ひとりの旅人が荒れ果てた世界で生き残る
明け方から降りはじめた雨がまだ、まだらに降っている。
霧の立った鬱蒼とした森の中、若葉から青葉になりかけている樹の下で、一人座り込んでいる者がいた。立ち込めた霧や下生えの草で身を隠して、樹に背中を預けている。その傍らには、灰色の背嚢と弩弓が置いてあった。
腰下まである丁子染の革の外套は雨や霧のせいでその色を濃くしており、黒の厚い生地の下履きも、脚に吸い付くように濡れていた。黒い革のブーツは傷だらけで、水を弾ききれずにその表面に染み込ませていた。その人物は外套のフードを目深に被り、鼻先から口元までが見えている。顎が細い。若い女のようだった。
葉から溢れた雨が一粒垂れ、泥で汚れた鼻を洗い口に伝う。
女は一瞬、体を強張らせる。
少し呻いて、痛そうに体を動かした。
女は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
このままここにいては、どんどん体温を奪われてしまう。
一刻も早く、どこか屋根のある場所まで行かねばならない。
だが女にはもうそこまでの体力が無かった。
女は脇に置いた背嚢から麻の布袋を取り出すと、そこから大きめの丸薬のようなものを取り出し、少し齧りとる。唾液で溶かしながら少しずつ喉に流しこむと、女の口が軽く歪んだ。
豆の粉と草を、少量の塩と獣肉の煮汁でただ混ぜ固めて乾かしただけのこの固形食料は、これだけでも充分な栄養を取ることが出来るものではあったが、何度食べても不味いものは不味かった。
だが食べなければ。とにかく食べていれば動けるようにはなる。今までもずっとそうしてきた。とにかく食べて、動いて、そして何処か大きめの居住地に行こう。温かくて味があり舌に心地よい食事と、簡単な寝床、そしてそこに医者が居れば尚更良い。
女は記憶の中から、一つの居住地を掘り起こす。少し遠いが、この辺では一番大きい居住地だ。人が多い分問題も多いが、少なくとも旅人を襲うほどには困窮していない筈だ。汚いなりに宿もあり、食事も出す。肉を持っていけばそれを調理もしてくれる。それに医者がいる。……まだ、生きていればの話だが。
女は固形食料の最後の一欠片を口に放り込むと立ち上がり、背嚢と弩弓を背負う。舌で押し潰すように粉を溶かしながら、女は歩き出した。
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辿り着いたその居住地は、最後に見たときと殆ど変わりが無かった。長さの揃っていない木の板で囲まれており、その上には有刺鉄線が張られていて、所々トタンで修復されているのが見える。修復しきれていない箇所には、廃タイヤや鉄ゴミが置いてあった。変わったのは精々、見張りの男達の中に数人、女が混じっているくらいか。これは余り良くない兆候だ、と女は思う。
だが女には休息が必要だった。夜通し歩き、やっと休める所まで来たのだ。雨はとうに止んでいたが、足が限界だ。
……長居しなければいいだけの話だ。少しだけ休んで、すぐ旅立とう。
女はそう考えながら、見張りの男に顔が見えるようにフードを外して、門番に笑いかけた。
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「あんた何処から来なすったんだね」
木で出来た粗末な卓に朝餉を置きながら、宿の老婆が話しかけてきた。
「ずっと、向こうからです」
目の前で湯気を立てる粥を見ながら、女はそう答えた。粥には野菜屑と干し肉の欠片が混ぜ込んである。女が匙で一つ掬うと湯気が割れ、煮込んだ米の匂いがした。久しぶりの匂いだ。女はその匂いを楽しみながら、ゆっくりと口に運ぶ。熱さに少し怯むが、この熱ですら久しぶりで有り難い。少しずつ口に含み、丁寧に咀嚼し、胃に流していく。
「ずっと向こうからってあんた……まさかあの山を越えて来たんか?」
女が頷くと、老婆は感心したような声を出す。
「いやぁ、あんた……、見掛けによらず強いんだねぇ」
女は苦笑した。強い、か。確かにあの山の獣は獰猛で、かつ飢えている。だが女はそれに手こずりながら此処に辿り着いたのだ。それを強いと言えるものなのか、女には分からなかった。
