ガイガリオンの場合
フィリクスの突然の訪問の、すぐ翌日のことである。リュイス議会は王の退位を正式に発表した。腐敗した不適格な者が裁判の司法官に選ばれ、……罰金や没収の約束が反故にされ、……対象者に対する有罪判決に疑問が浮かぶものである、これらすべては、リュイス王国の既知の法・法令・自由に全くもって反するものであり……うんぬん。
つまり、タリオン王は王にふさわしくない。並びに男爵家上がりのフィルセナ王妃もまた、ふさわしくない。よって議会は王に退位を要求し、彼はそれを呑んだ、と。議会からの発布は新聞を賑わし、再び号外が飛んだ。
これからしばらく、リュイスには王が不在だ。不在になっても構わないよう法律と規律が整備されている。官僚たちと議会があれば、半年間は政治も滞りなく進む。リュイスはそういう国だから。議会による新王の制定が終わるまで、少なくとも一か月、二か月くらいはかかるだろう。
ゆえに、アレクシアは持ってきたうちの最高のドレスに着替え、パーティーに出ることにした。招待状はある。父フュルスト卿の伝手で手に入れた。双子の弟にも最高の装いをさせる。
都アリネスの大通りは人が溢れかえっていた。皆、王の退位を祝い、新王の即位を予想している。
「王様が死んだよ!」
と子供たちが叫ぶ。しいっと母親が宥める。
「今度の王様は死んだんじゃないよ。北の監獄塔に死ぬまで幽閉されるのさ」
「賄賂を取ってばかりの貴族たちも軒並み死んでくれるといいが」
「とはいえ、どうだろう? 官僚は残るんじゃないのか」
「あれが一番いけねえや。あいつらが一番賄賂を取りやがる」
「官僚もみんな死んでほしいね」
「官僚ってえのは、貴族と違うんか?」
……馬車が大通りをゆっくりと進む間、そんなことばかり耳に入るのだった。がたごとと馬車が揺れ、気を抜けば天井に頭をぶつけそうだった。リュイスの石畳は隙間が多い。こんなときはテトラスの道が恋しくなる。山岳騎馬民族の国であるテトラスの道のなめらかさ、馬で移動したときの反動の少なさといったら。きっといにしえの古王国の道は全部あんなふうだったのだろう。
「タリオン王の治世は、案外評判が悪かったんだな」
向かいの席に座るライアンダーがぽつりとこぼした。燕尾服を着こなし、タイを粋に結んで目元にキラキラの粉までつけて、女の子と話すという目的を隠そうともしない。まったく同じ容貌のルルシエルは小手先の小細工など愚策、と切って捨てるタイプなので、化粧は何もせずタイもお手本通りまっすぐに結ばれている。
双子お揃いの灰色の髪がひとすじ、頬に落ちるのをかき上げ、ルルシエルは笑う。
「もう死んだようなものだからね。言いたい放題なんだよ」
「死んだら悪口を言われるわ。王族や貴族ってそういうものよ」
とアレクシアも口を挟んだ。ライアンダーはいやそうに顔をしかめ、ルルシエルはそれを見て笑う。
「俺は平民のままがいいな。商人でいい」
「俺もこのまんまがいい。偉くなる必要ないよ」
アレクシアは黙り込んだ。馬車の中にぼんやりとした沈黙が満ちた。
やがて馬車は夕闇が迫る中を王宮へ向かっていった。車寄せには国じゅうの貴族たちが詰めかけたのかと思われるほど、あらゆる紋章を掲げた馬車がすし詰めになっている。
さて、と彼女は気合を入れる。――開戦、である。
リュイスの合議制は貴族院と下院からなる議会が主戦場である。面白いことに、議会には国王の任命権と拒否権がある。たとえ正当な王の正当な嫡子であっても、慣習法に基づき即位が認められても、いったんは議会の承認を得なければならない。そこに鍵がある。
アレクシアはパーティー会場に入り、顔見知りから友人と呼べる間柄まで、すべての人間に挨拶をした。老若男女を問わなかった。双子がいつの間にか姿を消しても探すこともしなかった。
パーティーの名目は、リュイスの危機を救ったレイヴンクール公爵を称えその友人であるドレフ帝国アミラコム分領公フィリクスをもてなすため。その実、次の王を決めるための根回しや密談が多数設けられることは公然の秘密だった。
次の王は王族から選ばれるのが基本。だがタリオン王の子供たちはそのほとんどが死に絶えた。先々代から先代に至るまで、大陸は血生臭い時代だった。王弟は早死にし、戦死し、直系の王族はいない。ならば傍系から選ぶことになる。
議会は操りやすく見目の良い傀儡を望むだろう。理解力に乏しく、野心が少なく、とにかくいい子の。そしてアレクシアは女で、まだ若く、王女の血を引いており、貴族か商人かわからないあやふやな身分である。後ろ盾はただの商会で、金はあっても名誉はない。
