75――森の中で猫少女
決して軽い気持ちだった訳ではない。
これは人類の為だ。不意に現れ、すれ違いざまに命を奪うような殺人生物に怯える暮らしを無くす為の戦いだと。俺にとっては――山茶花とこの世界で生きる為の。
ここに来た誰もが皆、そんな強い覚悟を抱いたはずだった。
分かっていた事だが、そんなものはなんの意味もない脳の電気信号でしかない。最初から最後まで必要なのは強さだけ。それだけが、生き残る為に不可欠なものだった。
「山茶花は魔力の壁で防御! ダウニーはネクロマンスで動きを止めろ!」
四メートルほどはある巨体、鎧を着た、まるで霊魂のような不安定さのある牛頭を持った怪物が、倒れくる巨大なクレーン車の如くメイスを振り下ろした。
山茶花の魔術が盾から展開する魔力の壁は物理的なものですら受け止める鉄壁。だが、撫でられただけでも肉塊と化す鬼神の一撃は防御による衝撃を周囲へ拡散する。熱帯の木々は薙ぎ倒され地は抉れ上空の雲すら吹き飛ばした。
牛頭が咆哮を迸る。
「ネクロマンス――”Cheiristeite”!!」
だが魔力に触れた。
ダウニーのネクロマンスは傷付けたモノを自身の意のままに一時的に操れる。どんなに小さな傷でもいい。山茶花の魔力を通して傷をつけた。
故に巨体の動きは止まる。
後は――
「マルメロ!!」
「了解っ!! 特大の――”Kaioo”!!」
あの空間を焦げ付かせるような灼熱の炎がゼレーネを包み込む。
相手は何かしら理不尽要素を必ず持っているゼレーネだ。これで死ぬとは思えない。
「鎧は蒸発したけどまだ中身が死んでないよ!?」
「ダウニー頼んだ!」
「ネクロマンス――”Kathariste”!」
魔法陣が巨大な牛人の形をした霊魂を包み込み浄化していく。
これでようやく倒せたはずだ。
肩をなでおろす。体の力を抜くと、片頭痛が左脳を刺激した。
「いやー楽勝だったね!」
「何言ってんだよ割とヤバかったぞ。やっぱりダウニーがいてよかったよ、物理攻撃ができる幽霊とか反則だろ……」
「でもホーズキくんの指示あっての事だよ。ね、二人とも」
「はい。おにーちゃん以前とは見違えるほどはっきりと物を言うようになりました」
「精神的にも頼りになるの」
こうして俺よりも年下の女の子が、俺を気遣って俺の存在意義を与えてくれている。これに答え続けなければならない。失敗してもカバーしてくれると高を括ってはいけない。まず完璧に、失敗しないように考えなくては。失敗した時の事はそれから考えればいい。
「ありがとな。そう言ってもらえるだけで俺も安心して指示が出せる。さ、とりあえず先に進むか。まだちらほら気配感じるしな」
「〈イルウィカウ・ヨロトル〉の能力はどうですか?」
イルウィカウ・ヨロトルの能力はそのまま、泥のような材質の怪物を生み出し使役するものだ。その怪物が見聞きしたものを俺も感じる事ができる。
街中や船ではできなかったので、俺達だけになった後に少し試しに使ってみたが……
「俺が最低限戦ったりしながら怪物動かせるのは一体までだな、二体以上になると自動で動かさないと脳の処理が追い付かない。今は試しに、一番近いソテツさんとこの偵察に行かせてる」
「状況はどうですか?」
「まずまず順調っぽいな。流石は志願しただけはある。もう二体倒したらしい」
「わたし達も負けてられないよ! どんどん進もう!」
戦いの衝撃で倒れた木々の間を進む。すぐに元の樹海の獣道に戻り、足元が不安定になっていく。
ゼレーネも無論危険だが、体力を保つのも一苦労だ。立っているだけでも暑さで体力が奪われていく。マルメロの魔術で冷やしてもらっているので今は大丈夫だが、もしなんらかのアクシデントで魔術が使えないとなると蒸し焼きも馬鹿にならない。
「あ! 猫がいるよ!」
「は? おいマルメロ何言ってんだろこんな所に猫がいるわけ……ホントだ」
確かに小さく可愛らしい黒猫が草木の間からこちらを見ている。毛づくろいしながら。
だが何かおかしい。ああそうだ、ここはゼレーネの巣窟。普通の動物がいる事はこの際置いといて、ゼレーネではない生物が生きているとは思えない。単にゼレーネが人間しか襲わない性質なら話は別だが、そもそもこんな熱帯で猫が生活できるのか? 猫の専門家ではないのでなんとも言えないが、どちらにせよ嫌な予感しかしない。