「まぁ角鹿を持って来たんだからそれも当然かね。血抜きも完璧だったし。あんた随分旅慣れてんだねぇ」
女は道すがら、群れからはぐれた子供の角鹿を狩って、この宿に持ち込んでいた。見つけたのは幸運だった。居住地に入る際には、何か手土産が必要だ。肉を持ち込めば、大体は有難がられる。女は大した詮索もされずに、この宿にありつくことが出来た。そして一日中泥のように眠った後、やっとこの卓についている。
「最近は破落戸共の襲撃が多くてねぇ。男衆がなかなか狩りに出れんくて困ってたんだよ」
「……そうでしたか」
……やはり、か。この居住地は狙われている。何処かの破落戸が徒党を組んで力を付けたらしい。やはりここには長居は出来ない。
「ご馳走さまでした」
「お粗末様。うまそうに食べてくれるから作った甲斐があったよ」
女は卓に金を置いて席を立つ。すぐにでもこの居住地を発つつもりだった。医者を見つけたかったが、それも危険かもしれない。寝床に戻り、旅装を整え荷物を背負うと、宿の老婆に挨拶をする。
「お世話になりました」
「……ちょっとあんた。せっかく狩ってきた鹿を食わんで行くつもりかい?夜に出してやろうと思っとったんだが」
「はい、……良かったら肉を、少し分けて貰えますか」
「良いも何も、もともとあんたが持ってきたんだから……全く、仕方ないね」
老婆は呆れたようにそう言いながら厨房に入ると、しばらくしてから深い緑色の小さい包みを二つ持ってきて、女に渡す。包みの表面には、平行線状の葉脈が見えた。
「はい、これ。あんたに食わそうと思ってた分だよ」
「ありがとうございます」
「あとこれは、おまけだ」
老婆はそう言って、肉の包みの上に三つほどの四角い固形物を置いた。その固形物は灰色掛かった茶色をしており、大きさは赤子の握りこぶしほど。……固形食料だった。
「……ありがとうございます」
「なに、うちではサービスで宿泊客にあげることにしてるんだよ。本当は一晩につき一つだけど、あんたは特別さ」
そう言って笑う老婆の声を聞いて、女は初めて、老婆の顔をまじまじと見た。日に焼けた肌に深く刻まれた皺が、彼女の生きてきた年月、そして苦労を滲ませている。老婆は、その痩せた頬を笑顔で持ち上げて、女をじっと見つめている。女は普段、無遠慮に見られるのが苦手であったが、その視線はとても好ましいものに思えた。そしてその笑顔は、記憶の片隅にいる誰かに似ていると思った。
「それであんた、そんなに急いで何処に行くつもりだい?」
女は微笑んで「サンクチュアリ」とだけ言い、驚いた様子の老婆に構わず荷物を持ってその宿を後にした。
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女は宿を出るとすぐにでもこの居住地を発つつもりだったが、手持ちの食料や調味料、いくつかの日用品が足りないことを思い出し、店を探した。こういった居住地では、商売が出来る場所が限られており、殆どが密集している。案の定、店はすぐに見つかった。木の机に粗末なトタン屋根を付けただけの店構えだった。商品は例に漏れず、見えない所に置いてあるのだろう。女は店主の男に話しかける。
「水と酒、塩、豆粉と干し野菜、綿糸、あれば接着剤。あと……米はあるか?少しでいい」
「あるよ。何を出せる?」
「金だ」
女は机に硬貨を置く。店主の男はそれを見て、小馬鹿にした顔で言う。
「足りないね」
女は嘆息し、背嚢からいくつかの獣の皮や爪、角などを取り出す。店主の男はそれを見て、やっと動く気になったようだ。
「入れ物を出しな」
女は小さい吸口が付いた革袋と、アルミ製の水筒、麻の布袋を出した。店主の男はそれを受け取ると、後ろの扉の鍵を開け、しばらくしてから戻ってきた。手には頼んだ通りの物。男には惜しむ様子も無い。やはりこの居住地には、物資の蓄えが多いようだ。女は考える。もしかしたら、あれも売ってくれるかもしれない。
「……弾はないか?」
商品を机に置いた店主の男が動きを止める。訝しむ様子で女の装備を見た。女は長銃を背負っていない。であれば拳銃か。
「十ミリか?……あるにはあるが」
