初めての食卓
「キミをこの世界に呼んだのは、ボクだ」
渋谷の人混みと喧騒の中、純白の獣がこちらに語りかけてくる。
「あの子は悪い人ではないよ。キミを助けてくれるだろう」
交差点のど真ん中。行き交う人々が異形の生物に気づく様子はない。
「理由? 面白そうだから。それだけだよ」
スポットライトが当たっているみたいに、そこだけがはっきりと見える。マイクを通しているかのように、その声だけ聞き取れる。
「選択はキミ次第。まあ、うまくやりなよ〜」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おはようございます。ノア様。お目覚めでいらっしゃいますか?」
「んむ……」
ドアの向こうから陽斗、いや、ラインハルトに声をかけられた。とたんに心拍数が急上昇する。恋愛のソレではなく、慣れない状況への警戒心からだ。
「う……ん。起きてるよ。どうしたの?」
「いえ、うなされている様でしたので……。心配で。悪い夢でも見られましたか?」
夢……そうだ。昨日の夜、あの後の夢を見ていた。なぜか背景が草原でなく、渋谷の街並みに変わっていたけれど。
心配性なところは変わってないんだな……と考えて、やめる。彼は陽斗ではない。別人なのだ。脈打つ胸を落ち着かせるためにそっと撫でた。
「ううん。大丈夫。ありがとう」
「いえ、勤めですから。──朝食の用意ができておりますので、よろしければ」
足音が遠ざかっていく。
ゆうべ突然現れて、ナツメグはすぐにいなくなってしまった。意味深な言葉を残して。だからあんな夢を見てしまったのだろう。
あれからラインハルトが来て「夜風はまだ冷たい季節です。寝室の準備ができましたので、今日はこちらでお休みください」と、結局泊まることになってしまった(もちろん部屋は別で)。なかなか寝つけない……と思ったけれど、疲れからかすぐ睡魔に襲われた。
「うむむ」
どうしよう。どう接していいのかわからない。これからよろしくお願いしますとでも言えばいいのだろうか。
最低限の身支度をして居間の扉を開けた。途端、小麦の香りが鼻腔をくすぐった。思わず胃の上らへんを手で押さえてしまう。食欲をそそられる匂いだ。
木のテーブルにはクロスがかけられ、食器が並べられている。カトラリーはまさかのゴールド。メニューはバター付きのパン、黄金色のスープ、煮込んだ豆等々。カフェのモーニングでしか見たことないスタンドに乗ったゆで卵まである。これを全部ひとりで作ったのだろうか。
ラインハルトは椅子を引き、にこやかな笑みをこちらに向けていた。促されるまま椅子に腰掛ける。
「すごいねこれ、全部ラインハルトが作ったの?」
「はい。苦手なものがあれば仰ってください」
「ううん。えっと、いただきます」
「? それはなにかの呪文でしょうか」
冗談かと思ったが彼は真剣な表情だった。
「ご飯たべる時の挨拶だよ。食材とか、作ってくれた人への感謝を表す言葉」
「なるほど……。ですがノア様。糧となった命はともかく、わたくしへの感謝など必要ありません。従者として当たり前のことをしたまでですから」
「やだ。そんな人になりたくない。わたしが感謝したいからするの」
「それは……失礼しました」
やばい。接し方がわからなくて、なんか変なこと言っちゃった。
そこはかとなく気まずい。しかもラインハルトはホテルマンのように姿勢よく立っていて、席に着く様子はない。食べるのはわたしだけということだろうか? なんだかそれも落ち着かない。
ナツメグの姿が脳裏に浮かぶ。本当に神様ならこんな時、助け舟のひとつでも出してくれればいいのに。
沈黙を破ったのはラインハルトだった。
「お召し物の丈、合っていたようで何よりです」
「あ、そういえば」
わたしは立ち上がってくるりと一回転してみせた。ひらりとスカートが舞う。ネグリジェ? と呼ぶんだったか。ワンピースタイプの寝巻はわたしの体にぴったりだった。新雪を思わせる純白の生地はとても着心地がいい。異世界にこんな上質な生地があるとは思わなかった。建物などの様式から文明レベルは低そうに思えるが、何もかもがそうではないらしい。ジェラポケもびっくりの高級感。
こんなおしゃれなパジャマは着たことがないので、ちょっぴり気恥ずかしいけれど。
「ほんとにぴったり。よく合うやつ用意してあったね」
「もちろんでございます。どのような方が召喚されても良いように、あらゆるサイズ、デザイン、形状の洋服も仕立ててあります」
「うそでしょ!?」
にこやかな笑みが逆に怖い。
「なんにせよ、よくお似合いですよ。ノア様」
「……ふふっ、変なの。でもありがとう」
なんだか緊張がほぐれてきた。
そう思ったのも束の間、
「おや、お髪に埃が……」
と、ラインハルトの顔が急に近づいてきた。ふわりとした感触が頭を撫でる。石鹸のような香り。ワイシャツの襟元から覗く、真っ白い首筋や喉仏。
「うん。大丈夫、ありがとう。さ、冷めないうちに食べなきゃね!」
自分でもわかるくらい挙動不審だが、こうでもしないと何かが変になりそうだった。顔が熱い。
「では食べさせて差し上げますね。はい、あーん──」
「いや自分でやるからスプーン返して⁉︎」
なんやかんやありつつスープを口に含むと、その味の豊かさに驚かされた。前時代の料理は現代よりも薄くて味気ないと聞いたことがあるが、全然そんなことはない。異世界なので完全に同じかは不明だが、玉ねぎ(っぽいもの)や人参が具として入っているようだった。
「おいしい。すごいね、前は──」
料理なんてできなかったのに、という言葉を慌てて呑み込む。
「前、というのは?」
「な、なんでもない! おいしいよ。それより、あなたは食べないの?」
「ええ。三日ほどは飲まず食わずでも問題ありません」
「いやそういう問題じゃなくて」
テーブルの端に目をやると、まだ食器は余っているようだった。
「一緒に食べようよ。朝からこんなに入らないし」
「……そうですか」
「ごめん、嫌だったかな」
「いえ、嫌というわけでは。ただ……」
「ただ?」
ラインハルトは言い淀む様子で、どこか気恥ずかしそうだった。
「その、今まで他人と食卓を共にしたことがないのです」
「えっ」
「どのようにすれば良いか分からなくて」
「今までって、一回も?」
「はい」
彼の過去を知りたくなった。どんな境遇で生きてきたんだろう。従者となるために育てられてきたと言っていたが、それはわたしの想像より遥かに過酷なものだったのかもしれない。
「普通にしてればいいんだよ。いつもご飯食べてる時の感じで」
「しかし、それでは主人に対して無礼なのでは……」
冗談めかして、胸を張ってみせる。
「主人として、わたしと一緒にご飯たべることを命じますっ」
「な……。まったく、ノア様は意地悪なお方ですね」
弱っている様子のラインハルトは可愛らしくて、素を見せてくれているようで嬉しかった。眉尻を下げて困った表情だが、その笑顔が満更でもなさそうだったのは、きっと勘違いじゃないはずだ。
そうして二人で囲んだ食卓に、気まずい沈黙が訪れることはなかった。