝た?」
「寝たわよ」
「寝たねえ」
フュルストの腕がアレクシアを抱き寄せた。ぱちり。母と、彼の視線が絡み合う。この瞬間がアレクシアは好きだ。きっと死ぬまで好きだろう。
彼女は束の間、目を閉じた。
(ここ、小説の世界だ……)
記憶が、そこだけ蘇った。かつて、おそらく前世と呼ばれる世界で読んだ小説の内容。それだけが。前世の自分はどんな人間だったのか、どんな人たちとどんな生活していたのか? それさえわからないのに、文字で追ったこの世界の、とある少年の人生だけは克明に認識できる。
(たぶん、必要だからだわ。いる知識だから、思い出したんだわ。『私』がそう判断したの)
アレクシアは目を開けた。ゆりかごの中から白猫が、エメラルド色の目で彼女を見上げる。ドキドキ、心臓が脈打った。アレクシアは首をめいっぱい伸ばし、弟の一人を抱くフュルストを彼の腕の中から仰ぎ見た。そうならないことを知りながら、言わざるを得なかった。
「おじちゃん、逃げて」
「なんだって?」
「悪い人たちが来るのよ。それであなたは、お母様も、ひどい目に遭うの。まずは逃げて。それから助けに来て」
「アレクシア、やっぱり医者にかかろう。急にうわごとを言うなんて今日はおかしいぞ」
アレクシアは小さな拳を握って説得にかかろうとしたが、遅かった。
遠くで使用人が悲鳴を上げた。怒声に近しい号令がして、中庭に兵士たちが雪崩れ込んできた。
クラシュフ侯爵家の三男、ヘンリー・フュルストはさっと立ち上がった。アレクシアの身体を下し、赤ん坊をゆりかごへ。俊敏に男たちに向かっていった。
双子と白猫の入ったゆりかごに覆いかぶさったルクレツィアに抱き寄せられ、アレクシアは反射的に母にしがみついた。自分が二人いるようだ――わけがわからない。なんで? この人たち、誰? 怖い。……そう思って恐怖に硬直する子供の自分と、ああそうだった、今日こそがその日。ルクレツィアの不倫に業を煮やしたガイガリオン伯爵が、なんと王に直訴して兵隊を借り、不倫現場を押さえようとした日。と、理解した自分と。
自分と自分はすぐに混ざり合う。混乱している場合じゃない。目の前のことの方が大事だ。アレクシアは声を張り上げる。
「おじちゃん! その人たちは王の近衛騎士団! ドレフ人よ。戦って勝てる相手じゃない。私の父親が剣を持ってる、斬られるよ、逃げて!」
フュルストは彼の『妻子』を背中に庇い、敵に向かって立ち塞がった。かすかに頭を後ろに向けて、頷いたように見える。母がアレクシアを腕に引き寄せ、ゆりかごの上に押し付けた。おしろいと香水と、かすかに母乳の香りのする肌のぬくもり。
恐怖のあまり心臓がコトコトと高鳴っていた。フュルストの大声が聞こえる。学院時代、八人漕ぎボート競技の舵手として鍛えた声量は大きく、ビリビリと耳が鳴るほどだ。
「お前たち、ここをどこだと思っている! 貴族家になんの許しもなく立ち入るとは何事だ? 責任者はどこだ? 隊長を出せ」
「お静かに願います、卿……」
知らない男の猫撫で声はどうしてこうも不快なのだろう。
「名を名乗れ。なぜ紋章を着用しない! 身分を隠して押し入るとはまるで強盗ではないか。高貴なるレディの前に武を誇るとは勘違いもはなはだしい――分を弁えよ!」
「ここはお前の家ではない」
粘っこい声が言った。
「まったく、ルクレツィア。よくも俺に恥をかかせてくれたな。後悔させてやる。後悔させてやるからな」
その声は続けた。母の体温がざあっと冷たくなるのをアレクシアは感じた。
