ストームヴェイルの場合
タリオン・ストームヴェイルが行いのうちひとつだけよいことがあったとすれば、それは王妃フィルセナをひそかに逃がしたことになる。国境守備軍が散り散りになり辺境伯が行方不明になった報を聞いた瞬間に彼は決断し、妻を城から出した。
結局のところ、タリオン王は王妃を愛していたのだろう。彼女は没落した男爵家の出身で、彼らの結婚には反対の声の方が多かった。それでも当時王太子だった彼は断行した。国王夫妻の間には五人の男の子と一人の女の子が生まれ、そして今、一人の男の子だけが残っている。流行り病、ひきつけ、階段から落ちて……毒殺だ、暗殺だとする声は当時から根強くあった。
子供たちを失った王が悲しみのあまり集権化を推し進めたのだろうか? これ以上の悲劇を食い止めようとして? 王妃を愛するがあまり、貴族を締め付けたのだろうか?
また、幼いうちに亡くなったきょうだいたちの無念が、マリウス王子を残酷で無気力な人間にしたのだろうか?――何をどう推察しても、言い訳にしかならない。
アレクシアは裁判所にいる。傍聴立見席のさらに端っこだが、耳の中に仕込んだ魔力石が音声をクリアに聞かせてくれる。受信機の方を持つのは、やはりというべきかひそかに裁判所に潜り込ませたカリスである。今日の彼は下っ端の書記官の風体で、何食わぬ顔でゆうゆうとお仕着せを着こなし、立ち働いている。
裁判所は古い貴族の邸宅を改装した建物で、内部は巨大なホール状に改築されている。いつもなら各事件ごとに木製の仕切りが立ち、おのおのを司法官、あるいは王が取り仕切るのだが……今回はことがことである、すべての仕切りが取り払われ、傍聴人はホールから溢れていた。
王の糾弾裁判である、と銘打たれている。
ホールは人いきれで暑いくらいだった。アレクシアは絹のハンカチで顔を仰ぐ。同じようにしている貴婦人はたくさんいたし、同行の紳士には汗を滲ませる者もいた。貴族家ごとにご自慢の比率で調合された香水の香りは混じり合い、悪臭が沈滞する。後ろからは、平民たちのけたたましい笑い声や悲鳴、すっぱいにおいがする。
傍聴立見席の中、人々は自然と階級ごとにホール中央を囲んで輪を描いていた。アレクシアは体よく貴族と平民の間くらいの位置を陣取って、他人と膝を擦り合わせホールを覗き込む。
本当はこんな下卑た真似などしたくないのだが、アレクシアはどうしてもこの目で裁判を見たかった。負けた側というものがどうなるのか、知っておかなければならないと感じていた。
とはいえ、タリオン王のことは憎くもなければ敬愛してもいないし、マリウス王子の行く末にも興味はない。取り除かれるべき障害のひとつと認識するばかりである。
「姉様、暑い」
「帰りたいよう」
と泣き言を言う双子の弟を両脇に抱え、アレクシアは唇を尖らせた。
「しいっ。静かに。始まるわ」
木槌が振り下ろされ、司法官がなにごとかを叫んだ。ここまでその声は届かないが、フュルスト卿に聞こえたことは魔力石が増幅した。
「何て言ってんの?」
とルルが耳元で囁き、アレクシアはますます眉を尖らせる。
「あとで教えてあげるから」
ここで内容をヒソヒソ話し合っていては、周りに不審に思われてしまう。
リュイスでは基本的に裁判は公開が原則である。当事者だけでなく暇な見物人が好き勝手出入りし、見世物としての意味合いも持つ。とくに今日は当事者が国王なのだから、見るな騒ぐなと言っても無意味なのだ。一応、傍聴席の周りには衛兵が配属されているが、いざ民衆が暴徒化したら手に負えないだろう。
