水面の満月
【アイオライトの月が満ちし時 導きの聖女
異界より降臨せん
慈愛の御手を受けよ 信仰と畏敬を捧げよ
我ら守護者となり 舟は虹を目指しゆく
奇蹟と魔法によって 人々は救われん】
ラインハルトは語り終えると、わたしの前にカップを置いた。それすらも鮮明に聞こえる。この家の周囲には何もないのだろうか。車のエンジンや人の話し声。信号機の鳴き声や救急車のサイレンといった、現代で当たり前に聞く音がまるで存在しない。世界は夜の静寂に包まれていた。息を吸うのがはっきり分かるほどに。
彼はつややかな唇をふたたび開いた。
「私の家に伝わる聖女降臨の伝説です。『アイオライトの月』とは、暦における三月のことです。『満ちし時』すなわち満月の日に、人々を導く女性が現れる──。先祖代々、この教えを受け継いできました」
「うーん、よくわかんないけど。……つまり、あなたはその、伝説? に従って、わたしに仕えるってこと?」
ラインハルトはうやうやしく頭を下げた。カップのホットミルクから、ゆらゆらと湯気が立っている。
「はい。私は、貴方様の従順なる下僕にございます。どうぞご自由にお使いください」
「ご自由に、って言われても……」
「入り用のものがあれば用意いたしますし、退屈であれば犬のように走り回ります。万一の際には、御身を守る盾にもなりましょう」
なんだかこそばゆい言い回しだが、言わんとするところはなんとなく伝わった。
「……それ、わたしのために死ぬって言ってる?」
「そのために育てられてきました」
躊躇いのない声音だった。端正な顔立ちは少しも歪んでいない。眼差しはサファイアのように、碧い光を放っていた。覚悟が決まりすぎている。
不思議、というか不気味だった。
「意味わかんない」
何もかもに対して、そんな気持ちだった。
「左様でございますか」
冷静すぎる対応にも腹が立ってくる。
「さっきからずっと、訳わかんないよ。車に轢かれたのに、無傷だし。気づいたら変なとこにいるし! ここって日本? しかも聖女がどうとか知らんし! わたし達、一応、初対面なのにさ。そんな奴のために死ぬって、本気で言ってんの?」
「はい」
「じゃあ今わたしが死ねって言えば死ぬの?」
彼は少し沈黙した。と、おもむろにわたしの手を取って、自身の首筋にあてがった。頸動脈の柔らかさが伝わってくる。ぴく、ぴく、と規則的に脈打つ血管は、命の感触がした。いきなりのことに身動ぎできずにいると、
「この首には、首輪が掛かっております。手綱を握っているのは貴女です。引いて連れ歩くも良し、それが嫌であれば、手放して捨て置くのもよいでしょう。どうぞお構いなく、不要であれば処分してください」
反射的に手を払いのけてしまった。血が流れているはずの首筋がなぜか冷たく、その機械のような無機質さが恐ろしかった。
──なにより、見た目は“彼”なのに、振る舞いは知らない誰か。口に入った砂のように。不快な違和感を覚えてしまう。
「それは。……それは、ちゃんと生きてる人から出てこない言葉だよ」
顔を見ていたくなくて、声を聞きたくなくて、思わず部屋を飛び出した。入ってきたのとは反対のドアを開けると、外に繋がっていた。ラインハルトは追いかけてはこないようだった。
夜の草原だった。小さな川が流れている。草を踏むたびに音が鳴り、夜だけの特別な匂いがした。どこか懐かしい感覚に襲われて、ため息をついた。自然はどこでも変わらずそこにある──と考えたのも束の間、明らかに不自然な箇所を見つけてしまった。
「え、月……ほんとに色、違うじゃん」
空に浮かぶ月が、知らない色だった。青、正確にいえば紫がかった色をしている。すみれ色の光が世界を淡いパープルに染めていた。まるで……宝石のアイオライトのように。
まさか比喩ではなく、物理的に色が違うとは思わなんだ。
「本当に、違う世界なんだ……」
もふっ。
実感させられる。ここが東京とはかけ離れた別世界であるということを。まるでゲームかおとぎ話みたいだ。
それとも天国か。わたしは死んだのだろうか。
もふもふっ。
頭の中がぐちゃぐちゃで、整理がつかない。恋人そっくりな彼の存在が混乱に拍車をかけていた。緩やかに流れる小川。鏡のような水面に、満月が映っていた。ふたつの月は全く同じ形、おなじ色でわたしを見つめた。
「どうしたらいいんだろう」
「──お困りのようだねぇ」
「そうなの。大変なの」
「助けてほしいー?」
「そりゃあ……って、え?」
ここでわたしは気づいた。一人で外にいたはずなのに、誰と会話しているんだろうか。ラインハルトはまだ家の中だ。周りに人の気配はない。何より聞こえてきた声は、男性のそれではなかった。なんというか、どこかあどけない……。
もふっ。
肩にやわらかい感触がしてそちらに目をやると、視界の端でなにやら白いものがちらついている。耳らしきものがぴょこぴょこと動くたび、首筋がくすぐったい。