「おい、近づかない方がいいって」
「いやでもほらどこからどう見ても……うーん? なんか尻尾別れてない?」
「猫又ですね。妖怪の」
「突然変異で普通の猫にも稀にあるらしいの」
「いやいやいや、どう見てもベースは家猫だろこれ。突然変異で尻尾別れてて熱帯に対応できる家猫とかどんな超生物だよ。絶対ゼレーネだろ」
とは言ったものの、
「これ、殺すの?」
マルメロの素朴な疑問に答える術がない。
「今のところ毛づくろいしてるだけだしな……いやでもこうしてる間に呪いとかかけてたりするかもしれねぇぞ」
「見た目で惑わす系? ま、どっちにしろ殺すしかないよね」
以外とリアリストなマルメロさん。手をかざして魔法陣を展開する。
魔術を発動しようとした――が、猫又が小さくにゃあと鳴いたのを聞いて動きが止まる。まあ気持ちは分かる。だがこのタイミングは明らかにあざとい。惑わす気まんまんだ。
「マルメロに無理なら俺が――やっべ! 山茶花!」
「ダメです間に合わない――!?」
こっちに向かって軽いステップを踏みながら突進してくる猫又。
山茶花が防御壁を展開しようとするも小さい体は思いの外素早くマルメロの肩に着地し――首筋に噛み付いた。
一拍遅れて、ダウニーの骸骨が持つ剣が猫又を貫いた。死体は塵となって消える。
「大丈夫かマルメロ!? なんともないか!?」
「えぇ……? ちょっと痛かったけど別に何も――――――ッ!? ぁ……ぇ?」
「どうした!?」
突然涙を流し始めたマルメロ。眼だけじゃない、鼻や口からも栓が壊れた蛇口のように液体が止まらない。全身を小刻みに震わせながら大量の汗をかき始め失禁している。
「ぁえっ……えっぅ、ぁっ……」
「動かしちゃダメなの! 原因は分からないけど、恐らく毒……いや、もっと人体に密接な……神経伝達物質の過剰な分泌の可能性が高いの」
「つまりどうすればいいんだ?」
「今のマルメロさんの状態は恐らく、アドレナリンのような物質を流し込まれた。本当に神経伝達物質を操れるのなら、アセチルコリンのような落ち着かせる伝達物質も生成できるはずなの」
「同じやつに噛ませ……ても、話が通じないと意味がない。そうか!」
「そうなの! さっきのゼレーネのゼレノイドにやってもらえばいいの!」
「でも、そう都合よくいるのか? ここは孤島だぞ? 俺がなるのが早いけど、あんな小さいのをもう一回見つけるのは難しいぞ」
「聞いた事があるの。ゼレノイドになってしまった人々が集まる村のようなものが、このステロンにあると」
確かにこの孤島、この樹海の中、そして跋扈しているゼレーネのお陰でそうそう人間に見つかる事もないだろう。ゼレノイドが隠れるのなら最適だ。
つまりこの島のどこかからその村を探してさっきのゼレーネのゼレノイドを……それまでマルメロが保つかどうかの戦いだ。
「行こう! マルメロは俺がおぶるから」
泥の怪物を使えば捜索範囲を広げられる。無理をしてでも二体目を使うしかない。そう思って、マルメロをおぶって立ち上がる。
ふと、首筋に違和感を覚えた。
「っ! おにーちゃん!」
「え? なっ!? なんだ!?」
首に巻き付いた白い粘ついた糸。
見覚えがある。ヴァイタルの一人、クロッカスが出していたもの。つまりその元になったゼレーネの!? 糸に引っ張られ森の中を引き摺られる。草木で増える生傷に顔をしかめる。マルメロを落とさないようバランスを取りながら糸の先を見た。
巨大な蜘蛛。
口元に大きなハサミを持ったクリーチャーがこちらを睨んだ。
「お目当てはマルメロか。残念だがお前に用はねぇ……!」
不快な感覚が全身に広がっていく。
俺の体が浅黒く染まっていく。
地面の中から這い出るは顔のない巨大な狼。イルウィカウ・ヨロトルの力とリンファーの力で生み出した泥の狼が巨大な蜘蛛に噛み付いた。どれだけ口のハサミで切り裂かれようと、アズダハの再生能力で死なないどころか増え続ける。
大量の泥の狼に喰い付かれたゼレーネは耳を刺す悲鳴を上げながら崩れていく。
我ながら恐ろしい力だと思う。もっと研ぎ澄ませば、こんな奴を無限に生み出し続けられる。そりゃ世界なんて簡単に滅ぼせるだろうさ。
もし暴走でもしたら大変な事になるのでダウニーには止められていたが今は仕方がない。
「かなり遠くまで来ちまったな……はぐれたか」
今はマルメロを助ける事が最優先だ。