中央にずらりと並ぶ椅子に、それぞれの司法官が座る。そのもう一回り向こうをぐるりと取り囲むのが、直接の列席を許された高位貴族たち、およびその連れ。その中にレイヴンクール公爵アラリックが矍鑠と座るのを見つけ、アレクシアは胸を撫で下ろした。
祖父が老齢の身で自ら軍を率いて反乱を指揮したと知ったときは、心臓が止まりそうになった。てっきり叔父たちがどうにかするのだとばかり思っていたが、考えてみれば武門の家柄であるレイヴンクールの当主が陣頭に立たないはずはなかったのだった。
やがてひときわ高い【裁きの椅子】に最高司法官が座った。そして国王タリオン・ストームヴェイルその人が控室の扉から出てくると、人々はざわめく。彼は手錠も縄もかけられない状態で、堂々と胸を張って被告の席についた。両脇を親衛隊の騎士が固める。アレクシアは目を細めてその様子を見守った。
王のふさふさした髭はそり落とされていた。頬がこけ、目は落ちくぼみ、彼はただのやつれ果てた中年男に見えた。貴族を苦しめ、国の体制を揺るがし、その衰退を招いた男とは思えない。
慣例に従い、被告人には弁護人がつく。その人は――ふっ、と己の口元が歪むのをアレクシアは感じた。タリオン王の弁護人は、ガイガリオン伯爵だった! アレクシアの実の父。母の夫であった男。くすくす笑いを噛み殺すアレクシアを双子は不思議そうに見つめた。
「あれ、誰だか覚えてる?」
と彼女がそいつを指さすと、揃って首を横に振る。
「アハハッ」
アレクシアは腹を抱え、口を手で覆って俯いた。耳元には始まった裁判が中継されてくる。
「姉様? 誰さ、あれ」
「俺は知らないなあ、ライは?」
「俺も知らん」
とひそひそ、姉の頭の上で囁き合う弟たち。
「あとで教えてあげる……うふふっ」
「そればっかりだ、この人は」
「姉様いつもそうだ」
法廷で他人の迷惑になる私的な会話など許されざることなのだが、この喧噪の中では咎められることもない。ホールの中は大混乱の様相だった。被告人の声さえ、司法官の読み上げる罪状さえ互いの耳に届かないほどだった。
とうとう衛兵たちを束ねる宮廷護衛官長が飛び出してきて、このままうるさいなら全員を締め出すと叫び、ようやく真ん中から聞こえる声が貴族の下っ端程度には届くようになった。
そうして裁判が始まった。司法官は形式的に、年や職業を国王に尋ね(そのたびに歓声や笑い声が湧いた)、まずは被告人が把握する罪状を聞いた。
「何も」
とタリオン王は答える。
「神々に誓って、私は私に顔向けできないことなど何一つやっていない」
人々はどよめき、司法官は続ける。
専制的統治の罪を知っているか? 我らがリュイスでは国王が議会の同意なく法律を停止したり課税することは法律に違反する――知っている。私はそうした行動を取るときは必ず議会に諮った。
貴族が生来持つ特権たる徴税権、治水工事や街道整備の権利を王命を名乗って停止させることは貴族特権保護法に違反します。異論は?――私がそうした強権を発動したのは国に害する貴族を止めるため。すべて国のためだ。
ウソつきめ、と誰かが毒づいた。そうだ、ウソだ、と誰かが追随した。衛兵が数人がかりで人混みをかきわけ声がした方向へ足を向けたため、すぐに静かになった。
神々の像を神殿の許可なく打ち倒したことを認めるか?――老朽化が進み、七賢人神殿もろとも崩れそうだった。老聖職者たちの決断を待っていては倒壊の危険があった。
これにはアレクシアも同意する。両側で双子も頷いている。だがこれに対しても、信仰の敵め、と声が上がった。神々への不信仰者め!
では、その老聖職者たちを不当逮捕し投獄たことについては?――不当ではない! 法律に則って手続きを踏んだ!
ええ、陛下。あなたが任命した宰相が制定した法律でしたな。――何が言いたい?