粘っこい声を取り巻いて、えへへ、と下卑た笑い声が複数。ぞわっと腕に鳥肌が立つ。自分がか弱い子供であることをアレクシアは初めて知った。涙がほろほろ零れてきて、シィーと母の声が降る。ますますその柔らかな身体の下に引き込まれてしまう。アレクシアの頬のすぐ下、ゆりかごの中から赤ん坊たちの泣き声がするのに、奇妙に遠い。
「……なんで?」
と彼女は言った。幼い、か細い声で。なんで思い出すの、今だったの。どうしてもっと早く思い出さなかったの? 今日が、ガイガリオン伯爵が動く日だって。丸腰のフュルストが剣で斬られ歩けなくなり、ルクレツィアが永遠にこの家に囚われることになる日だなんて。
「なんで、もっと早く……」
思い出せていたら。せめて対策を立てられたかもしれないのに。
「貴様、セオドア! どこまでも卑怯な真似を。ルクレツィアを痛めつけただけでは気が済まないのか? こうまでしていったい何になるというのだ!」
「黙るのは貴様だ、ヘンリー・フュルスト! ふふふ。王命書がこちらにはあるのだぞ? お前のやったことはガイガリオン伯爵家への侮辱であり、王への反逆だ!」
「世迷言をぬかすな!」
男たちは威嚇の声音で怒鳴り合った。やがてしゃらりと剣が抜かれる音がして、兵士たちが動く鎧の重たい金属音からフュルストが取り囲まれるのがわかった。――白いかたまりがアレクシアの下から飛び出した。
「ミミ!」
母の身体の下から出ようとアレクシアはもがく。そして見た。白猫がガイガリオン伯爵に飛び掛かり、ひるんだ彼の隙を突いてフュルストが包囲から抜け出す。走りざま、振り返ってルクレツィアを見つめる。灰色の髪の下、緑の目が濃く青々と濡れて見える。
猫が殺された。ガイガリオン伯爵が振りかざした刃は白いしっぽを断ち切り胴体までをも一刀両断する。白猫はあと一歩、飛びすさるのが遅かった。ミャ、とか細い悲鳴が。血のにおいが。
アレクシアは声もなくそれを見るしかない。双子は泣きわめいている。耳の奥がキーンとする。母が顔を上げ、叫んだ。
「逃げて、ヘンリー‼」
それから。
何が、起こったのだろう。
母の絶叫、父と慕った男のくぐもった悲鳴。双子の弟たちのカン高い声。芝生がえぐれ、木々はざわめく。庭園からの声は止み、ただ薔薇の香りがするばかり。青臭い、いい香り……。
あれがこの世界で最初の記憶。アレクシアは七歳だった。
兵士たちはフュルストを連れ去った。双子もいなくなった。
唯一、覚えている小説の出来事と違うことがあるとすれば。フュルストは無傷であった、ということだけだった。それは確かなことである。アレクシアはこの目で丸腰の彼が連行されるのを見たが、そこに赤い色はなかったのだから。
母子はひときわ北側の、汚い小部屋に押し込められた。風もせせらぎも、お菓子も笑い声もなくなった。花瓶も絵皿もドレスも口紅も。お茶会や慈善バザー、寄進の会など人と会うことも絶え、神聖集会のため寺院に赴くこともなくなり、優しくしてくれた使用人や友達の顔をアレクシアは忘れた。
日の差さない小部屋の小さな寝台の上、ルクレツィアは青ざめた顔で微笑んでいる。
「大丈夫よ、大丈夫……」
まるで自分に言い聞かせるように。
リュイス王国の貴族社会では、不倫は公然の秘密である。貴族の男にとって女優やダンサーを囲うこと、他家の人妻にちょっかいを出すことは粋な嗜みだった。また貴族の女にとって夫よりよい爵位や若さを持った愛人を持つことは、ステータスのひとつである。だから、母のやったことは何一つ悪いことではない。特に夫であるガイガリオン伯爵は堂々と平民上がりの妾の家に入り浸り、本宅に帰ってこなかったのだ。ルクレツィアとフュルストの愛情は、だから、ないがしろにされた妻のささやかな反抗かつ社交界の噂にも上らないたわむれに過ぎなかった。