男は、買えるのか?と言外に滲ませていた。女は腰に付けた小さめの鞄から、貴金属を二つ取り出す。色石の付いた銀の指輪と、内側に字が彫られた金の指輪だった。男はそれを手に取ると、鑑定するように見る。一つ頷くと、奥の部屋から、印刷が掠れた紙箱を一つ、取り出してきた。
「これで出せるのはこの分だな」
女は机に置かれたその箱の横蓋を開け、中身を確認する。ニ列分ほど使われてしまっていた。精々十六発程しか入っていないだろう。
「……少し足りなくないか?」
男は腕を組み、尊大な態度を取る。
「嫌なら他所に行くんだな」
女の苦情には取り合う気がないらしい。仕方ない。ここで遣り合う気もない。そもそも売ってくれただけでも有り難いのだ。他所ではもう見かけることもなくなってしまった。女は笑う。
「……商売上手だな」
「……ま、それが俺の唯一にして最大の美点だな」
そう言って男は初めて口の端で笑った。
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女は月明かりを頼りに、乾いた荒野をひたすらに歩いていた。風は前から吹いている。枯れ草と砂の混じったその風を避けるために、女は布を口に巻いていた。外套が風で後ろにはためき、女の装備を顕にする。白いシャツの上に革の胸当てと篭手を付けているのが見える。元々は深い茶色であっただろうその装備は、使い込まれて鈍く黒く光っていた。腰元のベルトには小さめの鞄が一つ、その横に短剣があり、その反対側に拳銃が見えた。
女は先を急いでいた。ここは余りにも見通しが良すぎる。あの居住地を狙っている破落戸共にいつ鉢合うかわからない。居住地を出てからもう一昼夜が経とうとしているが、せめて身を隠すことの出来そうな場所に辿り着くまで、休む気は無かった。
枯れた林を抜けると、岩の多い川に出た。向こう岸には何軒か家屋が見える。灯りは見えない。見張りも見えないことから、誰も住んでいないようだ、と女は判断する。やっと休めそうだ。女は浅瀬を探し渡る。岩に足を取られブーツを少し濡らしながらも渡り切ろうとした時、岩陰から人の腕が出ているのが見えた。女は咄嗟に拳銃を抜く。だがその腕はぴくりともしない。女はブーツが濡れるのも構わず、大回りしながらゆっくりと、その岩に近付いた。白っぽい脚が見えた。
……女の死体だった。着衣は乱れた上に黒く汚れており、その腹部にはあるべきものが無かった。上半身に残っているのは腕が一本と胸から上だけ。その顔や胸も獣に食い散らかされ、所々に骨が醜く見えていた。
女は死体に近付き、その着衣を検める。ポケットに銀のティースプーンが一本、そして指には指輪を嵌めていた。女はそれらを抜き取ると、腰の鞄に入れる。
……あの家の住人だったのかもしれない。死体はそこまで古くはない。最近まで彼処に住んでいたのであれば、何か物資が残っているかもしれない。この死体が葬られずに放置されているところを見ると、あの家には本当にもう、誰も住んでいないのだろう。
女は荒れた家屋の中でも一番まともそうな家に入る。屋根もあり、壁もある。破れてはいるが窓にはカーテンもかかっており、部屋の中には古ぼけた二人がけの赤いソファもあった。
女は荷物を置くと、ソファに腰を下ろした。錆びたスプリングの音が響く。途端に眠気が女を襲った。何かを考える間もなく、女は意識を沈ませた。
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「起きろ」
男の声で目が覚める。
目の前には黒い銃口。一瞬で、これは自分の拳銃を向けられているのだと分かった。
「動くな」
男の声は正面のやや上から聴こえる。目線だけを上げると、酷く痩せた白髭の老人が、自分の銃を構えて立っているのが見えた。
「何をしにきた」
声が震えている。この老人は荒事に慣れていないのだと女は判断する。まともな精神であれば、説得でどうにかなるかもしれない。女は横になったまま、男に話しかける。
「……休んでいただけ。すぐ出てくよ」
老人は迷っているようだった。信用出来ないが撃ちたくもない、そういった感情が見てとれた。女は安心した。この老人は賊でも無ければ狂人でも無さそうだ。
「……起きてもいい?」
そう言いながら、女はゆっくりと上半身を起こす。
老人はまだ何かを迷っているようだった。女は促すように眉をあげる。
