ありがとう
ゆっくりと、階段を降りていく。心なしか、いつもより緊張しているように思えた。自分で選んだ水色のブラウスに、ベージュのスカート。愛子さんに髪を整えてもらい、アイブロウとリップグロスで、ほんのりお化粧もしてもらった。装いを変えただけなのに、背筋がぴんと伸びる気がする。
階段の下には、お兄さんが待っていた。降りてきた私を一目見て、驚いたように目をみはった。信じられないといった様子で、じっと私を見てくる。これまで一度も感じたことがないお兄さんの視線に、体が熱くなる。
「優斗、どう? 幸奈ちゃん、とてもキレイでしょ?」
私の後ろを歩いていた愛子さんが、私の両肩に手をおきながら、得意げな顔をする。
「見違えたよ。幸奈、とてもキレイになったね」
宝物を発見したような嬉しそうな顔で言われ、顔がかっと熱くなった。なんだか少し照れくさい。でも悪い気はしなかった。
「おめかしもしたし、そろそろ出発しましょうか?」
「はい!」
その日の午後、3人でおでかけした。目的地は特になく、町や人を眺めながら、ゆっくり歩いていく。時折立ち止まっては、歩く際に気を付けることや信号機の説明をしてくれた。車や電車への接し方、簡単な買い物の仕方など、覚えなくてはならないことが沢山あったけれど、どれも新鮮で楽しい。
まっすぐ前を見ながら颯爽と歩く人もいれば、うつむいて元気なさそうに歩く人、横にいる人とおしゃべりしながらゆっくりと歩く人、スマホを見ながら歩いてる人など、町には実に様々な人がいた。
花が咲き乱れる公園を歩き、お兄さんや愛子さんと語らいながら花を眺める。
歩き回って様々なものを見る、ただそれだけの行為が、私にはどれも楽しく、また勉強だった。人間が創り出したいろんな形の建物、乗り物、そして人々が着ているいろんなデザインの服。どれも見ているだけで飽きない。人間って本当にすごい。一体どれだけのものを創り出したのだろう?
外での食事はちょっとだけ大変だった。ようやくスムーズに動かせるようになった箸、スプーンやフォーク、そしてナイフ。それぞれにマナーがあり、食事をしながら覚えるのは、私にはなかなか難しいことだった。
「何事も経験よ。慣れてないからって何もしなかったら、いつまで経っても進歩しないわ」
「失敗しても大丈夫だよ、幸奈。そんなことで僕たちはおまえを責めないし、少しずつ覚えていけばいいことだから」
ふたりのおかげで、慣れない外食も楽しく過ごすことができたのだった。
その後も少しずつ出かける頻度を増やしていき、お兄さんや愛子さんと一緒に行っていたさんぽも、だんだんひとりで行けるようになっていった。人を、世の中を、見つめながら歩くのはなんて楽しいのだろう。もっと知りたい、学びたい。心が躍るような感覚を、もっともっと知りたい。ドラゴンであったときは結局一度も飛べなかったのに、人間になった今のほうが空をも飛べるような気がするから不思議だ。
「幸奈、そろそろ学校に行ってみる? もういいんじゃないかと思うんだ」
「そうね、私もいいと思う」
ある日の晩、お兄さんと愛子さんが私に言った。
町には様々なデザインの制服を着た学生が歩いている。私も同じように学校に行ってみたい。そう思っていた矢先のことだった。
「学校、行ってみたいです。もっといろんなことを知りたいし、学んでみたいです」
「じゃあ、学校に行く準備をしないとね。勉強時間を増やすけど、いいかい?」
「はい、頑張ります!」
こうして私は、救世主さんが通っていた高校に通学することになった。
高校の勉強についていけるように勉強時間を増やし、学校の校則や授業のことなどを教わりながら、いよいよ明日から登校することになった前日のこと。お兄さんと愛子さんに、制服を着たところを見せてあげた。
「あら、幸奈ちゃん。学校の制服、似合うじゃない!」
「幸奈、よく似合ってるよ」
「ありがとうございます!」
お兄さんと愛子さんの温かい眼差しが、何よりありがたかった。
「お兄さん、愛子さん。私のことを信じて、大切にしてくれてありがとうございます。お父さんとお母さんがいたら、こんな感じかな? って実は思ってます。ふたりがいてくれることが、私にとって幸せのひとつなんだと思います。これからもどうぞよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げ、感謝の気持ちを伝えた。ふたりにはどれだけ感謝しても足りないぐらいだ。
ゆっくり顔をあげると、お兄さんと愛子さんは目頭を手で押さえていた。あれ? 私、何か変なこと言った?
「もう! この子は可愛いことをさらっと言ってくれるんだから! 言われなくてもこれからも幸奈ちゃんのことは大事にするわ。でもね、お母さんは止めて。お姉さんと思いなさい。お、ね、え、さん! いいわね?」
幸奈さんに両肩を掴まれ、睨むように言われてしまった。『お母さん』はダメだったのかな?
「異世界にいる本当の幸奈は僕の大切な妹だ。でもきみも僕にとって妹のひとりだよ。これからもよろしくね、幸奈」
「はい、お兄さん」
明日からいよいよ学校だ。これから一体どんなことが待っているのだろう? 友だちはできるかな? ああ、わくわくする!
新生活に心を躍らせながら、私はゆっくりと眠りについた。
これにて第一章完となります。
ここまで読んでいただきありがとうございました。