幸奈とブラ
お兄さんの厳しく、時に優しい指導のおかげで、順調に人間になるための勉強は進んでいた。けれど万能なお兄さんにも教えられないものがあった。
「幸奈、人間はね。着替えといって着ている服を、状況に応じて着替えるものなんだ」
「脱皮じゃないんですか?」
「脱皮じゃなくて……というか、人間には脱ぐ皮なんてないから」
「なるほど、人間は脱皮しない……」
「着替えの練習もしないとね。毎回僕が着替えさせてあげるわけにもいかないし」
「?? なぜお兄さんが着替えさせたらダメなんですか? 私、平気です」
「幸奈が良くても僕がダメなんだよ。幸奈が小さな女の子だったらまだ良かったけど、今のきみの体は発育が良いというか、立派な大人の女性の体だし。女性は普通、男の前で着替えたりしないものなんだよ? これまで着替えさせるのも大変だったんだからね」
その言葉の通り、お兄さんは私を着替えを手伝ってくれるけど、なぜか顔が赤くなったり、私を見てくれなかったりして、着替えの練習だけはうまくいかなかった。
「幸奈、下着はこれ。服はこっちね。妹が使ってたものだけど」
「お兄さん、この『ぶらじゃー』ってどうやって着るんですか? わかりません、お見本みせてください」
「コラッ! 裸のまんま僕の目の前に来るんじゃない! 目の前で脱ぐなっ!」
「お兄さん、このぶらじゃーって……」
「幸奈……男の僕にブラジャーの付け方なんてわからないし、ましてやお手本なんて見せられるわけないだろ?」
着替えの途中でお兄さんが真っ赤になって逃げていくこともあった。お兄さんの目の前で着替えるのってそんなにダメなのかな? 万能なお兄さんにも、わからないことがあるようだ。
しばらくして、お兄さんはスマホで「ブラジャーの付け方」という動画を見せてくれた。ブラジャーという、この世界の女性の下着の装着方法を、動画の中の女性が実演することで説明しているものだ。
「えっと、こうして腕を通して、胸がおさまるように手で調整……と。うーん、難しい……」
私には初めてのことだらけで、しかもひとりで練習しなくてはいけないので、なかなか上達しなかった。けれど、動画の映像を参考に何度も練習するうちに、どうにかブラジャーも付けられるようになった。
この動画というものには幼児向けの「おきがえのしかた」という動画もいろいろあったので、これらのおかげでどうにか一通りの着替えはできるようになった。「くつしたのはきかた」「服のたたみ方」「靴の履き方」「靴ひもの結び方」といった動画もある。実に様々な着替え関連の動画のおかげで、私ひとりでも着替えができるようになっていた。
動画バンザイ。動画ってすごい。これも人間が作ってるんだ。すごいなぁ。
けれどそんな動画にも、解決できないことがあった。
「お兄さん、胸がたゆんたゆんします」
「ちょ、ちょっと待って、幸奈。今なんて言った?」
「胸が、たゆんたゆん、ってするんです」
「たゆんたゆん……? ブ、ブラジャー付けてるんじゃないの?」
「そのブラジャーがきつくて……だから今つけてないんです」
「ブラジャーがきつい……サイズが合ってないとか?」
「たぶんそうだと思います。今あるブラジャーを付けるとキツくて痛いんです。だから今はなにも付けてなくて、動き回ると胸がたゆんたゆんと……」
「わかった……最後まで言わなくていいから」
そう言ったきり、お兄さんは頭を抱えて黙り込んでしまった。
「そろそろ僕ひとりでは限界だ。どうしても女性の手助けがいる。でも誰に頼んだらいいんだ、今の幸奈を受け入れてくれて親切に教えてくれる女性は。ああ、どうしたらどうしたら」
「お兄さん? 早口すぎてよくわからないです」
お兄さんは頭を抱えたまま、ひとりでブツブツと話している。どうしよう、お兄さんを悩ませてしまった。余計なこと言ったのかな?
しばらくするとお兄さんはすくっと立ち上がり、スマホを取りだした。スマホの画面で前でまた悩みだし、深いため息をつく。お兄さん、苦しんでるの?
やがて何かを決意したようにスマホの画面を操り始めた。
「愛子? 久しぶりだね。メールにも書いたけど、ちょっと相談にのってほしいことがあって。え? 店に来い? いや、でもおまえの店って……わかった、行くよ」
電話の相手は女性のようだ。お兄さんのお友だちかな。
「幸奈、今から二人でちょっと出かけたいんだけといいかな? 僕の昔の友人の店なんだけど」
「はい、私は大丈夫です」
「車で行くことになるから。初めて乗ると思うけど、怖くない? 大丈夫?」
「車! お兄さんが教えてくれた乗り物ですね。お兄さんと一緒なら大丈夫です。頑張りますっ!」
お兄さんはくすりと笑って、私の頭を撫でた。
「頑張らなくていいから。幸奈はただ乗ってるだけでいいんだよ」
初めて見る車は、まずその体に驚いた。それほど大きくないのに、胴体は驚くほど硬い。中は空洞になっていて、そこに人間が乗り込み、運転することで移動する。運転者はお兄さんで、私はお兄さんの横に座り、シートベルトを装着する。
「じゃあ、走り出すからね」
お兄さんの動作と共に、軽い振動と音が車全体に響いた。
「ひゃう!」
最初はゆっくりと動きだし、やがて少しずつスピードをあげていく。
その振動とスピードはかつて異世界で、ドラゴンとして地を駆け抜けていた時のことを思い出すものだった。
「お兄さん、景色が、景色がびゅんびゅん動きます!」
「わかった、わかったから身を乗り出さないの! シートベルト外したらダメ!」
「でもお兄さん、車って小さなドラゴンみたいです! 翼があったらいいのに」
「幸奈が車を気に入ったのはわかったから! お願いだから落ち着いて……」
「お兄さん、もっとスピード出して下さい!」
「スピードの出し過ぎは違反行為! 幸奈、おとなしく座ってなさい!」
「はーい……」
目的地に到着した頃には、私はまだ車に乗っていたくて目を輝かせているのに対し、お兄さんはぐったり疲れ果てていた。なんでかな? 車ってとっても楽しい乗り物なのに。
「幸奈、ここが僕の友人の店だ。友達はここの店長をしてる」
「店長さん! すごいですね。ここは何の店ですか?」
お兄さんは一瞬固まってしまったけれど、やがて観念したようにため息をつき、小さな声で答えてくれた。
「女性の……下着専門店だよ……」
可愛らしい外観の店は、女性の下着を専門に売る店だった。そんな専門店があることに驚きだ。人間の女性にとって、下着というのはそれだけ大切なものなのかもしれない。
扉を開けて中に入っていくと、様々な形の女性の下着が並べられていた。お兄さんは目のやり場に困るといった表情で、顔を赤くしている。男性にとっては恥ずかしいものなんだろうか? 私には色とりどりの下着が、まるでお花畑にように思えた。
「すごい、キレイ……。こんなにいろんな色があるなんて。あの、さわってみていいですか?」
お兄さんに聞いたつもりだった。しかし答えてくれたのは別の人だった。
「ランジェリー専門店シャルムにようこそ。どうぞお手にとって」
艷やかな髪を頭の上でひとつにまとめ、眼鏡をかけた美しい女性。体のラインに沿った青い服がよく似合っていた。
「いらっしゃい。そしてお久しぶりね、幸奈ちゃん。私は愛子。覚えてるわよね? 小さい頃、一緒に遊んだものね」
眼鏡の奥の瞳がきらりと光り、不敵な微笑みを浮かべていた。