確かに、不義の双子を産んだのは母の罪かもしれない。フュルストはいけないことをしたのかもしれない。だがそれに癇癪を起こし兵士を用いて妻を襲撃するなど、まともな男のすることではない。ましてやその兵はガイガリオン伯爵家の私兵ではなく、王家の騎士たち。ドレフ帝国からやってきた、名誉あるリュイス王属近衛騎士団であった。
アレクシアは母の手を握りしめた。早く助けてもらわなきゃ。どうして誰も助けてくれないの? お母様が死んじゃう。誰か、誰か。
「お母様。おじい様にお手紙書こう、ね?」
「それはできないのよ。アレクシア……できないの。ガイガリオン伯爵は王の寵臣。寵愛を笠に着て、私の実家に……レイヴンクール公爵家に、何か、されたら」
ゴホッと母は咳き込んだ。暗く湿っぽい小部屋の中で、繊細な白金に輝く髪の流れは神話にある黄金の川のよう。
「それに、赤ちゃんたち、にも」
折れそうに細い指が西の方角を、離れがある方を指さす。弟たちはそこにいる。
「私たちは近づいてはいけないのですって。何かされても、知らせてももらえない。あの子たちに何かあったら耐えられない」
母の中にある恐怖がさらなる恐怖を呼び、膨れ上がるのが目に見えるようだった。アレクシアは身悶えするほど悔しい。何かできることはないのか。どうして、小説のことを思い出したのに何もできないの!
ふう、と母の胸が大きく膨らんだ。息にぜいぜいと喉の音が混じるようになっていた。
「お母様……」
「もう寝にいきなさい、アレクシア。こんなところに長くいちゃダメ」
そうして母は眠りについた、ように見えたがそれは演技で、言っても聞かないとわかっているアレクシアをどうにか出ていかせようとしたからなのかもしれなかった。
それで、アレクシアはとぼとぼと小部屋を出た。隣のもっと小さな部屋にアレクシアの毛布があって、夜はそこで眠るのだった。
(フュルスト卿が、助けに来てくれるはずよ……)
より小さな、暗い部屋の中でアレクシアはらんらんと目を光らせ考える。彼らは相思相愛の恋人同士。双子の父親である以上に、アレクシアはフュルストが母を愛していると自信をもって言える。自分も彼に少なからず愛されているし、また彼女も彼を父として愛している。きっと大丈夫、と思う。小説と異なり、フュルストは無傷でこの場を逃れたはずだ。彼はお母様を見捨てない。きっと助けに来てくれる……。
そう信じていた。
――どうして気づかなかったのだろう? まだ混乱していたのかもしれない、小説の記憶を思い出しても、前世と呼ばれる自分の蓄積や思考までものにできたわけではなかったから。
まだ七歳のアレクシアにはとんとわからなかった。どうして、母があれほどやつれているのか。一緒に眠らせてもらえないのかを。
助けを、待った。アレクシアにとっては人生で初めて眠れぬ夜、長い長い夜だった。少女の体力はいつしか尽きて、それに気づくことはない。
どすどすと足音を響かせて、ガイガリオン伯爵が廊下をやってくる。突然、この家に帰ってくるようになった当主に、使用人たちは怯え呼ばれるまで姿を現さない。
父ガイガリオン伯爵は王の寵愛を盾に近衛騎士を借り受けた。ドレフ帝国から排出される天下無双の傭兵騎士。王の名誉を体現する存在だ。
ずっと放置していた妻ルクレツィアが、双子の男の子を出産したことがきっかけだった。双子がガイガリオン伯爵の子ではないことを、彼は誰よりも一番よくわかっていた。
彼は夜な夜なルクレツィアの肉体を傷つけることで復讐を果たしていた。体面を傷つけられた復讐を。母親の悲鳴は、寝入ったアレクシアの耳に届かない。それでいいのだと、ルクレツィアは思う。それだけが母として唯一の慰めである。
