ここあの魔法
お兄さんの胸で泣き続けながら、異世界でドラゴンとして生きてきた半生を思い出していた。
今でもはっきり覚えている。仲間と親に見捨てれたあの光景を。
飛び去って行く家族や仲間を追い、必死に地面を走った。母ドラゴンは何度か振り返ったが、やがてそれもなくなり、兄妹のドラゴンを守るように飛んでいってしまった。
私はドラゴンの子として生まれ、本来なら家族や仲間と共に生きていくはずだった。しかし私は翼のあるドラゴンであったにもかかわらず、どれだけ頑張っても飛ぶことができなかった。生まれつき翼の形が悪いため、飛ぶことができなかったのだ。飛べないドラゴンに、飛竜ドラゴンとして生きる資格はない。どうあっても飛ぶことができないと判断した仲間と家族は、私を捨てた。たった一匹の飛べないドラゴンのために、仲間を犠牲にすることはできないからだ。
取り残された飛べないドラゴンは、たった一匹で地を這うように生き続けた。ドラゴンであったために、他の動物や人間からは恐れられてしまう。少しでも近づけば、化け物のように攻撃される日々。いつしか私は、森の中に身を潜めるようになった。物言わぬ木々だけが私の味方だった。木の実を食べて飢えをしのぎ、朝露で喉を潤す。可憐に咲く花々は心のなぐさめ。
そんな生活を100年続けたとき、私は森の中でひとりの少女に出会った。仲間を従えた少女は、てっきり私を退治するためにやってきたと思った。しかし少女は私が飛べない、できそこないのドラゴンであることを知ると、何もしなかった。少女は静かに私の翼と頭を撫でると、仲間を連れて去って行った。
少女の名は『幸奈』といった。世界を救うために召喚された少女だという。その時から幸奈は私の憧れだった。
日本に人間として転生した現在、私は幸奈のお兄さんの胸で泣いている。お兄さんの胸は、なんて温かいのだろう……。全てを吐き出すように泣き続け、やがて少しずつ落ち着いていった。
「もう大丈夫みたいだね、顔をあげられるかい? 幸奈」
お兄さんの言葉に顔をあげると、優しい笑顔がそこにあった。胸がとくんと鳴った。お兄さんに抱かれるように胸に顔をうずめていたことが、急に恥ずかしくなった。
「ご、ごめんなさい、お兄さん」
「謝らなくていいんだよ。泣きたいときは泣いていいんだ。涙は感情の解放だから」
「お兄さん、その話むずかしいです。私よくわからない」
お兄さんは軽く笑い、私の頭を撫でた。
「泣いてすっきりした? ってことだよ」
たしかに泣く前より気持ちが落ち着いたかも。涙ってすごい。
「さて、落ち着いたようだし、ココアでも飲んで今後のことを相談しようか?」
「ここあ? それって何ですか?」
「えーっとね、カカオの木のカカオ豆から作った飲料かな? 改めて説明しようとすると意外と難しいね。ようは甘みがあって栄養がある飲み物だよ」
「木の実から作った人間の飲み物ってことですか? それ、飲んでみたいです。ドラゴンだったときは木の実ばかり食べてたから」
「じゃあ、きっと好きだね。待ってて、すぐ作るから」
「作るところ見てていいですか?」
「いいけど、特に面白くないよ?」
お兄さんは小鍋を用意すると、こげ茶色の粉をスプーンですくって入れた。「ここあぱうだー」というらしい。鍋の下にある台をいじると、ぼうっと小さな火が現れた。
「火、火、お兄さん、燃えちゃいますっ!」
「火? ああ、大丈夫だよ。これはガスといって扱い方さえ気を付ければ安全に使える火だから」
「人間は、火を操るのですか?」
「火を操ってはいないけど、道具として使ってるのは確かかな。火か、火に代わる電力がないと、ごはんは作れないしね」
「人間ってすごい。火を制して、道具にしちゃったんですね」
「でもね、油断は禁物なんだ。うっかりしてると、火事になるから」
「火事?」
「火があちこちに燃え移って、やがて家や建物を燃やしてしまうことだよ。冬場に多い。そう思うと人間は火を制したようで、完全に制してはいないのかもしれないなぁ……」
お兄さんの話は、私にはまだ難しかった。でも人間として生きていくなら、これから少しずつ覚えていかないといけないことなんだろう。
お兄さんは小鍋のここあぱうだーを軽く炒ると、少しずつ水を入れ、ゆっくり溶き伸ばしていった。お兄さんが砂糖と呼ぶ白い粉を入れ、さらに混ぜる。牛乳という白い液体を少しずつ注ぎ入れ、丁寧に混ぜていく。ほわほわと湯気が出始め、なんともいえない甘い香りが立ちのぼる。
「あとは茶こしで濾して、牛乳の膜や残った粉を取り除いたらできあがり」
かわいらしいカップ二つにできあがった『ここあ』を注ぎ入れ、ひとつを私に渡してくれた。
「これが『ここあ』ですか?」
「そうだよ。最初から全部混ざったものも売ってるけど、たまにこうしてゆっくり作りたくなる。なんでかな」
「なんででしょうね?」
お兄さんの横で首をかしげ、考え込む私にお兄さんは笑った。
「さぁ、飲もう。自分でふぅふぅって冷まして飲んでごらん?」
「ふぅ~ふぅ~」
「ちがう、ちがう。言葉にするんじゃなくて、息を吹きかけて冷ますんだよ」
お兄さんがココアに息をふきかけて「ふぅふぅ」するお手本を見せてくれた。同じように息をふきかけ、ゆっくり冷ましていく。
「もういいと思うよ。ゆっくり飲んでごらん?」
「はい」
カップのここあをゆっくりと口へ流していく。まだ熱いその飲み物を、慎重に口にふくむ。
ごくり。その瞬間、うどんとはまた違う、甘い香りが広がった。体がとろけるような甘さだった。わずかに残った苦みも、甘さを引き立てている。なに、この甘さ? これが人間の飲み物なの?
「おいしい。お兄さん、ここあ、おいしいです!」
「そうか、良かった。僕もココアは好きなんだよ」
「ゆっくり飲みなさい。ヤケドするといけないから」
「はいっ!」
気付けば泣き続けたことなど忘れ、ここあの甘さに夢中になっていた。
人間の飲み物ってすごい。たったひとつで、こんなに元気になれるなんて。
ここあをお代わりして、ふぅふぅしながら飲む私を、お兄さんは目を細めて見守っていた。