「日本とはまるっきり違うもんねぇ。大丈夫、彼は悪い人じゃない。君の力になってくれるよ」
謎の物体はそう言って、わたしの肩から浮いた。文字通り空中に浮かび上がったのだ。そしてふわふわと移動して、目の前で止まった。
それは、猫に似ているが他の動物の特徴も混ざった、不思議な見た目をしていた。手足は短く、体は丸い。こちらを見つめる瞳はきゅるんと輝いている。耳から尻尾の先まで真っ白な毛に覆われていて、簡潔に表すなら──。
「ふわふわまんまる白毛玉だー‼︎」
「えっ。えっ?」
もふもふもふ。
最高だ……。温もりが指の先を通じて全身に伝わってくる。まるで綿菓子のようなふわふわな手触り。昔から動物にせよぬいぐるみにせよ、丸くて柔らかいものがあれば、触らずにはいられないのだ。くそっ。こんなの反則じゃないか……。
「もふっ。もふもふっ」
「あのっ。ボクが喋ることとか、日本しってるのとか聞かないのっ? わぷっ」
「んーそんなことはどうでもいい!」
「ひー。やめてぇ……」
ひとしきり撫で終えると、わたしは満足した。そしてある疑問に至った。
「……あなたは誰?」
「ふつう、撫でるより先にそれ聞くと思うんだけど〜。まあいいや、ボクはナツメグ」
川にできた鏡が風で乱れた。静穏だった水面に波紋が広がっていく。少し寒い。その理由は気温のせいだけではない気がした。不安や恐怖ともまた違う、人の理を超越したものに直面する感情。思わず手を合わせて、祈りたくなるような。
もみくちゃにされた毛並みをぶるぶると直すと、一呼吸おいてナツメグと名乗る生き物はこう言った。
「ニンゲンの言葉で表すなら──神様と。そう呼ぶべきかな」
つぶらだったはずの瞳には、妖光が宿っていた。
その輝きは空に浮かぶ満月と同じ色をしていた。
「キミをこの世界に呼んだのは、ボクだ」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
暗い室内で、盃を交わす男たちがいた。ろうそくのか細い炎がグラスの赤い液体を照らしている。それをぐいと飲み干したのは、無精髭を生やした壮年の男だった。小綺麗な身なりをしているが粗野な印象を与えるのは、ナイフのような目つきのせいでもあった。それも右眼だけ。もう片方には眼帯がしてあり、それがかえって野心的なイメージを加速させていた。
男はタバコに火をつけた。煙を吐きながら、気だるそうに口を開いた。
「今年の新入生は使えるんだろうな、学園長先生」
「どうかのう。未来のことは誰にもわからん。しかし星の囁きによれば……いつもと違う奇妙な出来事が起こりそうじゃ」
髭の男より更に年老いた好々爺が返事をした。垂れ気味の目尻には皺が寄っており、全体的に柔和な雰囲気をたたえている。身に纏ったローブには複雑な幾何学模様が描かれていた。
「星の……って、ただの占いじゃねえか。魔術でもない迷信だろ? まったく年はとりたくないねえ」
「うっふぉっふぉ。言うようになったの。飛行術の修練でわんわん泣いておったのが懐かしいわい」
「うるせえ、ジジイ……」
タバコを咥えながら、男は机の羊皮紙を手に取った。そこには、自身が受け持つ生徒たちの名が記されている。言いようのない感慨が胸に満ち、自嘲的な笑みが紫煙を燻らせた。
「ふっ。俺がガキ共の担任とはな」
「血塗られた手には相応しくないと?」
「分かってるだろ」
「なればこそ、伝えらるる教えもあろう。……近頃は特にな」
男は眉をしかめた。
「なんの話だ」
「このところ妙な動きがいくつか、のう」
「なるほどな。だからといって、俺は子供を戦争の道具にするつもりはない」
男の視線は手元の羊皮紙に注がれている。
老爺は柔和な、それでいてはっきりと意志を感じる声でこう言った。
「そうではない。がしかし、邪悪が世界に溢れた場合、無策のままでは闇に呑まれてしまう。ある程度は自らを、大切な誰かを守る力が必要になるのじゃ。──ダリオス。おぬしが適任じゃよ」
「食えないじいさんに買われても嬉しくはないが……。やるだけはやってやるさ。仕事だからな」
「そう悲観するな。未来は分からん。──例えば、その入学者リストもな。おぬしのクラス、全部で何人になる?」
手元に目線を落とす。
「二十三人だ」
「今は、な」
人数が変わるということか? 減るのか、それとも増えるのか。髭の男は、狐につままれたような顔になった。
「ったく、本当は予言書でもあるんじゃないだろうな」
「なあに。千年の勘じゃよ」
「ボケ老人の妄言だといいんだがな」
髭の男は酒を一息に呷ると「じゃあな」と言い残して部屋を出ていった。
「うっふぉっふぉ。そうさなあ……」
学園長のローブは、深みある青色。描かれた幾何学模様は無数の魔法陣である。
夜空に浮かぶ星屑のように、きらきらと輝いていた。