ガイガリオンの場合②
実の父と王は果たしてその離宮にいた。買収した王宮侍女の報告通り。ここに来るまでの間に通過したあらゆる門や兵士の詰所でばらまいた金貨の重さぶん、ドレスのひだの中が軽くなっている。
周りには騎士が幾人かいたが、それは父フュルスト卿が潜り込ませた間者だ。王の身辺警護をする王宮武装侍従でさえもこの有様。
リュイスという国はつくづく疲弊している。テトラスも、ドレフも同じだ。商人ごときの牙や舌が王宮内部に届く時点で、もはや国としての面子などあってないようなものだ。
代替わり、あるいはシステムの変革が必要な時期が来ていた。タリオン王はそれをわかっていて、己に権力を集中させ国を変えようとしたのだ。残念ながらうまくいかなかったのは、周囲に無能ばかりが集まったせいか、あるいは王に口先だけのおべっか使いと真摯な忠義者の区別がつかなかったせいか。どちらでもあるだろう。すでに勝敗は決した。歴史にもしもは存在しない。
二人の男が離宮の窓辺にいた。一階建ての手の込んだ古い石づくりの屋敷に、二人ともそぐわなかった。王はもはや心が現世から乖離しているようで、王でない男は白鳥の群れに混じったカラスのように浮き上がって見える。
アレクシアは窓辺から見える庭の片隅に立った。足音に気づいてタリオンは窓ごしに視線を寄越したが、すぐに興味なさげにそらした。そのように気高くあれなかったのがセオドア・ガイガリオンだった。
「お前……ッ」
叫んで、立ち上がる。古びた木製の椅子が男の尻に蹴倒され、哀れに倒れた。どこか砕けたらしいカン高い音もする。
アレクシアは冷めた目で実の父を眺める。どうしてこんな男があんなにも憎く、恐れていたのだろう?
アレクシアは海千山千の商談相手に舌戦を繰り広げる父フュルスト卿の背中を見て育った。彼は三人の子供たちを商会の予算会議に出席させることさえあった(双子はつまらながって逃げたが、アレクシアには面白かった)。そこで学んだのは、社会に出て己の才覚で身を立てる人間には独特の雰囲気があるということだった。
目つき、ほほえみ、背骨の伸ばし方、目くばせ、身振り手振り。素晴らしい織物を売りさばこうとする修道女にも、美しい写本を自慢げに撫でる若い秘書官にも、親の土地を大切に守り堅実に息子に手渡した老貴族にも、歌と踊りをよりよい劇団に売り込もうとする女優にも。己のなしてきたこと、積み上げてきたものに対する誇りと信頼。もしこちらからも同じだけの信頼を返せば、万全の働きでもって報いてくれると思わせる覇気があった。
彼にはそれがなかった。何もなかった。目は落ちくぼみ、首は座り鎖骨の上に顎が乗っている。まだ五十に届かない年齢なのに、手の甲にはしみが浮いていた。自分が蹴倒した椅子の反動によろめいている始末だった。
ガイガリオン伯爵は小さな男であった。アレクシアの憎しみにも、その他あらゆるどんな感情にも値しない相手だった。
アレクシアはタリオンへ淑やかに一礼する。
「国王陛下、とお呼びたてしてよろしいかわかりませんが。少しばかり、彼をお借りいたしますわ」
「……許そう」
王の声はか細く震えている。腹心の部下であった――最後に逃げ遅れた配下であるガイガリオン伯爵のことを見もしない。
「もう、どうでもよい」
「陛下ッ! そのような、そのような情けないことをおっしゃいますな。このセオドア、陛下が勇猛果敢であることを誰よりも知っております。こんな小娘ごときに怖気づくとは……」
くす、とアレクシアは笑った。パーティー用の豪奢な扇子で口元を隠し、中年男二人の喧嘩じみたやり取りを眺める。そもそも、周囲の騎士や侍女が誰もアレクシアを止めに入らないことの意味を彼はわかっているのだろうか? もうこの場に、自分たちの味方はいないということを?