老人は銃口を女に向けたまま、掠れた声で話し始めた。
「……何か……食べ物を分けてくれないか……」
女はそれを聞くと笑みを漏らした。
「な、何が可笑しい」
「……いや、だって……私が寝てる間に荷をあさらなかったの?」
老人はそれを聞き、思いもしなかったかのように息をのんだ。
堪らず女が笑い出す。ああ、この老人は。
……この老人は恐らく、私がこの世界で会った中でも、最も善良な人間の一人だ。これ程までに荒れ果てた世界では最も得難く、そして最も尊いものを、この老人は持っている。老人になるまでの年月、そしてこの痩せ細り汚れた状態から考えると、期待すら出来ないものを。
女は嬉しかった。そして、何故だか恥入っている様子の老人に笑いかける。
「何か食べよう。私が作るよ」
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「それで……あんたは何処に行くつもりなんだい」
固形食料を煮溶かしただけの朝食を終えて器を拭いながら、老人が尋ねてきた。別に隠しているわけでもない。女は何でもないことのように答える。
「サンクチュアリ」
老人が目を見開く。女をしばらく見つめた後、目を伏せながら言った。
「悪いことは言わん。やめておいたほうがいい。……彼処はもう駄目だ」
女は表情を変えずに、ただ老人を見つめていた。老人はその表情に少し狼狽えながらも話し続ける。
「私はそこから逃げて来たんだ……もう……そうだな、暦を数えていないから正確には分からないが……恐らく二十年くらいは前のことになるだろう……」
女の表情がぴくりと動く。
「何があった?」
老人は少し間を取ると、積を切ったように話し始めた。
……老人がまだギリギリ青年と言える年齢であった時、母親を連れた放浪の末にそこに辿り着いた。その時、そこはまだ確かに聖域だった。
街は潤っていた。人々は飢えることも、獣に怯えることもなく、穏やかに暮らしていた。青年とその老いた母親は家を与えられた。そうして暫くの間は平穏だった。
街は突然襲われた。徒党を組んだ破落戸が街に押し寄せ、物資を奪っていった。襲撃は度々行われた。抵抗した何人もの人間が殺された。
残った者達も、物資の奪い合いや住人同士の仲違いで何人かが死んだ。
不和が街に蔓延るようになると、街は回らなくなった。見知った者達がどんどん欠けていく。ある日、衰えた母親が口減らしに殺されると、青年は街を飛び出した。
「……今、彼処がどうなっているのかは知らんが……どうせろくでもないことにしかなっとらんだろう……どこもそうだ……結局、人が集まれば駄目になる……」
老人はそう言って話し終えた。老人は女を見る。女はずっと無表情のまま、炊事用におこした焚き火を見つめていた。熾火の爆ぜる音だけが、時折その場に響いていた。
「……母親を探してるんだ」
女が静かに切り出した。
「……小さい頃に生き別れたんだ。五年くらい前から旅をして、方方を探している」
焚き火から目を離さないままそう呟いた女の顔を、老人はまじまじと見る。女の顔には、何か老人の記憶に引っかかるものがあった。
「とは言っても、手がかりは無いんだけどね。あるとするなら、この首飾りと、この顔、くらいかな」
おどけて言う女は、首元から金の硬貨がついた首飾りを出した。老人の反応を待つが、心当たりが無さそうだと察すると、女は首飾りを仕舞った。女が老人を真正面に見据える。
「……どうかな、お爺さん。こんな顔、どっかで見なかった?」
瞬間、老人の頭にある記憶が蘇った。
ある日、サンクチュアリに女の旅人が訪れた。生き別れた子供を探して旅していると言う。住人達は、定住を勧めた。子供は諦めたほうがいい、きっともう死んでしまっただろう、と。だが女は二、三日街に滞在するとまた旅立ってしまった。
似ている、と思った。確かにあの旅人にそっくりだ。
「……見た、ことがあると思う。……しかも、サンクチュアリでだ……」
「ほんとに!?」
女が身を乗り出す。老人が頷く。
「そうだ。子供を探してると言っていた。……私は医者だったんだ。……別に今も辞めたわけではないがね。確かにあんたに似ていたよ。診察したんだ。何か病気が無いかとね」
「……病気はあった?」
