新たな仕事
二年が経った。
横内は技巧派ではあったが、あまりインスピレーションのある男ではなかった。
森本よりも背は少し低くいが、色白で鼻筋が通り足も長い。比較的無口だった
が、森本とはウマが合った。だから卒業前に一緒にやらないかと声をかけていた。
OBのいるデザイン会社に、独立する旨を伝え、今度は3人になったので、もっと
仕事をくれるようにたのんだ。
それからチラシを作ると、学校や美容室、パン屋にクリーニング屋、近場の商店
街に繰り出し、手当たり次第にそれを配って歩く。
けれども、なかなか仕事の依頼はない。
森本の部屋をデザイン室とした。数日、本棚を作ったりOBからもらった中古の製
図台を調整したりしていたが、半月が過ぎた頃から段々仕事が入り始めた。
商店街で配ったチラシが効果を上げはじめる。ほとんどが、安売りの広告だった。
「紗英、それちょっと抽象的すぎないか」
「そうかな」
「折り込み広告なんだから、おばさん達がひと目見て飛びつくようなもんでないと
意味ないぜ」
「でも綺麗でしょ」
「ああ、アートならな、でも使えて2色だからコントラストで勝負だ」
「うん」
「横内の方はどうだい」
「ああ、肉屋だから丸ごとのローストチキンにするか、骨つきのモモ肉にするか考
えてるところだ」
毎日が充実していた。
夜遅くまで片付かない場合には横内はアパートに帰らずに森本の部屋に泊まって
いった。
窓からは近くの公園の桜が、闇のなかに霞のようにけぶって見える。
まだ始まったばかりなのに、もう3人で何年もやってきたような気がするのが何
かおかしい気がした。
仕事には波があったが、なんとか3人で食って行けるくらいの収入はあった。
昼食を食べている時に横内がポツリと呟いた。
「なんか違う」
「何が?」
紗英が訝って聞く。
「なんかさあ、学生の頃に憧れていたデザイナーと違うよな」
「そういやおまえ、よく飲みに行った時なんか芸術論ぶってたっけな。まあ商店の
チラシみたいなもんばっかじゃ、うんざりするのもわかる。確かに雑誌に取り上げ
られるようなシャレたもんじゃないさ。でも、これで俺たち飢えないでいられるん
だから感謝しなけりゃ」
食事は当番制で作った。今日は森本の作ったペペロンチーノだ。 材料費が安くすむのと、シンプルな味が好きなので森本はよく作った。
「今日の、ちょっと辛過ぎないか」
そう言って横内が顔をしかめる。
「唐辛子の量はいつもと同じだぜ。紗英はどうだ?」
「う~ん、そう言われればちょっと辛いかな~」
その時電話が鳴った。
森本がフォークを置いて受話器を取った。
「はい、スリーチャイルズデザインスタジオです」
そう言ったきり、森本は一言も発せずにただ頷いている。横内と紗英は森本の顔
を見ていた。
「はい、有り難うございます。それじゃ、いまから資料をいただきに伺います」
そう言って受話器を置いた。
「森本、なんだかヤケに嬉しそうじゃないか」
「先輩のところからだよ。なんだかおもしろい仕事になりそうだ」
そう言うと、皿に残ったスパゲッティをかき込むように胃に収め、部屋を飛び出
して行った。
「どうだった、どんな仕事?」
紗英が期待に輝く顔で聞いた。
「これ見ろよ」
そう言って森本は図面を開くと、出てきたのは何かの地図のようだ。
横内が食い入るように見ている。
「土地の平面図だな」
「ああ、公園になるんだ」
「公園?なんで公園の図面なんかを持ってきたんだ」
「この公園をデザインしてみないかってさ」
「おいおい、俺たちゃグラフィックだぜ、公園ならランドスケープアーキテクトだ
ろうが」
「先輩のところに転がり込んだらしいんだけど、出来ないからって、こっちにお鉢
が回ってきたって訳さ」
「それで受けたの?」