「王陛下を嘲笑うとは無礼な小娘めっ、おい! 衛兵、護衛騎士よ、誰ぞおらんのかあっ!」
とうとうガイガリオン伯爵は大声で怒鳴り始めた。権力を唐突に取り上げられた男がよくやる仕草だ。まだ終わっていないと声の大きさで示すのだが、その実、まだ人から尊敬される立場でありたいと思っていることの証左に他ならない。
「怒鳴ったって何もどうにもなりませんわよ、伯爵。もう終わり。もう終わりなのよ」
「貴様、愛人に成り下がった腹から生まれおったくせに貴様、貴様ァー!!」
くあり。アレクシアは大げさに欠伸をしてみせた。
「さ、参りましょうね、ガイガリオン伯爵。お話いたしましょう。大事なお話ですわよ」
と離宮から眺められる位置に造られた人口池を指さす。追ってくるのを待たず、先にぷらぷらと歩き出した。丸木を丁寧に磨いたものを並べた田舎ふうの階段から、水面が見える。かたわらに東屋がある。
見上げると、王のいる窓辺はすでに閉じられていた。そして階段へ続く小道を、ガイガリオン伯爵は怒ったふうを装いながら下っている途中だった。本気で怒っているわけではないのだ。彼はいつだってそうだ。怒りを装い、自分を大きく見せ、その内面がカラッポであることに気づかれまいとする。
小さい男だ。アレクシアが子供だったから、そして母ルクレツィアが何も知らない箱入り娘だったから、いいようにされていただけだ。
「さすがに、タリオン様に言われれば来るのですわねえ。それがあなたの存在意義ですものねえ」
と嬲るように言うと、カッとしたようで顔を赤くする。宵闇はあたりを包んでいたが、自動点灯するよう術式を組まれている魔法灯が庭じゅうに点在して、互いの表情が読める程度にあたりは明るい。
一方で、二人を取り囲むように移動してきた護衛騎士たちの顔は見えないままである。庭木や垣根の向こうから、いつでも飛び掛かれるようにしている男たちの存在は、無駄な騒ぎを起こすなと言外に圧力をかけてくる。
「……貴様、貴様いったい何が目的なのだ」
「目的ですって?」
「お前は今まで俺に会いにこなかっただろうが! 会いたくなかったから手紙のひとつも寄越さなかったんじゃないのか! 何十年も放っておいたくせに、いきなり呼びつけて、何を言うつもりなんだ!」
呆れたアレクシアは目を細めた。
「まさかとは思いますがガイガリオン伯爵、あなたまさか私のことを娘だと思っていたとでもいうおつもり? 正気?」
アレクシアは唖然としたし、ガイガリオン伯爵もぽかんと口を開けた。信じられない、と顔に書いてあるのはお互い様だった。
「貴様ァ! 実の父に対してなんたる無礼、なんたる高慢! 天の神々も貴様のようなあばずれを許すまいよ。あのルクレツィアの娘なだけあるな!」
「母の名を呼ばないで。あなたの口に出していいものじゃないのよ」
扇子で顔を仰いでも暑い。防虫結界がゆるいようで、羽虫が飛んでいる。
この男の口ぶりや手の振り方は、十七歳のときに会ったザイオスによく似ていた。父と息子がここまで似るというなら、こいつの娘であるアレクシアにもこいつに似たところがあるのだろうか? 嫌で嫌でたまらないが、今度母に確かめてみよう。そして直そう。
「貴様!」
「貴様、貴様と。レディに対する礼儀も知らないようですね、伯爵?」
とせせら笑われて、ガイガリオン伯爵はようやく我に返ったように静かになった。
弱い男だ。虚勢を張るしかできないのだ。
「私がここに来たのは、清算のためです」
「清算……?」
「ええ。私は女王になりますし、弟たちはそれぞれ輝かしい将来がある。そう決まっているの。そこに影を落としたくないわ」
ガイガリオン伯爵は沈黙し、静止し、やがて大声で笑い出した。
「商人の愛人女が犬のように産んだ犬のような子らにそんなものがあってたまるか! 貴様らは犬の血を引いた母が不義の交尾に恍惚として孕んだ犬どもよ!」
だがそれも自然と止まる。沈黙が長く落ちる。
彼はどこか怯えたような目でアレクシアを見る。実の娘を。
腹立たしいことに、本当に本当に嫌なことに、この男の土色の髪と青い目はアレクシアそっくりだ。
