シルヴァン・ミストヴェルの場合
兵士たちに先導されたアレクシアがヴィヴィエンヌのいる離宮に立ち入った瞬間、シルヴァン・ミストヴェルは目にも止まらぬ速さで駆け寄ってその胸ぐらを掴み上げた。アレクシアが男性だったら殴られていたに違いない。
「いい、いいってば。およし」
と両手をぱたぱたさせて止めなければ、レイヴンクールの兵士たちはシルヴァンを殺していただろう。
「兵たちが――兵たちがヴィヴィエンヌ様を軟禁しようとした。誰も味方にはならなかった! レイヴンクールの兵士だった。あんたが指示したんですか、お嬢さん? あんたが! ヴィヴィエンヌ様を人質にして、外交を有利に働かせようとでも画策したんですか。俺は何も知らなかった、とんだ道化だ!」
「シルヴァン! やめなさい!」
叫んでヴィヴィエンヌは護衛騎士に走り寄った。朝の光の元で見る金髪と、顔色が同じ色ほど白く青ざめている。レースのスカートがふわりと揺れ、しなやかな手で必死にシルヴァンの肩を掴んでつま先立ちになる。
「やめなさい、アレクシア様は私たちを助けてくれたのに!」
「……このお嬢さんはあなたを囮にしたんですよ、姫様」
ぐるぐると唸りながらシルヴァンは恫喝じみた低い声で言った。アレクシアはうっすらと虎のような笑みを浮かべる。
「そうこなくちゃね、シルヴァン……お前は本当によい騎士だこと、痛い痛いごめんってば」
シルヴァンは大きな拳でアレクシアを二度、三度と揺すぶると、絨毯の上に降ろした。兵士たちが半円を組んで彼とヴィヴィエンヌを取り囲む。
「おやめ。お下がり」
けほっとムセながらアレクシアは命じた。兵士たちは不服そうに包囲を解いた。退出はしない。さすがにそこまではできない、反逆の立役者、レイヴンクール公爵の孫娘を敵陣に一人残すことなど。
「ヴィヴィエンヌ様、再びのお目文字嬉しゅうございます。少しお窶れになりましたね……」
「ええ。あなたは元気そう、アレクシア様」
ヴィヴィエンヌは一瞬で平静を取り戻すと、アレクシアと兵士たちを離宮の奥へ案内する。こぢんまりした応接室にはすぐついた。窓は開け放たれ、百合の香りの風が通る。少しよどんだ水の気配。
「おかけになって。そして聞かせてください。なにしろ私たちは、ここに閉じ込められてから何が起こったかひとつも知らせてもらえないでいたのですもの」
アレクシアは頷いた。壁際に並んだ兵士とシルヴァンをないものとして、二人だけでソファに着席する。
リュイス国軍はドレフ帝国軍に屈した。驚いたことに、侵攻開始からわずか三日たらずのことだった。
各貴族が家の責務として保持してきた騎士団を解散させ、農民の次男以降や職にあぶれた男たちを国が徴兵し、常備軍を保有する――それがタリオン・ストームヴェイル王の描いた政策だった。王はそれを実現するため、有力貴族の権利を制限した。身分を問わず有能な官僚を取り立て、中小貴族に特権を与えた。すべては王家に権力を集中させるために。
官僚を手足に、王が国の全てを掌握する。行政も軍事も徴税も何もかも。そうして強大な国家を打ち立てる。――それは夢物語である。
リュイスの官僚機構も、貴族たちの権威も、そして何より人心が、矢のように降り注ぐ制度改変に対応しきれない。
ドレフ帝国は正しくその隙を突いたわけだ。
いったい誰が悪かったのか? 代々一緒だった自前の騎士たちを取り上げられ、新兵ばかりの状態で国境警備にあたっていた辺境伯? 街道を整備した侯爵、それとも材料を提供したフュルスト商会だろうか? いいや、悪いのは一人だけ。急進的な改革により国体を弱らせたタリオン王である。国が負ければ王が責任を負う。簡単な話だ。
アレクシアは簡潔に、この三日間にあったことを二人に伝えた。すでに都アリネスにドレフ帝国軍の一部が入っているが、彼らは規律を守り略奪などは発生していない。レイヴンクール公爵家の配下たちの監視もある。民にも目立った動揺は見られなかった、緊張はありつつも。
ヴィヴィエンヌは考え込む表情で、シルヴァンはイライラと爪先で大理石張りの床を叩きながら聞いていた。
離宮は、わびしかった。大理石はみごとだが、装飾が少ない。カーテンもタペストリーも古びたもので、ヴィヴィエンヌにはふさわしくなかった。シルヴァンが気に入らないのはおそらくこの空間のすべて、今の状況のすべてだろう。