肌の色が元に戻ったのを確認して歩きだす。とは言え、どこに向かっているかは全く分からない。さっきの力を使ったせいでソテツさんのとこにやってた泥の怪物が消えたので合流もできない。とりあえず、俺が歩く方向とは真逆に泥の怪物を歩かせておけばいいか。
「ごめっ、ぅごめん……ホーズキ、くん……」
「今は喋んな。それに、気にしなくていい。俺はもう人殺しにはなりたくないだけだ」
きっと無理だろう。それでも俺は、俺の目の前で死ぬ人間を無くしたい。これから未来永劫、俺が関わった人間が死ぬような目には遭いたくない。
マルメロはそれ以上何も言わない。気を失わないように声をかけ続けながら、さっきのゼレーネも探しながら森の中を歩く。
耳を澄ませていると、鳥の鳴き声に混ざって、さっきから猫っぽい鳴き声が聞こえるような気がする。さっきのゼレーネとは違い声色だ。ゼレーネに個体差なんてあるのだろうか? とかく、泥の怪物を呼び戻して声のする方角を確かめる。こんな森の中ではどこからなんの音がしているのかなんて簡単には分からない。
「こっちか……」
どれくらい歩いたか。森は全く姿を変えない。だが確かに、猫の鳴き声は近付いていっている。
あともう少し――
「にゃあ」
「にゃあ?」
「にゃ」
にゃ?
「会いたかった、にゃ」
「猫娘……まさか、この子が!?」
どんぴしゃだ!
その容姿は正に猫娘。ちゃんと服を着た、猫耳を生やしたショートヘアーの少女が、にこりとこちらに笑いかける。
あまりの都合のいいタイミングに動悸が高鳴るが深呼吸。落ち着いてコミュニケーションをとる。雰囲気は至って普通だが、ローチュの前例がある。
「出会っていきなりだけど頼みがあるんだ。この子を助けられないか。多分、キミの基になったゼレーネに咬まれたんだ」
「にゃ。治せる、にゃ」
「マジか!? なら頼む!」
「分かったにゃ」
猫娘がマルメロの首筋に噛み付いた。すると、急激な脱水で苦痛の表情だったマルメロがみるみるうちに落ち着いて行く。
「すぐにこれを飲ませる、にゃ」
「分かった」
渡された水筒の蓋を開けるとスポーツドリンクに似た香りがした。
マルメロの口を開けさせ、流し込むと飲み始めた。
「これで落ち着くから暫く安静にしてる、にゃ」
「ありがとな……見ず知らずの俺に、いや待て、さっき会いたかったって言ったけどなんだ?」
猫耳をぴこぴこ動かしながら毛づくろいをする動作でにゃあと鳴いた。
誤魔化したなこいつ。
このパターンは分かっている。バルサミナ達と同じだ。きっと、俺が元の世界に帰る為の指標に違いない。だからここはグイグイいかなくては。
「俺達知り合いなのか?」
「厳密にはわたしの方から一方的に、にゃ」
「会いたかった、てのは?」
「なんかそんな感じがしただけ、にゃ」
うーむ、とってつけたような語尾が気になるな……ええいそんな事はどうでもいい。
しかしながら、猫娘の方から一方的に知り合い、という言葉が引っかかる。どこかで俺を見た……いや、この島にいるゼレノイドなんだからそれはないか。だとしたら、魔術や何かのゼレノイドの力で遠くから俺を視たとか? だとしたら何故?
「考えているようなことじゃないと思う、にゃ」
ナチュラルに心を読んでくるのも同じだな。
まあ、今考えても分からなさそうだから後にするか。マルメロは助かったし、早く山茶花達と合流しないといけない。
この猫娘は……
「名前訊いていいか?」
「コロナリア、にゃ」
「分かった。じゃあコロナリア、訊きたい事がある。この島にゼレノイドはどれくらいいる」
「いっぱい、にゃ」
「具体的には?」
「大人が十数人。子どもが百人弱、にゃ」
だとしたら、俺はもうギルドの命令には従えない。
ダウニーが言っていたが、やはりこの島にはゼレノイドのコミュニティがある。厄介なゼレノイドを倒してから、ここに一気に攻め込む算段だが、そうなるときっとそのゼレノイド達も殺される。そんなことには絶対にさせない。そもそも、まずはピアニーをなんとかしなければ。
「案内してくれるか、そこに」
「分かった、にゃ」
「ありがとな」
寝息を立てて眠っているマルメロを再びおぶって、歩きだしたコロナリアについて行――こうとした。
「ホーズキくん。よかった、無事だったんだね」
最悪のタイミングで現れたのは、ソテツさんだった。




