第三話
雨はまだ降りつづいていた。しかしもう目に見にくいくらいの細い春雨だった。軒をつたって落ちる雨だれの音で降っているのがやっとわかるくらいだった。瑞樹が目を覚ましたとき窓の外には乳白色の霧がたれこめていたが、遠い雑木林や山の稜線がわずかにあらわれていた。半身を起こして、身体の疲労が完全にとけていることを感じる。トロトロとした気持ちいい眠気はまだあったが、おおかた頭も冴えている。ぐーっと大きく腕を上に伸ばした。部屋の真ん中で揺らめくランタンの炎。それでも部屋はまだ薄暗かった。由美は横になってスヤスヤと眠っているが、綾は虚ろな目でじっと固まって炎を見つめていた。その眼は酔払ったみたいに赤く血ばしっていて、深く息をすると鼻がかすかに膨らんだ。綾の膝に頭を預けたままのハルは眠ってしまう前に見たときと体勢がまったく変わっていなかった。わたしはどれだけ眠っていたのだろう。「今、何時?」と聞いて、「五時くらい」と棒のような声が返ってきた。綾にひどいことをした記憶が蘇った。謝らなくてはいけないと思いつつ妙な引け目を感じて言い出せないでいたら、「大丈夫?」と綾に先手を取られてしまった。
「うん、大丈夫」と答えて、余計謝りにくくなってしまった。
わたしは綾から顔を背けたくて、わざとらしくあくびをしてうつむいて目を閉じた。暗闇の中でもう一度これまでの恵理子との思い出を思い出そうとした。わたしは汗と血で臭い自分の臭いをかぎ、外の雨の音を聴いた。でもどうしてもあの凄惨な悲劇が邪魔をして、それ以外の光景をまったく思い出せなかった。酷く疲れていて頭はぼーっとしているのに、目の奥がずきずきと痛くて意識ははっきりと冴えていた。わたしは繰り返し再生される悲劇にだんだん頭が混乱して、できれば何か鋭利なもので眼球を貫いて奥のほうをかき回したかった。
そのとき、
「開けて」
突然、トントンと、優しく扉を叩く音が現れた。びっくりして瑞樹は顔を上げ、ドアのほうに向けた。綾も同じ反応をした。
「ねえ誰か、開けてよ」
「嘘…」
瑞樹が驚いたのは、こんなときに扉からノックが聞こえるからではなかった。その声がまさしく恵理子の声だったからだ。由美も反応して飛び起きた。「え? ど、どういうこと?」
「開けて」
慌ててドアに駆け寄る。背後から「待って!」と綾のかすれた声が聞こえた。
「開けて」
「恵理子…? 恵理子なのね…?」耳を木の扉に押し当てる。
「なに言ってんのよ、恵理子よ。その恵理子ちゃん」
それは紛れもなく恵理子の声だった。もう、何がなんだかわからくなってきていた。あの悲劇はわたしの幻想にすぎなかったのだろうか。本当にあったことなんだと思えばたしかにそうだという気がしたし、幻想なんだと思えば幻想であるような気がした。幻想であるにしてはあまりにも細部がくっきりとしていたし、本当の出来事にしては凄惨すぎた。恵理子の死も、わたしがしたことも。
「ダメよ! 忘れたの瑞樹!? あいつらは他人の声を真似することが出来るのよ!」
「でも、この声は恵理子ちゃんよ。…ずっと一緒にいたから、わたしわかる」
「何バカ言ってんのよ! 恵理子は私たちの目の前で、あいつらにっ…! くっ、喰われた
んじゃない!」
「もう、馬鹿ね、由美ったら。現に、ドアの向こうにいるじゃない?」
瑞樹はやつれた笑顔を気持ち良さそうに浮かべた。これは絶対に恵理子ちゃんで、わたしは今度こそ恵理子ちゃんを助けてみせる。きっと恵理子ちゃんは喜んでわたしに抱きついてくるだろう。ありがとう、ありがとうと胸に抱かれて泣きむせぶ恵理子の様子を思い浮かべると、瑞樹はにやにやとした笑みが止まらなかった。
「瑞樹? 瑞樹がいるのね? ちょっとこれ開けてくんない?」
「あっ、ごめん恵理子ちゃん。 今、開けてあげる」
瑞樹はカギに手をかけた。
「ダメっ! もう誰も死なせないんだから!」
綾はハルの頭を素早く丁寧に床に降ろしたが、足がしびれてしまってすぐに動き出せなかった。
「目覚ましなさいよ! 瑞樹、頭おかしいよ!」
由美が瑞樹に掴みかかった。瑞樹が由美の手を払いのけようとした拍子にドアノブから引きはがされ、二人は扉の手前に倒れた。
「痛っ」と瑞樹に押しつぶされるかたちで倒れた由美は悲鳴をあげた。
「恵理子…恵理子…!」
ほんの少し、扉が開いていた。おそらく、瑞樹がカギを開けたときに由美が瑞樹を引きはがした拍子で開いたのだろう。「扉が!」と綾が叫び、ドアに向かって走りこんだ。
「恵理子ちゃん!」と瑞樹は必死に叫び、由美の拘束を振りほどいて、綾をがつんとぶん殴った。悲鳴とともに倒れこむ。