「タリオン王が徴兵を断行しようとしても……兵士は、集まらなかったでしょうね。間に合わなかったのでしょう、何もかもが」
と顔を上げたヴィヴィエンヌは、為政者の目をしていた。アレクシアは深く頷き、耳まで裂けそうなほどの笑みを浮かべる。虎を通り越してほとんど魔物である。シルヴァンが正気を取り戻し、思わずヴィヴィエンヌの背後にはべるほどの勢いだった。
「ええ、相次ぐ天災により農民たちは逃げ出していますから。戸籍にあるほどの頭数は集まりませんでしたでしょう。それに――自分たちの村を守ってくれる領主の号令だからこそ、彼らも奮い立って集まるのです。王と民では距離が遠すぎる。王陛下はそれをおわかりでいらっしゃらない」
ここ数年の冷害によって輸出量の減ったドレフ帝国産の小麦。その穴埋めのようにやってくる南国ファーテバの新耕地でつくられた小麦。
それらは実のところ、逃亡民の手によって生産されている。彼ら弱い者たちはすでに生まれ故郷を捨てるほど追い詰められている。領主と王の代官の対立から、あるいは崖崩れや川の氾濫といった自然災害から逃げ、新天地を目指した彼らをファーテバおよびフュルスト商会は受け入れた。
「それであなたは、卒業式後の夜会を目くらましに貴族たちを集結させ、あるいは分散させて初動が遅れるようにしたのね?」
「ええ」
「異母弟殿への派手な詰問も、その場から人が立ち去らないようにするためだったのね?」
「ええ」
「手紙や、人を動かしたり、色々と手を回して。きっと学院の中にもあなたの手の者がいたのでしょうね……。なんてこと、そんなことができるなんて思わなかったわ」
ヴィヴィエンヌはほうっと息をついた。
「たかが商人の娘に、ですか?」
アレクシアが軽い口調で問いかけると、いいえ、とヴィヴィエンヌは首を横に振った。
「若い女性にそれほどのことができるとは思っていなかったの。――女性とは、従順と、自分の頭で考えないことだけを教え込まれるものだとばかり」
「……両親のおかげですわ。二人は私たちにあらゆるものを見せてくれました。世界のよいところも汚いところも、商売の裏と表も。そして自分で自分の生きる道を決めなさいと言ってくれたのです」
ヴィヴィエンヌは眩しいものを見る顔をする。シルヴァンは痛ましげなまなざしで最愛の女性を見つめる。
「羨ましいわ、とても」
にこっ。
二人は笑いあう。
アレクシアが小説の内容を思い出すのがもう少し遅かったら、この場での立ち位置も入れ替わっていたのかもしれなかった。アレクシアは主人公ザイオスをいじめた罪で軟禁され、裁かれ、ヴィヴィエンヌがそれを眺めたのかも。
だがそうはならない。アレクシアは負けない。思い出すのがいつであっても、たとえ小説の筋書き通りに辺境へ追放されたのだとしても、必ず逆襲を遂げただろう。遂げられなくても子孫を残し、恨みをこんこんと伝えたに違いない。
アレクシアはそういう女である。
「タリオン王とマリウス王子は捕らえられました。現状、この王宮はレイヴンクール公爵家が管理している状態です。ご自由にしていただきたいのですが、どこに敵が潜んでいるかわかりません。どうかしばらくはここでお過ごしください」
「わたくしとマリウス王子の婚約はどうなりましたか?」
「おそらく、破棄かと」
ヴィヴィエンヌは花が開くように笑った。アレクシアがすでに失った笑い方だった。
「ではテトラスに帰ります。シルヴァンと一緒に。なんとしても。たとえその結果がアレクシア様、あなたと敵対する道だとしても」
「……そうならないよう願っています、ヴィヴィエンヌ様。では」
アレクシアが席を立つ、その後ろをシルヴァンはついてきた。客人が家を出るまで家人の誰かが付き添うのはおかしいことではない。無言で大理石の廊下を歩く。離宮には小さな庭園がついており、百合の香りが漂う。丸い池に、カルガモだろうか? 鳥の親子が泳いでいる。
「ヴィヴィに何を吹き込んだんです、お嬢さん?」
やがて根負けした様子でシルヴァンは呻いた。アレクシアは足を止め、シルヴァンとその後ろをついてくる兵士たちを見つめた。
