カレンナ・ブレインフィールドの場合
初めてザイオスに引き合わされたそのとき、カレンナはいっぺんに彼が嫌いになった。
「お前、女のくせになんでそんなに背が高いんだ?」
と言われた十四歳の令嬢は、目の前の男の子が同い年の貴族の嫡男であるとは到底思えなかったし、あとから知ったことだがそれは事実だった。ザイオス・ガイガリオンは半分しか貴族の血を受け継いでおらず、そのことにひどい被害者意識を持っていた。
この四年間、無理やり取り付けられた交流で、おぞましい思いをしなかったことはない。ザイオスは何かといえばすぐに被害者ぶり、カレンナを罵った。
彼の母も妹も、少なくとも貴族の生まれであれば持たない美意識、金銭感覚、そして特権意識を持っていた。とくに母エイナの方は生まれ持った美貌でもって貴族家に上がり込んだということに、アイデンティティに近い誇りを抱いているようだった。妹ペルアもまったく同じ意識を持っていた。
彼女らに言わせれば、努力もせず、ただ貴族の家に生まれたというだけの貴婦人というものは皆、ズルイ女なのだという。女の戦い、つまり美貌と色気でもって成り上がったことはエイナの誇りであり、だから、ペルアも同じように伯爵家以上の家にとつぐべきなのだと。彼女らは平気でそんな理屈を口にした。……ルクレツィアもアレクシアも不幸になるべきだ、とも言った。未だ彼女らが生きていること自体が間違いなのだと。
めまいがした。だってその言葉はそっくりそのまま、生粋の貴族の血を持つカレンナにも向けられているのは明確だったから。
父は泣く。母も泣く。王命には逆らえない。兄弟たちはこっそり逃がしてあげようかとさえ言う。
カレンナは覚悟を決めるしかなかった。どうしようもない、のっぴきならない状況を、受け入れ、生贄となってガイガリオン伯爵家に嫁入りしよう。そうすることで、愛しいブレインフィールド伯爵家と領地を救おう。そう思った。
アレクシアに出会ったのはつい先月のことだ。彼女はフュルスト商会の名でもってカレンナの元を訪ねてきた。手土産は、南国ファーテバの珍しい絹織物だった。ブレインフィールド家の簡素な応接室で、彼女は品物をいろいろ見せてくれた。母とカレンナはそれを見、たまたま父も同じ部屋にいた。あるいは三人が揃う時間をアレクシアは知っていたのかもしれない。そして彼女は言った。
「カレンナ様。婚約者のことがお好きですか?」
と。
答えられないカレンナを見て、にっこり、どこかぞくりとするような笑い方をした。それまでの商人らしい売り込みの顔とは違って、大きな猫がくつろいでいるようだった。アレクシアは父に向かっても同じ笑みを見せた。
「ザイオス・ガイガリオンは卒業式後の夜会で、お嬢様との婚約を破棄するつもりでおります。許せることではございません。対抗しなくては。ひとつ、お許しをいただきたいのです。ザイオスがしでかすお嬢様への狼藉を収める、その舵取りを私に任せていただけませんか」
「いきなり現れた赤の他人が何を言うか!」
と父が吠えたのを覚えている。そのときにはカレンナはぼうっと頬が上気してしまって、ひたすらアレクシアの青い目を見ていた。海のようだわ、と思いながら。
「私の手飼いの者を学院に紛れ込ませております。エマと申します娘です。……カレンナ様は、ご存知かと思いますが」
カレンナは固まり、隣の母もはっとした。ザイオスがある少女に入れあげカレンナをないがしろにしていることは、公然の秘密だった。
アレクシアは証拠を提示し、懇切丁寧に計画を説明した。
「異母弟は私が憎いのです。そして私も彼が憎い。これは私にとっても好機なのです」
と、身内の恥を晒すようなことさえ言った。父がそれを聞いて心動かされたのか、別の思惑があったのか、カレンナにはわからない。ひとつだけはっきりしていることは、王命によりブレインフィールド伯爵および夫人は娘カレンナの卒業式への参加を禁じられていることだけだった。――問題を起こすから、と言って。
どうして……陛下はそんなに、我が家をお嫌いなのだろう、と考えると、それはつまり母が未婚時代、陛下の婚約者候補だった時期があり、けれど破談になって……という経緯がある。八つ当たりである。癇癪である。仮にも国王の地位にある人がすることではない、とカレンナは思う。でも。