態度は尊大であり、彼は揺るがなかった。だがそれは自分のしたことに自信を持っているからではなく、むしろその結果を認めたくないからのように見える。言われたことすべてに国や法律を持ち出して開き直って、何になる? アレクシアはせめて国王の信念なり、集権化に尽力するに至った理由を聞けるかもしれないと思っていたのに。
タリオン王は堂々とした無能だった。そして無様だった。人々の間に漂うのは落胆、それから嫌悪だった。中央の椅子に座ることが許された高位貴族たちもまた、目を伏せ、あるいは互いに見かわす。
これが――とアレクシアは青い目を見張る。そうか、これが。王たる者が落ちたときの様子。権力を失った者を待つ末路。これが。
アレクシアはこれを知りたかった。自分がひとつでも失敗したら、どうなるかを。リュイスに連座制はない。だがタリオン王がひいきにしていた貴族たちは、もう二度と浮かび上がれまい。家の取り潰しを免れても要職には就けず、議席を保てても俸給を減らされ、子女の良縁ももちろんこない。
やがて質問は詰問口調に変わり、司法官は最後に、と前置きしてこう問うた。
貴族がいったいあなたになんの害を及ぼしたというのです? 貴族身分は国の要、あなたのしもべであったはず。それを何故、こうもお厭いになったのか?――お前たちにはわからない。
そうして問いかけが終わった。次に、タリオン王の弁護人としてガイガリオン伯爵が呼ばれ、立ち上がった。あれっ? という顔を、ルルシエルはする。
「ねえ、あの人……」
「あの女がすべて悪いのだ!!」
悲鳴じみた絶叫に、人々の口が一斉に閉じた。
ガイガリオン伯爵はみじめな様子で頭を振りたくり、なんと地団太を踏んだ。もうとうに四十を超えて落ち着いた年の、相応の地位を持つ男とは思えない振る舞いである。アレクシアは眉を顰め顔をそむけた。
まさか国王以上に無様な受け答えをする奴を見る羽目になるだなんて。
「俺は、俺たち側近は国王陛下のため、身を粉にして働いてきた! 俺なんてつい先日まで岩塩坑のため領地にいたんだぞ、それも国王陛下じきじきのご下命によってだ。レイヴンクール公爵が卑怯な手口で安く塩を手に入れたせいで――」
司法官ががなる。
「口を噤みなさい、弁護人! 司法官が問いかけるまで開いてはならない!」
破産したくせに、国庫から援助を受けていたのはお前だろ!――叫んだのは誰だろう、人々が一斉に怒鳴り、がなり立て始めたので場の収拾がつかなくなったのは確かだ。アレクシアは頭痛がする額を抑えた。呆れ果てた、という顔のルルシエルが、人垣から姉を庇いながら訪ねる。
「姉様、無事?」
「平気よ」
「あの女って誰のことだ? まさか俺たちの母様を罵ってるのか?」
ライアンダーが嫌悪を顔に出すと、母ルクレツィアにそっくりになる。アレクシアはしみじみと銀髪が彩る弟の顔を眺め、首を横に振った。すでに人々の罵声は耳に耐えがたいほどになっていた。三人姉弟は互いに身を寄せ合い、庇いあって、傍聴立見席の隅で小さくなる。
「違うわ。ブレインフィールド伯爵夫人のことよ」
「なんで?」
「なんで?」
双子は同じ顔に同じ表情を浮かべて唖然とした。
「王陛下の前の婚約者候補の中に、ブレインフィールド伯爵夫人がいらしたの。お二人と王妃殿下は同じ学年で学院に在籍していた。そのとき伯爵夫人が王妃殿下をいじめたのですって。王陛下はそのことを今でも恨んでいるらしいわよ、少なくともあの男はそう信じているようね」
「ありえないよ。あの伯爵夫人が。絵に描いたようにいい人なのに」
「仮にそうだったとして、そんな何十年も前のことを未だに? 狂ってるのか?」
まっとうな反応だろう、とアレクシアは頷いた。