薄暗い日々が始まった。陽の光を恋しがりながら、アレクシアは日中は小部屋の母の許にいて、夜は隣の部屋に行かされた。一週間も過ぎただろうか。居座った当主に使用人たちも慣れた頃。
ガイガリオン伯爵家に当主と客が訪れた。急な来客はよくある話、他の家であれば迅速にもてなしの準備がされただろう。だが使用人たちの動きはのろかった。当主夫人ルクレツィアが軟禁状態にあり、指示を仰げなかったのが原因だった。
そもそもガイガリオン伯爵は何年も妾の家に入り浸りだったのだ。彼がこの家にいること自体、誰もが慣れていなかった。使用人たちは彼らだけで、あたふたと、のろのろと、歓待を執り行った。
結論から言えば若いメイドの一人が客人の膝に熱いココアをこぼし、火傷をした客はメイドを杖で殴った。なんということだろう、ガイガリオン伯爵その人も加勢した。カン高い悲鳴が上がり、疲れ切ったフットマンと家令が彼らを止めようとした。
夜半のことである。アレクシアはその騒音に目を覚まし、しょぼしょぼと瞬きをしながら起き上がった。古いマットレスが軋む。母のところに行こうか、どうしようか。少しだけ、逡巡する。お母様はお疲れかもしれない。
どかどかと廊下を進む足音が聞こえたかと思うと、ばん! と隣室の扉が開いた。アレクシアは毛布の海の中で硬直した。心臓がばくばく早くなり、冷や汗が滲む。ああ……お母様、お母様大丈夫?
「ルクレツィアあああああああ! 使用人をどう躾ている、貴様ッ、貴様ああああ‼」
「あなた、どうかお静かに。お客様はまだお見えなのでしょう……」
「言い訳するか! 不倫だけでなく言い逃れまでするのか貴様は! どの口だ、ええ? どの口で夫に口答えしておるのだあ!」
ガツン、と大きな音がする。母の咳き込む声がか細く謝罪を繰り返す。アレクシアはいても立ってもいられない。毛布を引きずりながら立ち上がり、足を取られ、もんどりうつ。もがけばもがくほど布が絡みつき、汗が出て涙も出る。うええ、と嗚咽が出たのが恥ずかしい。双子の弟たちみたいだ、アレクシアは七歳で、彼らの姉なのに。
「この不埒者が! 神々の定めた婚姻の掟に背くあばずれ。死ね、死ね‼ とっとと死ね、お前の代わりなどいくらでもいる‼」
ガイガリオン伯爵が、ルクレツィアを殴る音が聞こえる。ばき、と聞こえた破裂音が骨が折れる音でないことをアレクシアは願った。死に物狂いで部屋の外へ飛び出した。やめて、とか、いやあ、とか叫んだ気がする。だって母ルクレツィアはアレクシアの最愛の人。決して傷ついてほしくない人だったから。
あるいは、心のどこかでこう思っていたのかもしれない。自分が二人の間に飛び出せば、我に返って母を傷つけるのをやめてくれるかもしれないと。あんな男でも、まだ、信じていたのかもしれない。だってアレクシアは彼の娘だった。愛されていないのは幼いながらにわかっていた。でも、娘なの。実の。娘なんだから。そう、せめて手加減くらいしてくれるんじゃないかって……。
なんで信じたんだろうね? 一度も抱っこもされたことなかったのに。
小部屋の扉は半分開いていた。廊下の奥に人影はあったけれど、誰も助けてくれないのはわかっていた。
だから。
「お母様に触るな――‼」
アレクシアは喉が裂けるまでがなり立て、男に飛び掛かった。
こんなものは父親ではない、いや、人間ですらない。ついさっきまで、母ルクレツィアを殴っていた男。男の拳に母の血がついていた。ちくしょう。ちくしょう‼ アレクシアは全身で男の脛にむしゃぶりついた。全体重をかけて男を押さえようとし、両手の爪でひっかく。勝てない。そりゃあそうである、成人男性と七歳の女の子だもの。