「ふっ、どうだろうな。形式的なものだったから。……まぁでも、元気そうだったぞ。……あの時はな」
今はわからんがな、とまでは言わなかったが、伝わったようだ。女は膝に頭を乗せて、何かを考えているようだった。
……そう言えば、あの旅人が旅立ってすぐ、街に破落戸共が押し寄せたのだったか。誰かが、あの旅人が災いを持ち込んだのだと声高に言っていたのを聞いた。自分も住人達もそれどころではなく、まともに取り合わなかったのだが。
「お医者なら……大事にされたでしょう」
顔を伏せたまま、女が言った。老人は考えながら答える。
「まぁ、な。……だが、助けられた人間よりも、助けられなかった人間の方が多い……。薬が無ければ医者はなんにも出来ないのだと思い知ったよ……。……それに」
老人は一度話を切り、苦悶の表情を浮かべる。思い出が彼を苦しめているようだった。
「それに……助けられなければ、どうしたって残された人間に恨まれる。なんで助けてくれないんだ、あんたは医者だろうってな……。私はもう……疲れた……」
老人の脳裏には、今まで通り過ぎてきた人達の顔が次々と浮かんでいた。……風邪を拗らせたまま死んだ男、その家族。……産褥で死んだ女、産まれた子供を抱きながら泣き崩れる男、衰弱して動かなくなる赤ん坊。……笑いながら、次は天国に行けるという希望を語って死んだ子供。自殺した母親。……破落戸に乱暴された女。その恋人は復讐の為に旅立ったまま二度と戻らなかった。
ここでは小さな傷が致命傷になり得る。どんなに手を尽くしても、生きようとする意志が無ければ人は死ぬ。自分は無力なのだと何度も思い知らされた。……だが。
老人は一人の少年の顔を思い出していた。獣に噛まれた傷が癒えた後、医者としての知識を享受してほしいと願い出た少年がいた。
「種も実も残せなかった私だが……この人生で一つだけ良いことをしたと言うならば、あの少年を助けたことだ。私は彼を医者にするべく、教えられることは全て教えた。……もしかしたら、彼はまだサンクチュアリにいるかもしれんな……」
それを聞いた女が顔をあげた。笑顔を浮かべている。
「……会いに行こう」
女が言った。老人は意味を図りかねたまま、女の顔を見る。女は続けた。
「会いに行こう、その少年に。一緒に探しに行こう。サンクチュアリへ」
老人は迷う。確かにこのままここにいるよりはいいだろう。あの少年の今も気にならないとは言えない。だが、この旅慣れた様子の女の連れになるには、自分は年を取りすぎている。確実に足手まといになるだろう。そのことを、この娘は分かって言っているのだろうか。
「大丈夫。私が守るよ」
女が、老人の心を読んだかのように言った。それを聞いた老人は大声で笑い出した。こんな楽しい気分は久しぶりだった。
「……こんな爺を守ってくれるか。いやはや……、若い娘にそう言ってもらえるとは、私もまだまだ捨てたもんじゃないな……」
そうだよ、と言いながら、女はまた膝に頭を乗せて焚き火を見る。火勢は既に衰えており、今は細くなった数本の熾火が弱々しく光っているだけであった。
「……私は母親を。貴方は少年を探すんだ……」
女がそう呟いた時だった。川の方から何か物音がした。女は素早く振り向く。何かが石の上を歩いている。獣の鼻息のようなものも聴こえた。
それは大きな熊であった。川岸にあったあの女の死体へ向かっていた。熊は臭いを確認するように死体に頭を近づけると、そのまま食事を始めた。
老人と女は顔を見合わせ頷くと、家の中に入る。熊と戦って勝てる者は少ない。無手では殆ど無理だと言っていい。しかもこちらは女と老人。どう考えても無理そうだった。扉をそっと閉めて、そこを塞ぐように女が座った。二人は熊をやり過ごすつもりだった。食事が終わればきっとねぐらに戻るだろう。
老人が窓から川辺を見ると、熊はまだ食事中だった。
壁に寄りかかるように老人も座り込む。女は神妙な面持ちで老人に話しかけた。
「……あの女性は、貴方の知り合いか?」
悲痛な顔だった。この娘は、あそこで食べられているのが私の知り合いだと思い、そして私の心情を憂い、心配してくれている。