名誉がないということは、一族がいないということ。所属する確固たる血がないということ。神々と精霊の加護にしか寄る辺がないということだ。
勝算は、ある。この上もなく。
だから彼女は人いきれでのぼせ上がるほど暑い会場の中を、鰭をはためかせる魚が泳ぐように歩く。挨拶をする。おべっかを使う。議長を務めるトンムーク侯爵に会い、それぞれ専門分野を持つあらゆる議員に会う。そして、レイヴンクール公爵を見つける。
目で挨拶をすると、向こうはこちらに気づいた。祖父アラリックと祖母エルヴィーラが歩いてきてくれるので、孫娘は彼らに走り寄った。
「おじい様、おばあ様。――おじい様、お身体は平気ですか?」
「うむ」
「この人は問題なくてよ。それで?」
祖母の青い目はシャンデリアの明かりに照らされてエメラルドのようだ。アレクシアはふと、母の碧の目が彼女から伝わったのだということに気づいた。色合いが一緒だった。ただ表に現れる色が少しばかり違うだけ。
「子鼠ちゃんは何をそんなに目立ちたがっているの?」
と、あくまで優しく、老いたる女は言う。
「たぶん、おばあ様のご想像通りですわ」
さらりと、アレクシアは言った。社交界で本音を話すなんて馬鹿はいないし、これで必要十分、伝わるだろう。この賢い祖母には。
エルヴィーラはドレフ帝国の皇族の女が産んだ赤ん坊だった。父親は先々代のトンムーク侯爵。産褥で母親を、戦死で父親を亡くし、家督はすみやかに父の弟に受け継がれた。まるでどこかで聞いた話のようだ。赤ん坊、子供、女には、わかっていても何もできないときがある。
エルヴィーラは生まれたときからアラリックとの縁談が決まっていたので、彼女の身柄はレイヴンクール公爵家に託され、そして麗しきエレオノーラ姫によって養育されたのだった。だからこの夫婦は夫婦でありながら、精神的にはきょうだいなのだ。アレクシアはそれをとても好ましく思う。幼い頃から同じ、家を守るという目的のため、互いを半身を見定めて歩んできたふたり。
「味方にはならん。お前の母が我が家にもたらした醜聞は我らの手足をもいだ。――が、返礼はさせていただかねばならんからな」
祖父は髭を撫でながら言い、ぎゅっと両目をつぶって見せた……あ、片目を閉じたつもりか。
「おじい様にもそのような茶目っ気がおありでしたのね」
「む……」
「ふふっ、この人は意外と調子乗りですよ」
アレクシアはスカートを持ち上げ丁寧な一礼をした。祖父母も同じように、傍目には礼儀正しい家族が礼儀正しく久しぶりの再会を終えたのだと見えるように。
「お二人ともくれぐれもお身体にお気をつけて……」
そのようにして、別れた。
わあっと入口で歓声が上がったのはそのときである。ドレフ帝国アミラコム分領公フィリクスが入場したのだった。
彼の黒髪は後ろに撫でつけられ額が出ていた。そうすると、切れ長の鋭い眼光がよく映える。浅黒い肌には軍服がよく似合う。肋骨服だがリュイスのものとは仕立てから違うようだ。長い足が長いブーツにぎゅっと締め上げられ、屈強な太腿の太さを強調する。儀礼用のサーベルの鞘と柄に嵌め込まれた宝石がきらきら光り、厚みのある胸に輝く勲章がまぶしい。
年若い貴婦人たちの囁き合う声、老人たちの苦々し気なまなざし、子を持つ夫婦がつつき合う。彼の周りからぶわりと香水が混じり合った熱気が伝わってくる。
王宮侍従長が朗々とした声で彼の功績を称えだす。ドレフ帝国のもっとも高貴な家系に生まれながら数奇な運命をたどり、ついには父母の待つ帝国へ帰りつき涙の再会を果たした勇猛な獅子……軍事を司るレイヴンクール公爵家との長年の友誼を尊重し、その号令に力を貸してくださった高貴なる……これぞまさに、建国王が精霊王と交わした【雪花の誓い】のようではありませんか、紳士淑女のみなさん。
アレクシアは片頬だけで笑って、そっと緋色のカーテンの後ろに後退した。カーテンの後ろには小さな机と椅子が置かれ、人いきれに当たったご婦人や密会中の恋人たちの隠れ家になっている。今は人も少なく、机と机の間をアレクシアは難なく擦り抜ける。
目指すは王城最奥。
明日には追放されるであろうタリオン・ガルヴェリス=ハ・ロンド・ストームヴェイル元国王は、専用の牢獄離宮に監禁されているだろう。
その側にはいるはずだ、ガイガリオン伯爵が。アレクシアの実の父が。奴は王の最側近、破産したって国庫から助けてもらえる無能の男妾なのだから。
「うふっ、ふふふ――」
くすくすと喉が勝手に笑い、ひくひくと頬から鼻にかけてがひきつれるように痙攣する。アレクシアは虎のように笑った。
あの男にやっと爪が届くのだ。