「ああ、幸い珍しく時間もたっぷりある仕事だ、勉強しながら俺やってみようかと
思う」
「時間があるからって足出すなよ」
横内が少し嫌味に言った。
たいして資料も無いので図書館に足を運び、ランドスケープや造園関係の本を手
当たり次第に借りて帰った。
机にそれらの本を積んで、読み始めたばかりなのに暗雲が垂れ込めた。風土、地形、土質、土木、木、花卉、等々、どれひとつとっても、どこまで深いか分からない。
(これは大変なものに手を出してしまった)
少し後悔の念もないとは言えなかったが、受けたからには、投げ出すわけにはい
かない、なんらかの形にしなければ。
時間が出来ると近くの公園を見てまわった。
いくつかの公園を見ると、本で見た海外の公園と何かが違う。
そしてそれらの公園には共通点を感じた。それは緑が少ないということだ。海外
の公園に比べて面積あたりの緑地度が少ない。
そして規模が小さい公園ほど、管理が行き届いていないと思った。
河川敷の公園などの芝生にはクローバーが生え放題で、芝を駆逐し始めていた。
(よし、本当の自然の中にいるような公園にしてやろう)
そう考えると、自然そのものも見なければ意味がないと思う。
(今度の日曜日は山に行ってみるか)
本屋に行くと、山岳地図を買ってきた。深夜、布団に寝そべりながら、秩父多摩
甲斐国立公園の山岳地図を見ていた。
山には前から憧れていたが、実際に登るきっかけが無いままでいた。
地図のなかで、初心者向きの山を探していたが、地図からその風景が見えるよう
でなんだか楽しい。
コンコンとノックの音。紗英だ。けれどもこんな時刻にノックされたことは一度
もなかった。
森本の(紗英を女と意識しない)というそぶりが彼女には伝わっていなかったの
だろうか、紗英は時々甘えるような仕草をしたが、森本は無視してきた。
「どうぞ」
ストライプの入ったダブダブのパジャマ姿の紗英が入ってきた。
「ちょっと肩貸してくれる?」
「どうした?」
「ううん、別になんでもないんだけど、なんだか泣きたいの」
「どうして」
「わからない」
そう言ってうつ伏せの森本の肩に顔を乗せると、シクシクと泣きはじめた。森本
はそれに動じず地図を見ていたが、五分も過ぎると無視し続けるのが苦しくなって
きた。
うつぶせから身体を起こすと紗英の両肩をつかんで、下を向いている紗英に目を
見るように促した。
「どうしたの?」
森本の目を見た紗英は、子供のように森本の胸に顔を埋めると「エ ~ン」と大声
をあげて泣き出した。森本はどうしてよいか分からずに黙って頭を撫でた。
紗英は泣き疲れると、森本に抱かれたまま寝息を立て始めたので、そのまま布団
に寝かせ、頭を撫でながら眠りについた。
終点中央線五日市駅で降り、バスに乗り軍道で下りると、馬頭刈尾根を登り始
める。 大岳山、御岳山と縦走して青梅線の御嶽駅に下りる初心者コースだ 。
初めての山歩きなので、無理のないルートを選んだつもりだったが、登り始める
とすぐに汗が吹き出た。
おまけに大枚を叩いて買ったイタリア製の登山靴が、馴染んでいないためか足に
当たって痛かった。
そもそも甲高のヨーロッパ人と幅広のモンゴロイドでは足の構造が違うのだ、な
どと呻いてみても始まらなかった。
地味で人気のないルートのためか、若い夫婦と小学生くらいの男の子の家族と出
会ったきり誰にも行き会わない。
秋の空はどこまでも青く、雑木林のクヌギやシデも下界よりも早く紅葉をはじめ
ていた。
歩いていると段々呼吸が整ってくる。自然に浸るために来たはずなのに、頭の中
では来し方行く末を考えていた。
今のところは、何とか仕事も回っている。紗英も横内も良くやってくれていた。
けれども言い様の無い不安が、頭のなかのどこかにこびりついているのを感じる。