シルヴァンは怒るというより、子供のようにむっとした顔である。貴族を学院に集めるため、そしてより大勢を聖堂に集めるための見世物がエマとザイオスの一件であり、そこにヴィヴィエンヌが巻き込まれないわけはなかった。ザイオスはマリウス王子の側近なのだから。彼はそのことについて怒っている。尊き姫君を手駒のひとつのように扱ったアレクシアの思い上がりを。
そしておそらくは、企てに参加させてもらえなかった自分の力不足を嘆いている。
「少し話しましょう。よろしくて?」
とアレクシアは庭園へ続く小道を指さした。シルヴァンは頷いた。
小鳥が鳴いていた。姿は見えない。カルガモに似た鳥の親子はつぶらな瞳で互いだけを認めている。池のほとりの土は崩れかけていて、危ない。アレクシアは眉を寄せた。
「修理の者を入れなくてはね。信頼のおける者を手配します」
「ええ、そっちはお任せします。――先ほどは申し訳ありませんでした。我を忘れました」
彼はアレクシアの足元に跪いた。ごく簡素な衣服の膝が泥で汚れるのも厭わず、最敬礼で頭を下げる。ぱさぱさの赤茶けた髪のてっぺんを見つめながら、アレクシアは言う。
「構わないわ。だってヴィヴィエンヌ様、死ぬところだったものね」
ぐっ、とシルヴァンの肩が強張る。
元々リュイスの民であり、国を憂えて決起するという大義名分があったレイヴンクールはともかく、レイヴンクールとの友誼により手を貸す形をとったドレフ帝国軍にとって、ヴィヴィエンヌは獲物にすぎなかった。山岳地帯の勇壮な兵を従える大国テトラスの姫君を手中に収めれば、次の侵攻の名目にさえなっただろう。マリウス王子との婚約は彼女の希少価値を高め、逆にその身の安全を脅かした。
すべてわかってアレクシアはドレフ帝国軍を引き入れた。シルヴァンが怒るのも、恨むのも当然のことだ。
「俺はあなたが幼い頃より、護衛騎士としてお仕えしてきました」
「ええ」
「あなたの悪辣さは知っていたつもりでしたが、お嬢さん。あなたの元を離れたらもう信用してくださらなくなるとは、思いませんでした。あなたの悪巧みに翻弄される側の役を初めて演じましたよ――こんなに狼狽するものだとは」
「そうね。でもシルヴァン、おまえに漏らすわけにはいかなかったのよ。そうしたらおまえはヴィヴィエンヌ様を連れて逃げたでしょうから。タリオン王にばれるわけにはいかなかったの」
アレクシアは手を伸ばし、シルヴァンの肩を二度、叩く。許しを得て、騎士はゆらりと立ち上がった。彼の中で整理がついたのがアレクシアにはわかった。
「それで、――お嬢さん、あなたはヴィヴィをどこまで変えれば気がすむんです?」
「変えるって?」
「さっきも見たでしょう。あんたにできるんなら自分にもできるって思ってしまったみたいだ。テトラスに戻って、俺の叔父を断罪する気でいます」
「まあ」
アレクシアの顔がほころんだ。虎のような笑みになる、手前の表情だ。彼女はシルヴァンに向き直る。足元の土がわずかに崩れる。
「王女の権限をめいっぱい使って、我が叔父のやったことを暴き出し、ミストヴェルから追放すると言っています。王家と対立してでもそうすると言うんです。バルドリック・エヴレン王や、兄上たちと。ミストヴェル侯爵家に立ち向かうと……我が叔父タルヴェルと戦う気でいます。それから俺を正当な侯爵に推薦するのだと」
自嘲がシルヴァンの目を曇らせる。このあたりの水からは百合の腐った甘い匂いがする。
「夢物語ですよ。殺されてしまいます。俺はヴィヴィと、彼女の子供たちを護衛騎士として見守ることができれば十分なんだ。それ以上は望まないと何度も言うのに、俺のために父と戦うんだって言ってきかない――」
「アハハハハハハハッ!!」
アレクシアは弾かれたように笑い出した。驚いた母カルガモが水から上がり、人間どもがいるのと反対側の岸辺へ逃げていく。驚いて後を追うヒナたちの騒々しい悲鳴が響き渡る。
「アハッ。アハハ、ふふっ……おまえったらちっとも変わっていないわねえ! フュルスト商会から旅立ってもう三年になるのに。おお、シルヴァン・ミストヴェル!」
腹を抱えながらアレクシアはシルヴァンの肩をこづいた。堂々たる体躯の男はこゆるぎもしないが、呆然と目を瞬いた。
「お嬢さん?」
