第二話
四時三十分。
綾は時計から目を外し、四畳半の狭い部屋を見渡した。由美は横向きに壁にもたれ掛りながら体育座りをしている。顔は両膝の間に隠れていて、表情はうかがえない。瑞樹は無表情にオイル・ランタンの火を見つめていた。瞳に映った橙色のせいで、目が希望に溢れているように見える。そんなはずないのに。目を閉じると暗闇の中でちらちらと微小な図形が舞い、耳には時計の音がメトロノームのように響いた。それからまどろんできて、温かい泥の中に入りかけたとき、
「けほっ…!」
ハルが咳と共に小さく吐血した。血が綾のデニム地のジーパンにかかるが、綾は気にしない。むしろ乾いてひび割れていた淡桃色の唇が朱く潤う様子が幻想的だった。唇からはみ出た血を綾は指で拭うまで綾はずっと唇を眺め、それが自分の心の中に引き起こすこの感情の震えはいったい何なのだろうと考え続けていた。しかしそれが何であるのかはとうとうわからなかった。
思考がゆるんだとき、ハルが身体を小さく震えているのが膝に伝わった。半分だけ開いた瞼の隙間からのぞく目を見ると、ハルはもうずぐ死ぬのだということが理解できた。彼女の体には生命力というものが殆ど見受けられなかった。
綾はポニーテールを支えていたリボンの髪結いをほどいた。姉のおさがりだが、今となっては形見だ。艶やかな漆黒の髪が広がった。瑞樹が驚いて綾の方を見た。次に上から順にシャツのボタンを外し始めた。キャミソールの、豊かな胸のふくらみの下半分の辺りまで露出した。
「…綾、いいよ」
綾は脱ぎかけた状態で、手を止めた。
「わたし、今日寒かったから、この下もう一枚シャツ着てんの」
瑞樹は手早くシャツの上に着ていた灰色のパーカーを脱ぎ、ハルの生気のない顔を見てから、腰のあたりから肩までそっとかけた。このパーカーの一部にも水玉模様のように血が付いていて、それはもうカピカピに乾いて黒ずんでいる。ハルがますます死んだようになってしまったなと自嘲ぎみにくすりと笑った。
「きっと逃げるときについたんだろうけど、誰の血だろうね」
と瑞樹は綾に言った。綾にもわからなかった。
「さぁ」
と答えた。でもきっと家族の誰かの血だろうと二人は思っていて、お互いにお互いがそう思っていたこともわかっていた。
瑞樹がハルから離れたとき、綾はすっとうしろに身を引いた。それからシャツを脱ぐあいだ肩が少し震えていたのに瑞樹は気づいて、それ(・・)を察したけれど、何も言わなかった。綾は長い髪をまとめてお団子にして、リボンは畳んでジーパンのポケットにしまった。
「由美、着る?」
由美は反応しない。綾が話しかけても返事をしようとするそぶりすら見せなかった。
綾は溜め息をついた。結局、綾も脱いだシャツをパーカーに重ねてハルにかけた。
「…綾ってさ」
「んー、なに?」
瑞樹は綾の胸を凝視している。
「…結構、大きいんだね」
聞いて、綾の目は皿のようになった。パチクリと瞬きをして、遅れてくすくすと笑い出した。
「こんな時に何言ってんのよ、瑞樹ってば」
「…ごめん」
「怒ってない。ちょっとビックリしただけ。瑞樹らしくないから」
瑞樹は「そんなことないけど」と濁り、口をとがらせた。
「お母さんは巨乳じゃん? でも他のみんなは小さいよね。なんでだろ」
「うーん」
と綾は腕を組んだが、すぐに返答は瑞樹に返ってきた。綾のニンマリとした表情に瑞樹は期待させられた。
「…お父さんの、男の遺伝じゃない?」
少し遅れて、言葉の意味を理解して、瑞樹は吹きだした。「きっとそれだね」
それから二人は会話を続けた。狭い部屋にささやかな笑い声がいくつも響いた。
「皆が死んじゃって、…気が動転してんのかも」
膝立ちに、ランタンの給油口に追加の油を注ぐ瑞樹に綾は頷いた。部屋の隅に空の油壺を慎重に音をたてないように置いた。綾の隣に座る前にハルの頭を軽く撫ぜた。綾がふいに瑞樹の顔を覗きこんで目が合うと、、瑞樹はニコッと微笑んだ。
「瑞樹、恵理子といつも一緒にいたもんね」
「そうだっけ」
「そうよ、双子みたいってお母さんも言ってたわ」
「うん」