今のリュイスにおいて、国王は法律そのものだ。逆らったら国軍に家が潰される、絶対的な権力。
「証人がいないというのに何を信じてもらえると思っていますの?」
というアレクシアの声で、カレンナは我に返る。
はっとダンスフロアを見つめ、うつくしい女があのザイオスを追い詰めているのを見た。虎が兎を狩るように、一方的に見えた。
アレクシアの独壇場が続き、王族にさえ平然と問いかける様子を見てカレンナは息が止まるかと思った。下手をすれば不敬罪だ。それでもアレクシアに異を唱える人はいないだろう。今、この場の支配者が彼女だから。
(すごい)
と胸が鳴る。ああ。カレンナは苛烈な、聖堂のてっぺんのステンドグラスから降り注ぐ月光を浴びてなお鮮烈な、大輪の薔薇の花に憧れる。喉の奥がきゅうっとするほど、両手を握りしめてしまうほど。
カレンナのそばに美しい少女が二人、そろりそろりと寄り添ってきた。カレンナは三人の中で一番背が高い。自然と、彼女を中心に集まる形になる。見た目は平静を装いながら、心臓はばくばく言っていた。
聖堂の真ん中に、薔薇がいる。動いて喋って、場を支配する。
王の血を持つ薔薇だ。
「私には、できない」
と思わずつぶやいてしまった。高貴なるヴィヴィエンヌが頷く。
アレクシアには貴族令嬢によくある自縄自縛の考え方がないようだった。カレンナが彼女の立場だったら、あれほどみごとに振る舞えたかどうかわからない。ダンスフロアに上がった時点で顔が赤くなって、だめになってしまっただろう。ザイオスへの怒りが、そして先月から千回も練習した物言いがあったから、婚約破棄だとかいう宣言にも冷静に言い返せたのだ。
エマが目を細め、どこか憧れの口調で言う。
「私、アレクシア様にお仕えできるって決まってすごく幸運です……」
「いや、そんないいもんでもないよ」
げっそりした声が耳に飛び込んできた。え、と顔を向けると、きらきらした銀髪の少年がいる。
「ええと、ライアンダー様」
「ルルシエル様の方ですわ」
呟いたエマに耳打ちする。ライアンダーは人懐っこく微笑むと、三人をそっと人垣の方へ誘導した。卒業生の女子生徒が固まっているところだった。さあっと波のように人が別れ、再びさっと閉じ、三人はうまく人々の中に溶け込んだ。まるで守られているようで、カレンナはほっと息をついた。
何かあれば周りの少女たちはすぐ逃げ出すだろうが、それは何も悪いことではない。正直言って、カレンナも今すぐ逃げ出したい。
アレクシアの凛と響く声は玉がこすれるようにうつくしく、発音も正しく聞き取りやすい。
ザイオスの声はくぐもって弱々しく、掠れたダミ声で、発音には平民に特有の省略があった。人によっては何を話しているか聞き取れないかもしれない。
(がんばれ、がんばって、アレクシア様……)
喘ぐようにカレンナは祈った。
(負けないで、そいつに。そいつが私に触れてもいいことにしないで)
別に愛する人がいるわけではない。忘れられない恋をしたことがあったわけでもない。ただカレンナは、ザイオスに触られる日のことを思うと怖気が立つ。恐怖と嫌悪で立ちすくんでしまう。ただただ、彼が嫌だ。それだけだ。
そうして勝負は決まった。カレンナは躍り上がりたいくらい嬉しかった。
家に帰って、人心地ついて、ふと考えた――アレクシアは出自はともかく今は平民である。そしてザイオスの属するガイガリオン伯爵家には、王の寵愛がついている。舌戦で勝ちを収めても、後日王命により結論がひっくり返ることもありうる。
今にもガイガリオン伯爵の手の者がブレインフィールド伯爵家を取り囲むのではないか。アレクシアの馬車が帰り道に襲われるのではないか。考え始めるともんもんとして、眠れなかった。
起きていて正解だったのかもしれない。地響きにカレンナは飛び上がって、父母の部屋へ駆けた。兄弟たちもそうだった。みんなで手を取り合って、屋敷の外へ情報収集に出かけた従僕が持ってきた報告を聞いた。
リュイスの都、アリネス。まだ風が冷たく吹いて、陽の光の気配もない早朝。ドレフ帝国アミラコム分領公フィリクス・ルミオン率いる帝国正規軍がリュイスの国境を襲い、国土に侵入。またかつて湿地帯であったコトルを貫くコトル運河を通り、黒鴉の紋章を掲げる一軍がアリネスへ続く道を北上、各砦や城塞を襲撃した。
アレクシアの祖父母の家――レイヴンクール公爵家が決起したのだった。