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春の温度

 この桜が散る頃に、どんな気持ちでいるだろう


「もうすぐ四月だね、乃愛」

「……うん。あっという間だね」

 通学路にならぶ桜の木は、まだ咲いていなかった。色づいた蕾が春の兆しを感じさせる。萌ゆる季節と裏腹に、二人の間には寂しげな沈黙が横たわっていた。彼の艶やかな黒髪が、猫のように揺れている。痩身を包むネイビーのコート。お揃いで買ったお気に入りだ。

 わたしと陽斗はるとは、付き合ってもうすぐ一年になる。こうして二人で帰るのも、繋いだ手の感触も、馴染んだものになっていた。

 ダークブラウンの瞳が、こちらに向けられた。


「去年の春に乃愛と付き合って、もう一年か。寂しくなるな」

「そうだね……。でも、お互い進みたい道に行けてるんだから、大丈夫だよ! 合格おめでとう、陽斗!」

「ありがとう。乃愛も、おめでとう」


 この春、わたしたちは高校を卒業する。別々の大学に進むから、並んで街を歩く頻度は少なくなるだろう。日常における恋人の割合が減り、それぞれの生活を営んでいくことになる。しかも、陽斗は東京を離れてしまうのだ。


「大阪、来月だっけ」

「うん。手続きとか色々あるから、月初には出発する」

「そっか。……た、たこ焼き、食べたら感想教えて!」

「ふっ、はははっ! なにそれ」

「いやあ、本場のやつ、食べてみたいじゃん?」

「そっか。じゃあ、来月すぐに行くよ。……もう、来月か。四月になれば、行かなきゃいけないんだね」

「そうだね……」


 行かないでほしい。このままずっと、一緒の道を歩いて、同じ教室に通って、向かい合ってご飯を食べたい。バカみたいな話で笑っていたい。考えすぎる夜には、不安な気持ちを抱きしめてほしい。

 胸が苦しい。


「陽斗ならうまくいくよ! 張り切って、いってらっしゃい」

「ありがとう。乃愛がいてくれたら、頑張れる気がする。たまには帰ってくるしね」

「そうだね! また会えるもんね」


 たまにじゃなくて、いつもがいい。毎朝の気怠さと同じくらいに、当たり前の日常としてわたしを置いてほしい。海しぶく暑さや雪けむる寒さ。スミレやひまわりやカエデ。季節を過ごしていくうちに、あなたに忘れられるのが怖い。繋いだ手を引き剥がす、時間という悪魔がこちらを見ている。


「──乃愛? 痛いよ。どうしたの?」

「あ、ご、ごめん!」


 気づけば握った手に力が入ってしまっていた。パッと離すと、初春の冷気で彼の温度はすぐに消えた。


「まあ、いいけど。──じゃ、このへんで」

「うん。……またね」

「またね。最近事故も多いから、気をつけて帰って」


 知らぬ間に、いつもの分かれ道にまで来ていたようだ。ここからは、別々の方向に歩いていくことになる。一緒にいられるのもここまで。いつものことだった。

 

 お互いに背中を向けて、それぞれの方向に進み出す。


 しかし、今日にかぎって妙な胸騒ぎがした。これが最後のような、二度と会えないような予感が胸をぎゅっと締めつけた。


「はると!」


 振り返ると、陽斗はいなかった。

 もう道を曲がったのだろうか。そんな筈はない。

 自然と駆け足になっていた。一本道を走った。


──大丈夫。陽斗はいつも、あの角を曲がる。そこからもしばらく真っ直ぐだから、だから彼はいる。あそこを曲がったら、長身の男の子が、歩いているその背中が、見えるはずだ。


 迂闊だった。

 民家のブロック塀が道の見通しを悪くしていた。死角ができて、その先に気づかなかったのだ。焦っていて、子どもの時から教わっているようなことを失念していた。


「────!!」


 角を曲がると、なにか、こちらに迫ってくる物体があった。それがトラックと呼ばれる車両の一種だと気づくまでに、コンマ数秒を要した。巨大な質量の塊は、すごいスピードで近づいてくる。

 断末魔にも似た急ブレーキ音が鳴る。しかし間に合いそうもなく、彼我の距離は消滅していく。


  すぐに逃げればあるいは、助かったかもしれない。けれど、身体は動こうとしなかった。真の危機的状況にさらされた時、人は正しい思考ができない。目の前の光景を呆然と見つめている自分がいた。


 あ。これ、死──。


 トラックの運転手と目が合った。彼の表情と裏腹に、驚くほど冷静な自分がいた。

 世界がスローモーションのようにゆっくりと変化していく。


 思い浮かべたのは、陽斗のことだった。

 

 あれが最期の会話になるなんて、思ってもみなかった。もう一度会いたい──それだけの気持ちが、こんな形で裏目に出てしまった。


 ごめん、陽斗。ごめんね。


 視界が真っ暗になった。轟音に包まれる。ガソリンとゴムの匂いがした。


 かすかな振動を感じた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


──かび臭さを感じる。埃っぽい空気は静寂に舞っていた。


「……?」


 ゆっくりと瞼を持ち上げた。すると視界に入ったのは、先ほどまでと打って変わった状況だった。

 住宅街を歩いていたはずが、今は室内に変わっている。洋風の建築は古めかしく、当時は白かったであろう石壁には年季の色が刻まれている。木のテーブルと、そこに置かれた花瓶。一輪の花が生けられているが、その形状には見覚えがない。──なんせ、花びらの先には火がついていて、メラメラと燃え続けているのだ。光は部屋をオレンジ色に照らしている。どこのオシャレ雑貨かと思ったけれど、どうやら本物のようだ。


「なに、ここ……」


 椅子から立ちあがる。近くに扉があったので、とりあえず開けてみることにする。ノブが……かたい。錆び取りのスプレーが欲しくなる。ドアそのものも古く、ギィ、と辛そうな音を立てた。少しずつ開いていく扉が、空間の全容をあらわにした。


 内装そのものは大して変わらないが、大きな違いがひとつあった。

 部屋の中に、人間がいた。


 服を着ていない。がっしりとした上半身。──男だ。ちょうど影になっていて、顔はよく見えない。あらわな肉体は月光に照らされて、筋繊維の形までもが浮かび上がっている。


 好みすぎるマッチョだ。


──と、初対面の相手をまじまじと見てしまったことに気づいた。しかも相手は上裸だ。着替え中なのか裸族か知らないが、色々とまずい。


「あ、あの、ごめんなさい……」


 今思えば、笑ってしまうような状況。それが、【ラインハルト】との出会いだった。彼が陽斗に似ていること。その理由。


 そして、これからわたし達に起こることを、まだ誰も知らなかった。

 




 

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