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ガーデン  作者: 佐伯 蒼太郎
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何でもない時ならカッコのつけようもあっただろうが、焼けるような痛みにそん

な余裕はない。苦痛に顔を歪ませているだけで返事すら出来ない。

 救急病院に着くとストレッチャーに乗せられた。

 すごい速度で天井が走る。レントゲンを撮られ、手術室へと移動して手術台に寝

かされた。


「ちょっと痛いですよ」


 医者はそう言うとブーツを脱がせようとした。


「アア~ッ」猛烈な痛みにおもわず声が出る。


 痛み止めの注射が打たれギプスをされ処置が終わると、病室に寝かされて点滴の

針を打たれた。薬が効いてきたのか段々痛みが消えてゆく。

 落ち着いて来ると、なぜ個室なのか少し不思議に感じたが(きっとぶつけた奴が

金持ちなんだろう)くらいにしか思わなかった。

 警察官が来て事故の調書を取られる。しばらくすると、今度は突っ込んで来た車

の運転手が来た。


「まことに申しわけありませんでした」


 そう言って名刺を差し出した。『経営コンサルタント、依田勝三』とある。

 男は60歳くらいで頭が薄く、くたびれた薄茶のスーツを着、古くさい幾何学模

様のグレーのネクタイを締めている。


「どんな具合なんでしょう」


「右足首の剥離骨折だそうです」


「すみません本当に」


「なんであんなところから出て来たんですか?」


 少し怒気を含んだ声で問う。


「いや~、会社に忘れ物をして取りに帰ろうと思ったんですが、左折してグルッと

回るのが面倒になって、Uターンしようとしたんです」


「だって、あそこはUターン禁止じゃないですか」


「そうなんですよね............実は私、無免許なんです」


 森本は声が出なかった。


「これから警察に行って取り調べを受けることになっています。どういうことにな

るか分かりませんが、あなたには出来るだけのことをさせていただきますので、足

りないものがあったらなんでも言ってください」


 そう言いながら、近くで買って来たからと、下着とパジャマと果物をベッドの脇

の小机の上に置いて帰って行った。

(無免許とはなあ)そう思いながらも自分のスピード違反を棚においているのが少

しおかしかった。


(肝心なやつがこない)森本はそう思っていた。

 看護婦が面会時間は8時までだと言っていたので、あと15分しかない。

 いままであいつに特別な感情を持ったことはない。ただ、心のどこかで憧れてい

たのは確かだ。

(あと10分)と腕時計を見た時、ドアのノブが回るのが見えた。「オッス!」そ

う言って紗英が入って来た。


「ノックぐらいしろよ」


「おっ、わりいわりい。ほらこれ」


 そう言って紙袋を手渡した。


「何?」


「パンツ。なきゃこまるだろ。アパートに行って取って来てやったよ」


「アパートの場所もしらないくせに。でもありがとう」


 森本は依田の持って来た下着の入った袋に目をやった。けれども紗英に中身の分

かるはずもない。

 彼女の馴れ馴れしい話し方に、驚くとともに嬉しくもあった。


「それでどこを怪我したの?」


「右足首の剥離骨折」


 さっき依田に言ったばかりだが、これから友人が見舞いに来る度に同じことを言

うのだろうとため息が出る。


「よかったじゃん、そんなもんですんで」


「よかあないさ、すんげえ痛かったんだぜ」


「森本君、すごい形相だったよ。腕もないのに無理するから」


 笑いながら面白そうに言う。


「無理じゃないさ。あれがいつもの俺の走りだ」


「ぶつけられて悲鳴あげるのもいつもの走り?」


「怒るぞ。それにそろそろ帰らないと、看護婦さんが追い出しに来る」


「ああそうだね。これからまた走らなきゃ」


「どっか行くの」


「デートに決まってるじゃん。それじゃまたね」


 紗英は出て行った。

 森本は無理をして、見栄を張って紗英に相対した自分に少しだけ悲しくなった。

 教室でも本当にたまに挨拶くらいしかしたことがなかったが、こうして少しの時

間だけれども、面と向かって話してみると、憧れが、好意になっていくのを押さえ

られそうになかった。

(『デートに決まってるじゃん』か、そうだよな、あんなやつ、すっぽっとく男は

いないよな。『じゃん』か、あいつそういえば横浜だったな)