瑞樹は扉を思いっきり完全に開けた。血まみれでもいい。どこか欠けていてもいい。とにかくいままでの悪夢は幻想だったと証明してほしい。そしてまた二人一緒に朝を待ちたい。
しかし、そこは暗闇が広がっていて、恵理子の姿はなかった。
「…恵理子?」
瑞樹の声は暗闇の廊下に響き渡り、やがて闇に溶けるように消えた。
「また会えたね」
暗闇の中から声が聞こえた。ひたひたとフローリングの廊下を歩く音がして、素足が闇から現れ、しだいに膝、太ももが見え、恵理子は姿を現した。
「また…会えたね」
「えりっ、…あ、あんった、なんて格好してんのよ…」
「変…かな?」
恵理子はなにも着けていなかった。彼女が身に着けているのは蝶のかたちをしたヘアピンだけだった。控えめに膨れた乳房や、小さな乳首や、へそのくぼみや腰骨の高さ、そこにいた恵理子はまさしく恵理子だった。駆け寄り、恵理子の裸体を抱きしめた。 恵理子の身体から感じる体温が、わたしは嬉しかった。
「…無事でよかった」
頬に温かい涙がつたうのも、嬉しかった。
「瑞樹…」
瑞樹がわたしの名前を呼んでくれている。それも嬉しかった。
恵理子はわたしの頭を撫ぜた。
「ふふっ、よかったね、瑞樹」
わたしは声にならない声で泣きながら、うんうんと頷いた。
由美と綾は体中の血からが抜けたように床にへたりこんでただ茫然と眺めていた。
わたしを抱きしめる恵理子の手に力が入る。
「…恵理子ちゃん?ちょっと苦しいわ」
そう言いつつも、瑞樹は笑顔を浮かべていた。
「苦しい苦しい苦ちっ」
瑞樹は息が詰まった。急な息苦しさとお腹にチクチクとした痛みを感じ、瑞樹は恵理子か
ら体をつき離し、自分のお腹を見た。
「…なに、これ――」
恵理子のお腹から飛び出た汚い毛むくじゃらの鉤爪が、自分の腹を食い破っていた。
ひゅっと二人は青い闇の向こうに消え、扉はバタンッと大きな音を立てて閉じた。その後すぐに瑞樹の断末魔が扉の向こうから聞こえた。
「ああああああああああああ‼ ……っふぐ…えっ、えっ、ごほっ……げほっうぁ、あ、あ、あああああああ――」
由美は狂気的に猛獣のように声をあげ、頭を掻きむしって何度も床に頭を打ちつけた。
綾は呆然としていたまるで海の底を歩いているような奇妙な感覚だった。由美が猛烈に叫んでもうまく聴きとることができなかった。まるで自分の体のまわりにぴったりとしたぶ厚い膜が張ってしまったような感じだった。わたしは誰も守ることが出来ないという言葉だけが膜の内側でぐるぐると泳いでいた。
窓を開けると雨はもうほとんどやんでいた。霧も晴れつつあった。雨上がりの、海のようなにおいが重苦しい腐臭に感じた。そして綾は、瑞樹や恵理子、他の死んでしまった家族のことを思った。彼らの美しい肉体は闇の中に横たわり、その肌からは無数の植物の芽が吹きだし、その緑色の小さな芽はどこかからくる風にかすかにたゆたっていた。どうして彼らは死んでしまったのか。なぜ、わたしたちは死んでいくのだろう。
わたしは窓をそっと閉めて、部屋の中で春を激しく憎んだ。わたしは春がもたらしたものを憎み、それが身体の奥に引き起こす鈍い疼きのようなものを憎んだ。生まれてこの方、これほどまでなにかを強く憎んだのは初めてだった。
由美はもう煩くなくなっていた。なぜ由美はぴくりとも動かずに横たわっていて、由美の手首からは血液がトクトクと流れて黒く乾きはじめているのか、もうなにも考えたくなかった。近くには油壺の破片が落ちていた。
わたしは壁にもたれかかってぼんやりと天井を見つめていたがいつしか視界はぼやけてきて、目をぬぐったら、すでに零れ落ちた涙の滴が、自分の膝の上にのった、乾燥したハルの顔の皮膚を湿らせた。
「ハル…!」
わたしの手が、ハルの首に伸びる。わたしの影が、ハルの顔全体を覆った。わたしはハルの首を絞めた。「う…あ…」と薄く呻き、ハルは苦しんだ。同時にわたしからもまた「はぁっ…んぐ…」と苦しい声がこぼれた。手に力を籠めれば籠めるほど、私とハルの呻きは強くなっていく。わたしはさらに強くハルの首を絞めた。ハルがさらに苦しそうな表情を見せるのが、私を安心させた。できるだけはやく、死なせたい。ハルにこれ以上苦しんでほしくないから。きっとこうしたほうがいい。やがてハルはこと切れた表情になり、私はやっと手の力を緩めた。
「ハル…私は、もう――」
何も見たくない。何も聞きたくない。わたしにはもう何もないのだ。
何も。
私はハルの頭を膝から下し、その横で寝た。窓から光が差し、しだいに部屋の中の月の光の残りかすを追い払い部屋全体が眩しくなっていった。足の方からだんだんゆっくりと感覚がなくなってきて、少しして、ついにわたしは干からびて灰になった。