とても考えられない
お客様がいらしております、とホテルフットマンが取次に来て、アレクシアは首を傾げた。
リュイスの都アリネスには今、外出禁止令が敷かれていた。街角を曲がるだけで御者が警邏兵に呼び止められる有様なのに、どこの物好きがやってきたのだろう?
「会うわ。待たせて」
と告げて服装を改めたのは、むしろこれを好機と捉えて秘密裏の商談でも運ぼうとするもの好きがいるかもしれないと思ったからだった。そしてアレクシアはそういう野心家が好きだった。
といっても、階下まで降りて出迎えた先にいたのは意外な人物だった。
「フィリクス・ルミオン!――様」
「フィリクスでいい。久しいな、アレクシア」
「いいえ、アミラコム分領公。わたくしごときが恐れ多うございます」
アレクシアはワクワクしながら丁寧な一礼をした。驚いた、思った以上の大物だった。いったいどんな話だろう? 顔を上げたとき、頬が勝手に動いて優美な笑みを作るのがわかった。
「どうぞこちらへ。旅先ゆえ心ばかりではございますが、精一杯おもてなしさせていただきます」
と三階に誘おうとすると、ああ、とフィリクスは声を張った。
「いや、いい。あんたに申し込みたいと思ってきたんだ、今日は」
「お申込み。どのようなご相談でしょう?」
さてはコトル運河の利用権の話か、とアレクシアは身構える。当然、反乱に手を貸してもらった以上ドレフ帝国には相応の礼が必要となる。かつての敵国を国内に引き入れたことの反発も大きい。十分以上の配慮をして、いったん保留にするのだ。言質を取らせてはいけない――。
だが話とは思っていなかったことだった。本当に、不意打ちだった。
フィリクスはアレクシアの前に膝をついた。ふわりと彼の前髪が浮き、麝香の香りが漂う。
離宮の池でシルヴァンにそうされたのとは違う、謝罪でも忠誠でもないのは彼女にもわかった。え、と声を漏らした佇むうちに、フィリクスはさっとアレクシアの手を取ってそこに口づける。鋭い目つきの黒い目が、今は緊張と慈しみを持って彼女を見つめる。
「求婚しに来た。俺と結婚してほしい」
……それにしても、古王国時代の神々の彫像じみてうつくしい顔の男である。精悍な美貌が生真面目に真顔でいると、何やら悪いことをした気分になってしまう。
なにもかもいきなりだ。
えーと、そもそも。
「私あなたと会うのこれで二回目なんだけど……人となりも分からないのに、ちょっと」
思わず素の声で、ぽかんと口を開けてアレクシアは言った。フィリクスは素直に頷いて立ち上がった。
「それはそうだ。性急すぎたな。また来る。何かほしいものはあるか?」
「いえ、特に」
「わかった。次も会ってくれるか?」
「……はあ、ええ」
「ありがとう。最近物騒だから気を付けて。では」
ぽかん。
颯爽と立ち去る彼が柄にもなく豪奢な黒貂の外套を羽織っていたこと、黒髪が丁寧に撫でつけられなんだかきらきらしていたことなどを、アレクシアは遅まきに悟る。まっすぐ爪先を前に出した軍人歩き、傭兵時代のすぐ右手が剣の柄にいく癖はとっくに消えたらしい。ホテルの外で蹄鉄の音が聞こえ、彼はどうやら一隊を待機させていたようだった。
びっくりした。
と思って、ぼんやりとホテルのホールに佇んでいたが、控えめに歩き回るホテルの使用人たちの足音ではっと我に返った。いけない。おそるおそる背後を伺ってみると、階上へ続く横幅の広い豪華な階段にもその先の踊り場にも人はいない。とはいえ、踊り場から伸びて二階部分へ続く二手に分かれた階段から、今、誰かが部屋に向かって歩き去った。あれは誰だっけ。このぶんだと三階からフュルスト商会の身内の誰かが覗いていそう、というか間違いなくそうだろう。
アレクシアは何食わぬ顔を取り繕って、ゆっくりと借り上げた階に戻った。使用人とは家人のプライベートの何を見ても見て見ぬふりをするものである。そこはさすがにちゃんとしている。だから、表立って何かしらがあることはないけれど。
「うんああああああああ」
談話室の扉を閉めるなり、アレクシアはそこにもたれかかり呻いた。ぶつぶつ呟き、顔を覆い、ぶんぶん首を振る。きちんと結い上げた土色の髪が徐々にほどける。
姉の奇行に慣れている双子はちらりと目をやってめんどくさそうにするばかり、ソファの上でパズルや女の子に出す手紙の文面にかかりきりである。とはいえ、様子がおかしいのはわかったらしい。
「何、姉様。株で大損したの?」
「だから一点突破はやめとけって父様言ってたじゃん」
「ほんと賭博好きなんだから」
「よくないよ。せめて競馬にしておきな」
「違うわよ! あとそこまで賭け事が好きなわけでもないわよ!」
投資は資産の分散手段である。まあたまに、面白い発明品の特許を盛り立てるため色をつけて買ったりするけど。
ふうふうとアレクシアは肩で息を整え、髪の毛からかんざしとピンを抜き、数本の髪も一緒に引き抜いてしまいきいきい文句を言った。双子は顔をそむけた。
「求婚されたわ。フィリクス・ルミオン――様に」
やがてソファの開いていたところに腰を下ろしたアレクシアが言うと、双子の手は揃って止まる。