こんな状況ではあったが、老人は神に感謝していた。私をこの娘に会わせてくれてありがとう、と。先の短い人生ではあるが、それをこの娘の為に使えるのであれば、自分の人生も意味のあるものだったと思って死ねるだろう。どうにかしてこの娘を母親に会わせてやりたいと思いながら、老人は首を振る。
「……いや、知り合いではない。私はここにしばらくいて、川で蟹や魚を獲って暮らしていた。二日程前に何か物音がしたと思ったら、あそこに死体があった。その時他には何も見えなかったが……。多分、熊があそこへ死体を持ってきたんだろう。……私は恐ろしくて、この家から出ることも出来なかった……」
そうして困窮していった。そんな時にこの娘が現れたのだ。最初は恐ろしかったが、寝ている間にこの娘を殺してしまわなくて本当に良かったと老人は思っていた。もう一日二日遅ければ、自分がどうしていたか分からない。
その時だった。扉が急に大きな力で押され、女の体が前方に激しく傾いだ。獣の呻るような息が聴こえる。老人は息を呑む。あの熊だ。あの熊が、ここに餌があることに気付いてしまったのだ。時を置かず、先程よりも物凄い重量で扉にぶつかる激しい衝撃があった。女は必死に圧拉いでいるが、このままでは突破されるのは時間の問題だった。老人は決意する。
老人が扉の脇の窓を開け身を乗り出したのを見て、女は驚愕した。老人は自ら餌になるつもりなのだ。女は舌打ちをする。老人が窓から外に転がり出たその瞬間、女は意を決して扉を押す力を弱めた。熊がその勢いのまま家の中に突進する。女は床に転がるが、すぐに体勢を戻して開いた扉を閉める。外で老人の大声が聴こえるが、それがすぐに泣き声に変わった。呻る熊に対峙しながら女は笑う。きっと私はまた生き残る。ずっとそうだった。大丈夫だ。例えここで死んだとしても、少し死期が早まっただけの話。女は短剣と拳銃を両手に持ち、熊が仕掛けてくるのを待った。
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老人は扉の前で打ちひしがれていた。せっかくの希望が全て失われたようだった。この身などいくらでも捨て打つ気だった。だが女はそれを拒否したのだ。閉まった扉に女の意志を察すると、振り絞った勇気が途端に萎んだ。命を惜しむ気持ちが、少しの安堵感と罪悪感と共に舞い戻ってしまった。涙が溢れて止まらなかった。
扉の中では格闘するような音や熊の唸り声、そして女の悲鳴が聴こえた。ニ発の銃声が響いたあと、何かが倒れる音がして、そして静かになった。
老人は扉を開ける。部屋の真ん中に、熊と女が倒れていた。熊の口には女の左腕が肘まで突っ込まれており、そこから大量の血が流れ出ていた。老人は急いで駆け寄る。熊の顎を女の腕から剥がすと、血塗れの腕と共に握られた短剣が出てきた。熊は事切れている。見ると熊の左こめかみあたりに銃創があった。この娘は、短剣を持った腕を熊に喰わせて、右手で熊を撃ったのだ。老人が啜り泣きながら女の左腕をとり止血しようとすると、女が呻いた。掠れた声で老人が謝る。
「……すまない……すまない……」
女は、優しく答えた。
「……大丈夫。私は、死なないんだ………」
老人ははっとした。この台詞を昔、聞いたことがある、と。
そう、あの女の旅人が、同じ声で、同じ台詞をサンクチュアリで呟いたのだ。
『病気なんて無いよ。私は死なないんだ』と。
その時はただの強がりだと思っていた。
まさか、と老人は思う。
……そうだ。記憶の中の旅人とこの娘は、余りにも似すぎている。
「……少し、寝る。起きたら、食べる。そうすれば、きっとどうにかなる……」
そう言って女は目を閉じた。老人は自分の衣服を裂き、女の左腕を縛る。
女の荷物から清潔そうな布を取り出すと、女の傷口にあてる。
この娘が今までどうやって生きてきたのかは分からない。
娘が言う通り、寝て起きて、食べれば確かに生きられる。
だが人間が生きていくには、希望が必要なのだ。
それは、母親を探すことであったり、教え子を探すことであったり。
……生き別れた子供を探すことであったりするのだろう。
老人は女の頭の下に枕を入れると、決心する。
生きなければ。
この娘の希望を取り上げることなど、誰にも許さない。
この娘が望む限り、一緒に居て、一緒に希望を探すのだ。
共に、この世界の荒廃を見送りながら。
例えその旅の果てに、何も無くても。