 どんな男とデートしているのか、あの少年の様な口調が恋人を前にするとどう変

るのか、男の腕の中ではどんな風に....... 。

 森本は眠れない夜を過ごしていた。紗英の持って来てくれた袋を開けてみた。

 白いTシャツが2枚、色違いのチェックのトランクスが2枚、それにコミック調

の赤い可愛いロケットが紺地にプリントされているパジャマ。まるで少年の着る様

な柄だったが、依田の持って来た、おじさんぽい薄いブルーのストライプのパジャ

マや、白いブリーフよりは、ずっとシャレていた。

 何よりも、身長177センチの森本がいつも着ているLLだったことが、なんだか

自分をいつも見ていてくれたような気がして嬉しかった。

 袋の底に本が一冊入っている。

 シャルル.ボードレールの詩集『悪の華』。

 少し読みかけたが、段々暗い気持ちになってきた。


(なぜこんな本を入れたんだろう)



 入院はひと月になろうとしていた。

バイク仲間や大学の友人は何回か来てくれたが、紗英はあれ以来一度もこなかっ

た。

 最初の一週間くらいは休暇が出来たような気がして、好きなバイク雑誌を読ん

だり、テレビを見たり自由気ままに過ごしていたが、1ヶ月も経つと見舞いの数

も減り、なんだかノイローゼ患者になったような気がする。

 内蔵に悪い所もないのに、食事は塩味のない病人食なのも気を滅入らせる。

 福岡の実家にはこの事故のことは一切連絡していない。事故などと言えば心配

性のお袋がすぐに飛んで来ると思ったからだ。


 ある日、担当医が「そろそろ外出してもいいですよ」と言ってくれた。

 待ってましたとばかりにジーンズにスエットシャツを着ると、松葉杖をついて

春の陽光の下に出た。

 とくに宛があるわけではない。なんとなく駅に向かって歩く、病院でトイレに

行ったり、一階の喫煙所に行く時くらいしか、松葉杖を使って歩くことをしなか

ったので思ったよりも疲れる。

 ともあれ何かうまいものが、味のあるものが食いたいと思った。

 駅の側にタコ焼き屋があったので、6つ入っているのを1パック買い、コンビ

ニで缶ビールも買って、道路向かいにあった公園のベンチに座ってそれを食う。

久々の冷えたビールはうまかった。

 何も考えずにタコ焼きを頬張っていると、2ストローク特有のギャーンという

排気音が聞こえて思わず音のする方向を見た。

RZRにターコイズの2本ラインのヘルメット。


(紗英!)


 紗英は駅のロータリーにある交番から50メートルくらい離れた所にバイクを

止めると、ヘルメットを脱ぎ、ホルダーにロックして駅の階段の方を見ている。

誰かを待っているようだ。

 公園のハンテンボクの葉陰から、まるでカメラのファインダーを覗くかのよう

に紗英の姿が見える。紗英からはこちらの姿を見ることは出来ないだろう。


(一体誰を、恋人か?)


 森本も紗英の視線の先からどんな奴が来るのかと注視していた。

 紗英は裏ボアのあるゴツイ革のジャケットを脱ぐと、下には淡いスカイブルー

のTシャツ一枚だった。そして細い足のラインがはっきり見て取れるジーンズ。

浅めのライディングブーツ。

 ブラジャーも着けていないのか、小さな尖った乳首がこの距離からでもポツン

と見えた。

 それにしてもこの雑踏の中で、紗英のいる空間だけが汚れから清められた聖域

のような雰囲気を醸し出していた。太陽の光が紗英の白い肌を透過して地面に落

ちているのではないかと錯覚させ、背中まである髪は光線の加減で黒から栗色へ

と変化しながらサラサラと風に泳ぐ。

 5、6分くらい経っただろうか、4、50歳くらいの仕立ての良いライトグレ

ーのスーツを着た男が歩いて来ると、紗英をみとめて何か話をしている。

 1分としないうちに二人は歩きはじめた。恋人という雰囲気は微塵もない。

 森本は二人の歩く先を思って心が震えた。その方角にあるのはいかがわしいホ

テルの立ち並ぶ、この街の陰部だった。


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