結局、その日の裁判は中断となった。衛兵の数が倍に増え、あらゆる階級の傍聴人が追い出された。
ホテルの部屋に戻った三人は、談話室に集合した。三階建てのホテルの三階をまるごと借り上げたので、三人の他には信用のおける使用人しかいない。フュルスト商会が出資したホテルのオーナーは父フュルスト卿である。子供たちが多少ワガママ放題だろうと、ホテルの者たちも何も言わない。
三日間の反乱と呼ばれる騒動以来、王立学院は目下のところ休学中だ。生徒たちは次々に家に帰され、帰る家がない者、家が遠すぎる留学生などは教授の誰かが引き取ったという。双子はファーテバの家に帰ると言って学院を出、その足でアレクシアが滞在するホテルにやってきた。
「姉様、いつも自分だけ面白いことを見てくるからずるいって前から思ってて」
「今度こそ一緒にやってやろうと前から思ってたんだよねー」
とのことである。
それなら、アレクシアに異存はない。双子が自分を裏切ることなどありえないのだし、せいぜい役立ってもらおう。そう思って、今日の裁判に連れていったのだが。
裁判所からの帰り道、双子は黙りこくっていた。なんだろう? 内心、首を傾げるアレクシアだ。
「……ひょっとしてなんだけどさ」
口火を切ったのはライアンダーだった。
「俺たちがフュルストで育つことができたのって、かなり運がいいことだったのか?」
「そうよ。少なくともあの男の元で生まれた家で育つよりは、間違いなくよかったわよ」
ルルシエルが呼び鈴を振ってメイドを呼び、お茶を頼んだ。メイドのお仕着せのスカートの裾が扉の向こうに消えるか消えないかのうちに、神妙な声で言う。
「そういえば聞いたことなかった。父様が本当の父様じゃないことは知ってたけど。なんで母様はあの夫を捨てたのか」
「知りたいの?」
「知りたいっていうか……」
「あんなん俺が女でも捨てるわ」
「俺も」
双子は顔を見合わせ、同じ角度で首を傾げた。アレクシアはちょっと笑ったが、虎のしっぽが見え隠れする笑い方だった。
メイドがお茶を持ってきたので、きょうだいはしばらく黙った。使用人とはもの言う家具である――と公言するほどフュルストの家風は厳めしくないが、お茶とお茶菓子が揃うまでは沈黙が部屋に満ちる。
「で?」
メイドが一礼して立ち去ると、ライアンダーが言う。
「私がね……」
アレクシアはカップの中の花の香りのお茶に目を落としながら呟いた。
「ふんふん」
「うんうん」
「殺してあげるって言った」
「あいつを?」
双子の声が揃い、同時に嫌な顔をする。無意識に同じことを言ってしまうので、あえて時間差をつけてもう一方とは別の言葉を口にするのがこの双子の特徴だった。
「あいつを屋上から突き落としてあげると言った。そしたらお母様は私たちを連れてお父様のところに逃げてくれたのよ」
一息置いて、双子は声を合わせて笑い始めた。笑い声は言葉ではないからか、息継ぎや声の調子まで揃うのも気にしない。
アレクシアは砂糖もミルクも入れないお茶に口を付けた。甘い香りに頭痛が和らぐ。
「そうした方がよかったんじゃない?」
また揃った。双子はぴたりと笑うのをやめた。
アレクシアは虎のような笑みで弟たちを見つめた。ホテルは古い建物を改装したもので、開いた窓から大通りの賑わいが聞こえる。外でも下の階でも今日の裁判の話で持ち切りだった。やってくる夜はまだまだ長い。酒場は早々と開店し、号外が飛び交い、噂話に尾鰭と足鰭までついて、魚も歩き出す。
「いずれ、そうするつもり」
アレクシアがお茶と自分の時間に戻ってしまうと、ライアンダーとルルシエルは揃ってため息をついた。
夕闇が迫る前にメイドがやってきて窓を閉め、夕食は何時になさいますかと尋ねた。




