お兄さんと特訓、そしてお遊び
「さて、ココアも飲んだことだし。今後のことを相談しようか」
お兄さんは飲み終えたカップを台に置くと、両手の指を軽く絡め、私を見つめた。
「今後のこと?」
ここあがあまりにもおいしかったので、名残惜しそうにカップをのぞき込んでいた私だったが、お兄さんの言葉に応じてカップを台に置いた。
「きみはこれから僕の妹『園村幸奈』になるんだ。いずれ学校にも通わなくてはいけない。けれど、人間や日本のことを全く理解してない今の状態で、きみを外に出すわけにはいかない。となると……」
「となると?」
お兄さんの言葉の最後を繰り返しながら、首をかたむけ、次の言葉を待つ。
「明日から特訓だっ!」
お兄さんの目がきらりと光り、にやりと笑った。
「と、とっくん……?? それって何ですか?」
「お勉強かな。人間になるための勉強と練習だ」
「おべんきょう……それって大変ですか?」
「そうだなぁ、ちょっと大変かもしれない。でも人間は誰しもやってることだから」
「そ、そうなんですか……」
人間は、おべんきょうするんだ。だから、いろんな道具を使いこなしているのかな。
「お兄さん、人間になるためのおべんきょう、私がんばります! 教えてください!」
「よく言った! 明日から特訓だからね」
「はいっ!」
お兄さんの目の中に、小さな火が燃えているような気がした。人間は体の中でも火を灯すのかな? すごいなぁ、かっこいいなぁ。
なんて、のんきに感じていた私だったけれど、翌日から始まった『特訓』は想像以上に大変だった。
なぜって、お兄さんが本気すぎて怖いからっ!
「幸奈、いいかい? 箸の持ち方はこう。こら、箸の先をしゃぶるんじゃない!」
「鉛筆は正しくもつんだよ。そうでないと字がきちんと書けない。こら、頭に乗せたらダメだよ」
「文字はひらがなから覚えようね。書き順も守って正しく書こう」
「身の回りにある道具や家電のことも覚えていかないとね。こらこら、掃除機にケンカ売るんじゃないの」
お兄さんはわかりやすい指導で、とても熱心に教えてくれた。全ては私が人間として生きていくためで、その熱意は本当にありがたい。でも……
「お兄さん、こわいですぅ。怒らないでください」
「怒ってないよ。うまく伝わらなくて苛ついてるだけ。……って、こら、幸奈。よつんばいにならないのっ! きみは人間なんだよ? 人間がよつんばいなのは赤ん坊の間だけ!」
やさしかったお兄さんがこわいっ! こわいよ!!
ちょっと怖くなってしまったお兄さんだけど、それもこれも私のためなんだ。がんばらないと。お兄さんの熱心な指導のおかげで、人間についていろいろ学ぶことができた。
幸い人間になるための勉強は苦ではなかった。全てのことが驚きに満ちていて、感心することばかりなのだ。
人間は二本足で立って歩き、いろんな道具を使いこなす。その点は異世界の住人も、こちらの世界もさほど変わらない。異世界の人間は魔法と呼ばれる技法を用いることもあったけど(使ってるところを見たことしかないから詳しくは知らないけど)、こちらの世界の住人は魔法は使えないそうだ。代わりに実に様々な道具を使いこなす。
「お兄さん、この箱、しゃべってますっ! この中に人間が閉じ込められているんですか? 封印ですかね。どんな悪いコトして封印されちゃったんでしょう!?」
「幸奈……それはね、テレビといって、箱そのものが話してるわけじゃないから。ましてや、人間が封印されてるわけでもないから」
「お兄さん、この小さな小さな箱は、どうして話したり、人が映ったりしてるんですか? 小人や妖精がこの中に閉じ込められてるんですか? そして人間が『働け!』って命令してるんですか?」
「ちがうから。小人や妖精はこの世界にはいないから。それはスマホ。正しくはスマートフォン。まずは人間や妖精が電化製品の中に閉じ込められてるって発想から離れようか、幸奈?」
お兄さんは笑ってるけど、ちょっとだけ目が怖かった。
この世界の住人が使う道具のひとつひとつが驚きに満ちている。見て感じ、覚えるだけで楽しかった。
家電と呼ばれる家庭で使う電子機器や機械、車や電車といった乗り物などは、『魔法』といってもいいものなんじゃないだろうか。それらを発明して作り、使いこなしているこの世界の住人ってすごい。
人間について学ぶことは楽しい。けれど、どうしても苦手なことがあった。
「お兄さん、ごはん食べるのは手で食べればよくないですか? そのほうがおいしいと思います」
いくら箸の使い方を練習しても上達しない私は、お兄さんに文句を言ってしまった。
「まちがってはいないよ。この世界には手で食事をする国の人もいるから」
「じゃあ、箸の練習しなくていいですね!?」