その原因が、不慣れな公園のデザインにあるのか、それとも心の何処に置いたらよ
いのか、不安定なままブラブラしている紗英のことなのか、自分自身でも分からな
かった。
大岳山の山頂に着いた。
東側には青梅、立川そして東京方面の遠景がはるかに見える。
低山とはいえ初めての登山に心細くもあったが、こうして山頂に立ってみると、
じわりとした歓びがあった。
昨日の晩、ザックに合羽やヘッドランプなどの用具を詰めていると、紗英が「ど
こに行くの」と聞いてきた。
山へ行くと答えると、「じゃあ、お弁当作ってあげるね」そう言って今朝持たせ
てくれた弁当を、腰を下ろして広げた。
小振りの握り飯が三つと、卵焼きとレタスとアスパラガスのサラダがタッパーに
入っていた。それに0.5リッター入りのアラジンのポットには熱い緑茶。
握り飯を頬張る。飯の炊き加減といい、塩加減といい、この澄み切った大気のせ
いもあるのかもしれないが、この上なくうまかった。
弁当を食いながら、ふと紗英の涙を思い出した。
紗英が好きだという気持ちは、紗英を初めて見たあの時から微塵も変ってはいない。彼女がやっていたことも、それは何も気にしていないと言えば嘘になるが、そ
れでも嫌いになる原因にはなっていなかった。
(紗英は俺のことを好きなんだろうか?ただ、変ったことをした男というだけで、
一緒に住もうなどと言ったのではないのか)
彼女は多分に感覚的な女性だったから余計にそういう想念が湧いて来る。
もし本当に好きだったとするならば、森本の日頃の距離を置いた数年間のつき合
い方は紗英を傷つけていたのかもしれなかった。
握り飯を持ったまま、そんなことを考えていると「こんにちは」と一人の男が声
をかけてきた。
「どちらから?」
30代後半か40代の頭くらいの中肉中背、というか少し細身ながらも筋肉質な
のが服の上からも見て取れる。使い込んだアタックザックにスニーカー。山に馴染
んでいる男の匂いがぷんぷんした。
自分のおろしたての登山靴が恥ずかしく感じられる。
「はい、馬頭刈尾根から来ました」
「ああ、五日市方面からですか。今日はいい天気ですね」
「はい。空気が澄んでいて気持ちがいいです」
「失礼ですが、いつもお一人で登られているんですか」
「恥ずかしながら、今日が初めてなんです」
その男と十分ばかり他愛も無い話をした。
「私、小さな山岳会をやっているんですが、もし良かったら、今度一緒にやりませ
んか?」
「山岳会って言うと、雪山とか岩とかもやるんですか?」
「どちらかというと、そっちがメインです。月に一回、高田の馬場で例会をやって
ますので、良かったら参加してください。なに、居酒屋で飲むだけですがね」
白い歯を見せ笑いながらそう言うと、名刺をくれた。
『鉄人岳友会』会長 宗像 清
「鉄人ですか.............すごい人ばかりが集まった会なんですね。私みたいなビギナー
にはとてもついて行けそうにないです」
宗像は、ハハハと愉快そうに笑った。
「鉄人ってのはですね、鉄人28号から取ったんですよ。私が好きだったもんだから。皆さんそう思われますが、ぜんぜんハードじゃないんです、女性も結構いますし」
宗像は鋸山に向かうと言う。
「どちらまで?」と聞かれたので、御岳山から青梅線に下ると答えると「それ
じゃあ、お気をつけて」とお互いに言って分かれた。
(山岳会かあ.........)
雪山や岩壁など、自分には縁のないものと思っていたが、そこに入れば出来るよ
うになるのかと思うと、なんだか世界が広がるような気がした。 それと「女性も結
構いますし」という言葉が、何故か頭から離れなかった。男を誘う時の殺し文句だ
ったのかもしれないが、紗英のことしか頭になかった森本には(何か新鮮な風が吹
くかもしれない)という予感がした。