瑞樹はランプをただじいっと見つめていて、無表情のままそれからの言葉を紡いだ。
「…わたし、あの子、すごく好きだった。本当に、好きだったの。喧嘩しても次の日の朝は一緒に起きて、朝のアニメを観て、たくさん遊んで、たくさん勉強したの。ずっと一緒に。でも、どうしてだろう。恵理子ちゃんをそれほど必死に止めなかったわ。もちろんこのままだとみんな一緒に干からびるかもしれなかったし、恵理子ちゃんの言ってることは正しいと思うの。でもね、恵理子ちゃんを止めるべきだったの。本当に恵理子ちゃんのことを思うなら。わたしは恵理子ちゃんさえ助かればいい、自分なんてどうでもいいと思って、脚が遅い恵理子ちゃんが最初に逃げ出したときでさえ、わたしは嬉しかったの。でもね、わたしは恵理子ちゃんにかわって『わたしが水を汲みに行く』なんて言い出さなかったでしょ? きっとわたしは恵理子ちゃんが大切、恵理子ちゃんが大好き、っていう思いをもつことに焦がれていただけで、本当は恵理子ちゃんを大切にしていたわけじゃなかったんじゃないかな。だからきっと、恵理子ちゃんが殺されたとき、わたしは恵理子ちゃんじゃなくて、扉の方に向かって、結局閉めてしまったのよ」
瑞樹はそれからうまく言葉が出なくて、体を丸めて閉じた両膝に顔をうずめた。瑞樹のこけたか細い肩幅が、シャツ襟に付いた誰かの血液が、どうしてだろう、恵理子が死んだのを目の当たりにしたときより、恵理子の死をくっきりと克明に表現していた。綾は哀しくなった。瑞樹の顔や服のしわのくぼみにできた影が刺青のように、濃いやけどのあとのように、とにかく綾はどうしようもなく哀しくなって、瑞樹をどうしようもなく可哀そうに思った。哀しみに耐えられなくなって、壊れやすいガラス細工を扱うように瑞樹の肩を抱いて自分に引き寄せた。
「やめて!やめてよ‼」
しかし突然、瑞樹は叫び、綾の手を払いのけた。予想だにしない行動に綾は驚いた。由美も顔を上げた。
「みず…」
「触んないで!」
伸ばした手を、綾は再び裏切られた。瑞樹は夜叉のような形相で綾に迫った。
「あなたおかしいんじゃないの!?」
由美はこの事態をただ呆然と眺めている。
綾はまた瑞樹の顔に手を伸ばす。
「触んないで! どっかいってぇ!」
瑞樹はそれを払いのけた。
「落ち着いて!」
綾は掴みかかり、瑞樹はさらに拒んだ。「んぃっ、いい…!」と声にならない悲鳴をあげながら、瑞樹は足をばたつかせ、綾を押し戻すたびに何度も綾の顔をひっかいた。
「触らないでぇあああああぁぁ‼」
「瑞樹!瑞樹!」
「触らないで! どっかいってぇあああああぁぁ!」
今度こそ綾は、瑞樹の両腕を掴み、押し倒した。獣のような咆哮に思わず顔をそらした。
「あなたがぁ、ハルを看ている間にぃっ! 恵理子はあいつらに連れていかれてしまったんだよぉ‼」
「分かってる! でも今は落ち着いてって言ってんでしょ‼」
「何が分がんだよっ!あんだなんかにっ!…ハルを守れたあんだの存在が、私を苦しめてるってぇ、どぉ、どうしてわがんないの…‼ どおじでっ…!」
綾は何か言いかえそうとしたが、息が切れて言葉がうまく出てこなかった。
部屋の隅で、瑞樹は冬眠したリスのように丸まって、ずっしりと重い苦しい空気をまとっていた。
「…わたし、瑞樹と恵理子がそこまで仲良かったなんて、知らなかった」
由美はランタンの火に両手をかざして手を温めながら言った。春先で暖かい日が続いていたが、あいにく今日は雨のせいで気温が下がっていた。それに加え、このときの由美はとりあえず何かしていないと落ち着かなかった。ハルは寝てるし、瑞樹はもうよくわからない。どうしてあげればいいのかわからない。沈黙に耐えかねて綾を頼った。
それから由美はぽつりぽつりと言葉を選びながらいろいろなことを綾に話しかけた。綾のこと、自分のこと、他の姉妹のこと。会話が途切れたら、その都度なにか別の話をけしかけた。これ以外にすることはなかったし、ついでに落ち込んでいる綾を元気づけたかった。しかし、やがて由美の話のタネは尽きてしまった。綾から新しい話が飛び出ることはなく、また狭い空間が静寂に包まれていった。