「そういうわけにはいかない。日本人はね、箸で食事をするのが日常で、あたりまえのことなんだ。料理によってはフォークやスプーンなど他の道具を使ったりするけども、箸は日本人にとって基本なんだよ。だから幼少の頃から箸を使う練習をする。幸奈は箸の文化がない異世界にいたわけだし、苦手なのは仕方ないよ。ましてドラゴンだったわけだから。焦っても急にうまくできるようになるものではないから、ゆっくりいこう。僕も付き合うから」
「はい……」
「箸を使う」と「文字を書く」。日本人にはあたりまえの動作が、私には難しい。手を器用に動かすことが苦手なのだ。
人間の手には五本の指があって、右手と左手それぞれで使い分けたり、同時に使ったりして道具を使いこなす。言葉にすれば簡単だけど、実際にしてみるとうまくいかない。人間はどうしてあんなに指が器用に動くのだろう? まして箸なんて道具は、ドラゴンであった異世界でも見たことがない。お兄さんは箸でごはんを食べるだけではなく、料理まで箸で作るのだ。(菜箸というらしい)
でも日本人『園村幸奈』として生きていくなら、箸は使えるようにならないといけない。私はお兄さんの妹になるんだ。がんばろう。
「お兄さん、箸の練習がんばります。もっと教えてください」
「わかった。一緒に頑張ろうね」
「はいっ!」
お兄さんが提案してくれた箸の練習方法は、『豆つまみとりゲーム』と呼ばれるものだった。
「これまで幸奈にはスパルタ方式で人間に対する勉強をさせてしまったけど、それだけじゃダメだって、最近気付いたんだよ。人間には苦手なものがあるように、幸奈は指を動かすことが苦手だろう? それは無理やりやらせても上手くいかないと思うんだ。幸奈の場合、箸の基本的な動作は理解できてると思う。ただ苦手と思うあまり動きがぎこちなくなってる気がするんだよ。箸はあくまで食事をする道具であって、食事は楽しくあってほしいと僕は思ってる。だとしたら、まずはゲーム感覚で楽しんで動作を覚えていったほうがいいと思うんだ」
「ゲームって?」
「ルールを用いた遊びだよ」
「あそぶ? 人間になるための勉強ですよね、あそんでいいんですか?」
「遊びも学びのひとつなんだよ、幸奈」
「なるほど……。人間は、あそんでいても勉強してるんですね」
お兄さんは笑いながら、『豆つかみとりゲーム』のルールを教えてくれた。使うものは、幼児用のおもちゃと呼ばれる玩具だった。
「最近は知育玩具に面白いものがいろいろあってね。ネットでいろいろ探してみたら、幸奈にも楽しんで箸の使い方を覚えてもらえそうなものがあったから取り寄せた」
箱の中から出てきたのは、プラスチックで作られた箸と沢山の豆だった。そして小さなお皿。よく見ると、小さな豆にはそれぞれ顔の絵が描いてある。
「お兄さん、豆に顔の絵が描いてあります。よく見るとどれも絵がちがいますね」
「いろんな表情が描かれているんだ。笑った顔が緑の豆、怒った顔が赤い豆、泣いた顔が青い豆ってことになってるね」
プラスチックの豆をいくつか手のひらに乗せると、お兄さんの言う通り、色によって豆の表情がちがっていた。中には金色の豆や銀色の豆もあって、金色の豆にはヒゲと王冠が描かれていて『王様の豆』、銀色の豆は王冠と赤い唇が描かれていて『女王の豆』ということらしい。
「お兄さん、これ、かわいいです。こんなに小さいのに絵が描いてある」
「だろう? 昔からの方法だと本物の大豆を使ったりしたんだけど、それだと面白みがないと思ってね。遊びながら箸の練習ができるといいと思って。さぁ、やってごらん」
「はい!」
プラスチックの箸を使って、顔の絵がついた豆をつかみ取り、お皿に乗せる。始めはそこから。次は時間制限をつけたり、同じ色の豆だけ選び取ったり、王様の豆をいち早く見つけて取り出したりする。使い方は様々で、大人が混じって遊ぶこともできるらしい。お兄さんも参戦して、二人で豆つかみとりゲームで遊んだ。
「幸奈、早くしないと10分経っちゃうよ」
「お兄さんこそ、王様の豆を早く見つけないと時間切れですよっ!」
「うーん、探してみると意外と見つからないもんだね。難しい……」
「見つけました! 王様の豆!」
「ああ、負けた……」
「やった、お兄さんに勝ちました!」
お兄さんと遊ぶことに夢中になり、いつしか「箸を使う」ことが楽しくなってしまった私だった。勿論、遊びであることは理解していたけれど、おかげで箸を使って食事することも、もう怖くない。お兄さんとのごはんも美味しい。
こうして私はお兄さんのおかげで、少しずつ人間として、園村幸奈として生きる術を学んでいったのだった。
「豆つまみとりゲーム」に関しては、実際に販売されている知育玩具を参考にしました。