「まさかアミラコム分領公のこと言ってる? 前は傭兵だった、ドレフ皇后の不義の子?」
フィリクスのあえて否定しない生まれの話は、すでに噂の旬さえすぎた。ルルシエルが神妙な顔で言った。行儀悪く立膝ついていたのをやめ、隣に座ったアレクシアへ膝を斜めにして座り直す。
「姉様が助けてって手紙送ったら軍隊連れてきてくれた男? やったじゃん。玉の輿」
ライアンダーは呑気に背もたれに腕を回し、羽ペンをくるくるさせた。組んだ足の先までぴょこぴょこ陽気である。
「絶対騙されてるよ、やめときな。フュルスト商会の財力を後ろ盾にしたんだろう」
「てことはアミラコム分領公夫人ってこと? 公妃って準王族じゃん!」
双子は無言で立ち上がり、バルコニーに出て取っ組み合いを始めた。
その間に、アレクシアはじっくり考える。
彼の目的は? 不意打ちの求婚で何を狙ったのか。なぜ今なのか。意図が読めない……。
通常、一国が無償で他国に軍隊を貸すなんてことはありえない。反乱が成功した今、ドレフ帝国はリュイスに対し軍事・政治・経済面で強い要求を突きつけるだろうと思われた。
ファーテバからアリネスに向かうコトル運河の通行税、テトラスへ向かう山道の関税など旨味はいくらでもある。
だが、おそらく王権の交代劇まではいかないだろうとアレクシアは読んでいた。ドレフ帝国から新しい王を受け入れろとまで言い出せば、反発は平民にまで広がる。百年以上前、リュイスからドレフ帝国へ留学という名目で貴族子弟を人質に差し出すほど軍事力差があった頃ならともかく、現状ではそこまで対応できないはずだ。
ドレフ帝国の内部は諸侯が独自に権力を持ち、半独立した勢力が皇帝への忠誠心でまとまっている状態だ。リュイスやテトラスのように中央集権化を成し遂げたくても、国土が大きすぎて不可能なのだ。ゆえに、皇帝は自らに忠義を尽くす手駒に優先的に権力と土地を与え、そこを勢力基盤としている。――それこそ、アミラコムというリュイス国境の重要地に新しく分領地化し、公爵を立てねばならないほどに。
気がすんだ双子が鼻血を拭いながら戻ってきた。
「そんで、受け入れるの?」
とライアンダー。
「反対!」
と叫ぶルルシエル。
「考え中。――服、破いたの?」
「ううん、そこは手加減した」
「ライが破いたよ! 俺の服を!」
「嘘つけよ!」
またしても言い合いの雰囲気にアレクシアはため息をついた。
「姉様としては彼の軍は魅力的なんだけどな」
アミラコム分領に入ってすぐ、フィリクスは騎士たちの訓練を始めともに魔物の討伐や領地内の揉め事を解決すべく駆けまわったと聞く。――同じ釜の飯を食う仲になった領主と配下、という間柄には特別な絆が存在する。レイヴンクールのように先祖代々の主従には及ばないまでも、彼は実力で騎士らの忠誠を勝ち取ったはずだ。
「だからといって俺は反対。どこまでも反対。そんな身売りみたいなことしないで、姉様」
とルルシエルがどっかり右隣に座り込み、左隣に前のめりに座ったライアンダーは感慨深げである。
「姉様がいなくなったら俺たちも商会で働くことになるのかな……やだなあ。まだ女の子と遊びたい」
どっちもどっちでまだ子供である。自分の感情のことしか考えていない。
アレクシアは両手を上げた。
「ともあれ、すぐには決めやしないから慌てないで。こんなこと、今はとても考えられない。国がこんな状態のときに」
危うく乱闘騒ぎに発展しかけた初回裁判以降、王の裁判は非公開で進められることになった。現在も、あの白亜の王宮内部で白熱した茶番劇が展開されているはずだ。
アレクシアとしてはあの王から得られるものはもうないだろうから、それで構わない。情報だけを入手して今後の歩みを考えることにした。
といっても、結果は決まっているようなものである。タリオン王は議会と貴族の信認を失い、人々に失望された。その結果できた経済のひずみがあったので、新興のフュルスト商会がリュイスに基盤を築くことができたのだからそこは感謝すべきだが。
この国では王は終身制ではない。国益を鑑み、その交代は容認される。
次の王は誰になるのだろう?
すでに貴族、平民問わず話題の中心はそこである。
「考えられないんなら断っちゃいなよー」
とルルシエルがばたばたし、
「返事を濁していいようにしてやればいいんじゃねえの?」
とライアンダーは無責任なことを言う。
アレクシアは背もたれに身体を預け、苦笑した。
「そんな器用な真似私にできるものかしら。とりあえず、彼が次来たときのためにちょうどいい断りの詩でも作っておきましょうか。手伝って?」
双子は起き上がり、ご自慢の詩集だの飾り模様が入った便箋だのを持ち出してあれこれ話し合いはじめた。アレクシアはそっちのけである。
ファーテバ、リュイス、テトラス三国の貴族階級において、詩や芸術の素養は必須教養である。男女の駆け引きには詩の引用も創作もいるし、仮病も涙もいる。
「それにしても姉様ってこないだまで俺たちと一緒に寝てなかったっけ? 時間が経つのって早いよねえ」
とライアンダーが呟いたが、まったくもって同感、ちょっとガイガリオン伯爵家をどうこうすることに注力しすぎたかしらと思うアレクシアだった。