「それで? お前はヴィヴィエンヌ様にどうしろと言いたいの。私に彼女を止めてほしいってことかしら?」
頷く、その動作すらぎくしゃくして面白いのだった。
アレクシアは笑いの残滓が残った目元を拭いた。
「テトラスの名門ミストヴェル侯爵家の嫡男!――そうね、もしあなたがミストヴェルの正当な当主となり、権威を取り戻せばテトラスの権力構造は一変するでしょうよ。あなたの叔父は他の官僚どもと一緒になって国庫を食い荒らすしか能がないようだから」
リュイスとテトラスは長年、表と裏のような関係だった。平野と山岳、農耕民と狩猟民。同じときに同じように繁栄し、衰退し、提携し、憎み合った、この双子のようによく似たふたつの国。
タリオン王とバルドリック王、己の権勢のため古くからの貴族制度を破壊しようとする二人の王……。ふたつの国の破綻もまた、同じように訪れるのかもしれなかった。
「前に。俺は許されないと言ったわね、シルヴァン? ヴィヴィエンヌ様の前に姿を現すことも、口を利くことも許されないと」
アレクシアはそう聞いた。シルヴァンは戸惑いながらも頷いた。
「ええ。俺は許されない」
「彼女と結婚したら二人、幸せになれるでしょうに」
「はっ?」
「この三年、本当に何もなかったの? 学院にいたとはいえ、あんなに彼女の近くにいて?」
シルヴァンはぽかんと顎を落とす。それからおずおずと、照れくさそうに首をかいた。
「そんなことはますます許されません。俺と、ヴィヴィが? いいえ。あってはいけないんです。冒瀆だ」
「何がおまえをそこまで言わせるというの?」
アレクシアは辛抱強く問いかける。シルヴァンは自分で言わなければならないし、気づかなければならない。
青年は戸惑って笑った。からっぽの笑顔だった。
「俺は父も母も助けられませんでした。剣を習っていたのに、昔から身体が大きくて馬にも乗れたのに、肝心なときに何の役にも立たなかった。次もそうなるかもしれません。だから、俺は何にも手を伸ばさないんです。ヴィヴィが幸せでいてくれればそれでいい」
アレクシアはどうして小説で自分がザイオスたちに負けたのかがわかった気がした。父は信用ならず、母を失い――守りたいもの、大切なものなど何一つなく。欲しいものがあったとしても、手を伸ばせない。失うことを恐れすぎて。
アレクシアは苦笑して、崩れやすい池のふちからシルヴァンに向かって手を伸ばす。
「転んじゃいそうだわ。支えてちょうだい」
「あっ、はい」
反射的に差し伸べられたがっしりした手を掴んで引っ張り、小道のさなかに向かって肩をすくめた。
「こんなこと言っていますわよ、ヴィヴィエンヌ様? もうちょっとお説教が必要そうですわね」
木漏れ日の中に佇むヴィヴィエンヌの顔は真っ赤だった。おっとりした風情は掻き消えて、もはや怒りのあまりものも言えないようだった。スカートを握りしめ、皺も意に介さずひたすらシルヴァンを睨んでいる。
くすくす笑いながらアレクシアは棒立ちのシルヴァンの横をすり抜けた。飛び石でできた小道をたどりざま、後ろから痴話喧嘩の騒音が切れぎれに流れてくる。
――私の愛を疑ったっていうの!? マリウス王子には指一本だって触れさせていないのに――知っているはずでしょう、よりにもよってアレクシア様にあんなこと――わあ、ごめんなさい、ごめんなさいヴィヴィ!……落ち着いてくれ、ヴィヴィ!
騒々しいことこの上ない。
「アハハハハ」
アレクシアは天を仰いでからから笑い声をあげた。庭園の入り口で待っていたレイヴンクールの兵士たちもまた、木石ではないから、くつくつ笑いを噛み殺している。
「どう? いい若者でしょう」
とアレクシアは兵士長を務める壮年の男に問いかけた。彼は苦虫を嚙み潰したような顔で、だが目は笑って頷く。
「まったく。まだ青いですが」
「ヴィヴィエンヌ様と一緒にテトラスを裏切って我が国に来てくれないかなあ?」
「……ご当主がそんなことを企んでおいでなんで?」
「いいえ、まだ私が一人で言ってるだけ」
男たちは冗談だと思ってどっと笑った。アレクシアは彼らの先頭に立ち、しゃらしゃらとスカートの裾を引いて進む。顔にはやがて商人らしい笑みが張り付いて、虎の気配はなりをひそめた。
アレクシアがどの程度本気なのかなど、誰も知らない方がいい。




