お兄さんといっしょ
「幸奈、すぐ食事にするから着替えなさい」
ひとしきり笑ったお兄さんが、さらりと私に言った。
「おまえときたら、制服のまま家の前で倒れていたんだから。とりあえずそのまま寝かせたけど、それ以上制服が傷まないようにしないとね。着替えたら一階に下りておいで。一緒にごはんを食べよう」
ごはん、という言葉にお腹がまたきゅるるる~と鳴り始める。お兄さんと一緒にごはんを食べれるらしい。それはわかる。
「『着替え』ってなんですか……?」
お兄さんが首を少し傾け、不思議そうな顔をした。
「着替えがわからないの? 記憶喪失って日常のことまでわからなくなってしまうものなのかな……」
あれ、私、何かまちがえた……? お兄さんが優しいからつい聞いてしまったけれど、どうやら「着替え」は人間があたりまえのように知ってなければいけないことらしい。
「着替えは服を替えることだよ。幸奈は今、制服を着ているだろう? 制服から普段着に替えなさい」
私は制服というものを着ているらしい。改めて自分の体を見下ろしてみた。紺色の服に、胸元の赤いひらひら。救世主さんが異世界でもたまに着ていた服で、胸元のひらひらがかわいいなと思っていた。これを他の服に替えればいいらしい。うん、それならなんとなくわかる。
顔をあげ、お兄さんに向けてにこっと笑った。
「わかりました、脱皮ですねっ!」
自信満々にお兄さんに告げる。
「だ、脱皮!? ちょ、ちょっと待って、幸奈。意味合いは似てるけど、ちょっと違う。いや、だいぶ違う!」
お兄さんは困ったように、自分の頭を抱えた。
あれ、また何かまちがえたの……?
「幸奈もだいぶ混乱しているみたいだね。うん、きっとそうだ。着替えがよくわからなかったら、そのままでもいいよ」
着替えはしなくてもいいようだ。脱皮という言葉がまちがっていたんだろうか? 今度こそ正解だと思ったんだけどなぁ。
「風邪ひくといけないから、とりあえずこれだけでも着なさい」
お兄さんは私が寝ていた場所の近くから、赤い服をもってきた。
「おまえが愛用していたフリースのジャケットだよ。覚えてない?」
私にジャケットをかけてくれながら、お兄さんは優しく聞いてきた。
「ごめんなさい、私わからない、いえ、覚えてないです……」
お兄さんは目を大きく見開き、やがて少し悲しそうに微笑んだ。
「そうか、覚えてないか。おまえにプレゼントしたものだったんだけど……。仕方ないね」
その顔を見て、私も悲しくなってしまった。ごめんなさい……。
お兄さんにとって私は、大切な妹なんだ。まさか全くの他人、ううん、人間でさえなかったドラゴンが、妹の姿になって現れるだなんて想像もできないだろう。お兄さんに早く話さないと。でも信じてもらえるだろうか?
「さ、幸奈。一緒にごはんを食べよう」
「は、はい」
どうやって話したらいいのかわからず、お兄さんに促されるまま一緒に一階に行くことになった。お兄さんに手を握ってもらいながら歩くと、その先に小さな崖のようなものがあった。ゆるやかな段差があり、それを使って下に下りていくらしい。ゆるやかとはいえ、上から見ると少し怖かった。ドラゴンであった時なら、この程度の崖は平気だったのに。足がぴたりと止まってしまった。
「階段が怖いの? そういえば幸奈は小さい頃も階段が苦手だったね。転げ落ちていきそうだって泣いてた。僕がおんぶして下ろしてやったこともあったけど、さすがに今は無理だ。体を支えてあげるから、一緒に行こう。大丈夫だよ」
お兄さんは私を抱くように体を支えると、一緒にゆっくりと階段を下りてくれた。すぐそばにお兄さんの顔がある。救世主さんによく似た、きれいな顔立ち。とくんとくんと心臓の音が聞こえる。なんだかとても心地が良い。このままお兄さんにくっついていたい気がする……。
「こらこら、体をぴったり寄せてくるんじゃない。まったくおまえは体は大人なのに、中身は子供みたいだね」
「だってお兄さんの体、あったかくて気持ちいいもの」
お兄さんは優しくて、温かい。ずっと昔、はるか昔、この温もりを知っていた気がする……。
温かいお兄さんの体に、さらにぴったりと体を寄せていく。その温もりがもっと欲しかった。
「幸奈、ちょ、胸があたってる。さすがにこれは……マズイ!」
何がマズイの……? と聞こうと思った瞬間、お兄さんは抱えるように私をもちあげると、ものすごい勢いで階段を下りる。びっくりしてお兄さんを見ると、お兄さんの顔が赤くなっていた。一階に着くと、すとんを私を降ろした。
「幸奈……いくら実の妹とはいえ、おまえは女の子なんだよ? しかもおまえはその、発育もいいほうだし、その姿のままあんまりくっつかれたら、僕だって変な気持ちになるっていうか」
「変な気持ちって?」
お兄さんの顔がますます赤くなる。本当にわからないから聞いただけだったんだけど、聞いてはいけないことだったんだろうか?
「と、とにかく! 僕に甘えるのはいいけど、必要以上にくっついてこないこと。いいね、わかった?」
「は、はい」
お兄さんの迫力に押されるように、こくこくとうなづくことしかできなかった。
なんでくっついたらダメなんだろう? すごく気持ちよかったのに。動物は体を寄せ合って、体を温めているのに、人間はしないんだろうか?
「人間って、変なの」
顔を赤くしたまま走り去るお兄さんの後ろ姿を見つめながら、首を傾け、ぽそりと呟いた。