母の悲鳴。ガラスが割れる音。母の身体が倒れてくる、いや違う、身を投げ出して庇ってもらっている。飛び散る赤。いけない、お母様やめて。と思う。
酒を呑んだ男の饐えた体臭、クソガキがと怒鳴る声。アレクシアは母の手を擦り抜けると、寝間着から覗く剥き出しの脛に噛みついた。ギャアッと声が上がった。汚い男の汚い声だ。
乳歯が砕けるほど強く噛み付くとかすかに血の味がして、わずかな愉悦。だがすぐに、頑丈で毛むくじゃらな拳が降ってくる。頭を滅多打ちにされる。もう片方の手がアレクシアの寝間着を掴み、小さな身体を自分から引き剥がした。宙に放り投げられる。床に落ちて身体全体が鞠のように跳ねる。
「やめてええええ!」
母は絶叫した。細い白い手を伸ばし、折れた指を気にすることもなく加害者に跪き、ひたむきに懇願した。
「やめて、お願いやめて。言う通りにします。言う通りにしますから、子供はやめて!」
ガイガリオン伯爵は、アレクシアの実父は、実の娘の波打つ土色の髪をがっしと掴んだ。それから、振り回し始めた。
「ア――」
首ががくんっ、と折れそうになる。悲鳴も上げられなかった。男は嬉々として叫んだ。
「母親が悪いから! 悪いからこうなったのかあー⁉ ええーッ? 後悔させてやる、後悔させてやるぞ。ウオオオオオオオ!」
首の骨がいやな音を立てる、視界が白黒になる。髪の毛が束になってぶちぶちと抜けた。背骨さえ軋んだ。母が身も世もなく悶えて泣いているのを感じる。ちくしょう。小さな拳で大きな手に抵抗しようにも、叶うわけがなかった。勝てない。勝てない。
――ちくしょう!
赤い色が周囲に立ち込めていた。誰かが集団で柱の陰から笑っていた。その、使用人たちに隠れるようにして。頭一つ高い人影が佇んでいる。
霞んだ目で、アレクシアはそいつを見た。コインの裏面で横顔を見たことがある、その顔。リュイスの国王、タリオン王だった。ガイガリオン伯爵は王の寵臣。その権力の全ては学院時代に当時王太子だった王との間に築いた絆に由来する。リュイスのすべての権力と威信をその身に集めるため邁進する王だ。
アレクシアは父親の手の一瞬の隙を突き、そっちに向かって這った。取り縋ったルクレツィアが殴り倒される間に、後ろ髪を引かれながら、断腸の思いで。手足をくねらせ這いつくばり、王に向かって手を伸ばす。
「た、助けて……くださ、王様! 陛下!」
答えは、なかった。伸ばした手の、本当にすぐ先にあった爪先をタリオン王はすっと引いた。殴られる女子供を見ても何も思っていないようだった。無表情に顎髭を撫で、欠伸さえしてみせる。
「ガイガリオンの娘は、うるさいなあ……」
王はその一言だけ、言った。
アレクシアは凍り付いた。助けて、と思ったことさえ恥じるほどに、何も浮かばない男の目。檻の中の珍しい動物を見る目で、彼は腕を組む。ルクレツィアに目を向け、言い放つ。
「レイヴンクールの娘なのに、こんな猿しか産めんのか」
それから興味をなくした様子で踵を返した。追随する笑い声がした。おそらく王城から連れてきたお供の者たちと、ガイガリオン伯爵家の使用人が。せせら笑っている。この一幕を完全な他人事として。
「恥かかせやがって、後悔させてやる!」
父は大声で怒鳴ると、アレクシアを掴んだ。天井近くまで放り投げ、床に落ちたところをまた掬い上げて投げる。どこかの骨がパキンと折れた。胃がぐるりと回転したところで腹を殴られ目から火花が、口から吐瀉物が飛び出た。
「やめて。子供は、子供だけはやめて!」
と母が叫んだのが最後に耳に入る。
記憶はそこで終わる。