「ガイガリオン伯爵。あなたはこれまでの人生で何もしてこなかった。ですから、ここで精算が必要です。落ちぶれた今、ここでね」
「はっ。小娘が何を……」
「小娘も、時が過ぎれば大人になるのよ。タリオン様へのゴマすりで成り上がった身にとっては、ここまでこられたのは十分以上でしょう」
アレクシアはドレスの前に長く垂らした絹飾りから、一枚の書類を取り出した。
「ご覧になって? 真偽を確かめる目がまだあればいいけれど」
男は受け取った紙を目を皿にして読む。そこにあるのはガイガリオン伯爵家がこれまで行ってきた改竄や誤魔化しの一覧だ。王の寵愛を元に、彼が何をしてきたのか。どのようにして国を貪ってきたのか。
「すでに旅芸人たちの手によって、この反乱の結末が面白おかしく国じゅうに伝えられているわ。あなたの名前もね。あなたは未来永劫、国を傾け、家を潰した暗愚として記憶される。そしてその後には、何も残らない。家名も屋敷もね」
ウグッと伯爵の喉が鳴る。リュイスでは不名誉であると結論づけられた家系は永遠に抹消されるならわしだ。そしてそれは貴族に生まれた者であれば何よりも恐れることだった。生まれてきた意味や意義、先祖が守ってきた誇りが台無しにされるということ。
「もちろん、あの平民女に産ませたあなたの息子も娘も残らない。すべてはなかったことになるの。――ねえ、伯爵? それなのにあなたは何故生きているの?」
コツコツとヒールを鳴らして、アレクシアは歩き始めた。
「なんのために生まれてきたの? 生きてきた意味はあったの? もしかして、人生で一番輝いていたのは学院で気楽な学生身分を謳歌していた頃だったのじゃなくて? なんて――お気の毒! 普通の人なら、大人になってから成し遂げたものをこそ誇るというのに」
「黙れッ、恥晒しめ、恥を知れ……」
伯爵は呻く。頭を抱え、首を左右に振って幻影か耳鳴りを払うかのようだ。とても小さく、小さくなっていくようにアレクシアの目には映る。
失脚した王とその側近の行く先などたかが知れている。辺境に軟禁され、家族とも会えない。いかなる権力とも切り離され、自由になることは何一つない。使用人はつけてもらえるが、世話のためというより監視のためだ。
これから先に彼を待つのは、人の世の楽しみのすべてから切り離された生活だ。
古い離宮は沈黙している。騎士たちは沈黙している。はるか彼方、人々がざわめき、笑いあうパーティー会場がある。一の郭にある本宮で開催された華やかな催し。この男は二度とパーティーに赴くことはないし、誰とも話すことはない。
アレクシアは男の周りを歩き回った。ただ静かに、たんたんと、囁きかける。それだけ。
「私はあなたに抱っこしてもらった覚えはないわ。でも、平民女の子供らは抱っこできたのよね? どうして? レイヴンクール公爵の血を継ぐ我が母が産んだ私には、気後れしてしまったのかしら?」
「醜い嫉妬にまみれた豚女め!」
「まあいやだ。私が本気であなたの父としての愛を求めるとでも思っていたの? 馬鹿ねえ。そんなことがあるわけないじゃない。私はただ、あなたにあなたの姿を見てほしいだけ。――御覧なさい」
黒ずんだ水面をアレクシアは指さす。つられて、男はそこを見る。何もない。
ただ黒々と、しんしんと、池がある。それだけだ。
「私にあなたは最初からいらないし、弟たちにとって必要だったときもない。あなたが私たちの父親だったときはない――私たちにはすでに本物の父親がいるから」
「……」
男は沈黙する。ただ、目ばかりはアレクシアを睨む。垂れた瞼。饐えた体臭。内臓を悪くした年取った男の口のにおいが水の香りをかき消した。
「私は私の人生を生きる。私の家族は皆、そうしている。あなたに何かを期待することは、今までもこれからもないわ。ねえ、知っていて? ガイガリオン伯爵家の屋敷は、抵当にかけられることになるわ。次にあそこに住むのはどんなご家族でしょうねえ? 高名な金貸し? 爵位を金で買った商人?――それとも、ああ、そうだわ! 私が買っちゃおうかしら?」
アレクシアは弾んだ声で言い、胸の前で両手をポンと合わせた。
「そうだわ、そうしましょうか。でもそうとなると、虫どもが邪魔ねえ?」
にっこり。
アレクシアは虎のように笑う。
「ねえ。あの平民女。それから男の子と、女の子でしたっけ? どうしてやろうかしら」
「……俺の家族に手を出すな」
「アハハハハハハハッ。今更常識人ぶったってだめよ。タリオン様はお妃様をふるさとにお返しになったというのに、どうしてあなたはそうしなかったの?」
アレクシアは深紅に塗った唇の横に扇子の先を当てた。ふうっと、かぐわしい果実の香りのする息で、一息に、告げる。
「考えてもなかったんでしょう。あなたはそういう生き物よ。カラッポ。ただカラッポなの。王を見れば媚びる。媚びて地位が上がれば気持ちいい。それだけ。何も考えていない。妻への配慮も、愛人への情もない。我が子らへの愛もね。自分のことしか考えていないの」
「黙れ、黙れ!」
「でもそれももう終わるわ」
アレクシアはふっと真顔になり、しんと静かな池を指さした。魔法灯に照らされて、水はずいぶん近くに見える。だが実際は、建物一階ぶんほどの高さ、離れている。
「ねえ、田舎に引っ込んで、誰からも笑われながら生きながらえてなんになるの? ねえ、暗殺の恐怖に怯えながら生きる覚悟なんてあなたにある? ねえ。ねえ? ねえ――ああそれとも、誰からも暗殺者さえ送り込まれてこないほどどうでもいいと思われていたと、思い知るのが怖くて何も決断できないのかしら?」
男は声にならない叫び声を上げ、アレクシアへ向かって突進した。彼女はふふっと笑い、東屋と周囲を隔てる柵を乗り越え向こう側へ。突き出した男の両手が柵ごしに彼女を追い、太った上半身が柵へ乗り上げる、乗り越えて彼は実の娘を殺そうとして――
ばきっ。
柵が折れる。
「えっ?」
と男は目を見開く。
「アハハハハ」
冷めたまなざしで、アレクシアはスカートを握り立っている。魔法灯が土色の髪を燃えるような赤に染め上げ、ひだがたっぷりついた白いドレスは血を浴びたあとのようなオレンジ色に染まる。
騎士たちの足音はするが、決して急いでいるとも思えない。そう、彼らは間に合わない。
そしてガイガリオン伯爵と呼ばれた男は、欲しいものも嫌いなものも自分の意志で選ぶことさえできず、ただその場その場の欲望だけで生きてきた、人間の形をしたカラッポは、東屋ごと丸木の階段の上に叩きつけられる。ぼんっ。肥えた身体は階段の上を弾む、弾む。ぼん、ぼん!
音はまるで喜劇の効果音のようだ。幕の後ろで奏でる係がいるように。
アレクシアが見守る中、男と東屋の柵は一体となって水へ転げ落ちていった。何度も何度も土と木に叩きつけられ、がつん、ぼぐっ、と音を立てながら。
やがて灰色の水しぶきが闇の中に舞って、それから溺れる音がする。アレクシアは何も思わなかったが、そんな自分を嫌だとも思えなかった。いっそ拍手でもしてやろうか、と絹の手袋をはめた手を動かそうとして、それさえ億劫なのだった。
ふうっと、細い溜息が漏れる。はあ、終わった。長かった。死んでくれて本当によかった。
数人の騎士が話し合っている。一応、あとで助けようとしましたと報告するために、ボートを取ってくるべきか――
「その必要はなくてよ」
アレクシアは彼らへ声をかけた。
「わたくしがどうにかしてあげましょう。安心して、持ち場に戻って」
彼らは頷いた。アレクシアが、というよりフュルスト商会が対価を正当に支払うことを、彼らは知っていた。どんな下賤な階級の者でさえ、きちんと働きさえすれば最初の約束通りの金額がもらえるのだ。王侯貴族ならねぎらいの言葉ひとつで終わらせるようなことでも、フュルストは約束をたがえない。騎士たちは離宮へ立ち去った。
アレクシアはしばらく池のほとりにたたずみ、まだばしゃばしゃと水しぶきが立つところを眺めていた。勢いよく飛び込んだので、そこは池の中心部に近かった。水深は、ちゃんと確かめた。あの柵に切れ込みを入れるため金を支払ったのも、信頼のおける侍女だ。だから大丈夫、奴は死んだ。
今はただもう少し、この水を眺めていたかった。そして確信したい。悪夢はもう終わったのだということを。




