59――ドッペルミラー
鉛のような瞼を持ち上げると、薄いカーテンの隙間から漏れ出る朝日に目をやられた。
あまりの眩しさに飛び起きる。
軽く痛みを訴えるこめかみを抑えながら洗面台に向かい顔を洗う。氷のような冷たさが頭に染みて思わず声を上げる。二、三度同じように顔を洗って、エリシオニア制の近代的な冷蔵庫から取り出した、細長いビンに入った水っぽい何かを一気に飲み干した。味はないがその冷たさがまた体に染み渡る。俺のいた世界で言う天然水みたいなものだろう。
無理矢理思考をこじ開けて目を覚まさせた俺は、ふと胸の辺りを確認した。
先の夢のせいなのか、酷く心が痛みを感じているように思える。あの夢の内容は俺にとっては意味不明なもののはずなのに何故か感傷的になっている。今までだってあの夢はおかしかった。ずっと墓を磨き続ける少女、そして最後に殺される俺。
あの少女はいったい、俺に何を伝えたかったのだろうか?
自分を”私達”だと称した。つまりあの場所にはあの少女以外もいる……? だが、あのだだっ広い空間には俺とあの少女以外には誰もいなかったし、誰かが隠れていられるスペースなんて、それこそ小さい墓標しかしない。
考えすぎからか、罅が入るような痛みがズキリと頭を襲う。
はぁ……と肩の力を抜きカーテンを開けた。既に慣れた目は朝の陽ざしを受け入れた。空は青い。いつものように変わらず蒼い。
「山茶花……」
毎回同じパターンなら、先の夢の後には何かが起きる。
マルメロのアレの場合もあるので油断はできないが、とにかく何かが起きるのは確実だ。この時間ならバルサミナは既に起きて山籠もりにでも行っているだろうから、まずは山茶花からだ。マルメロの部屋に行くのは山茶花を味方につけてからの方がいい。
軽く髪を整えて部屋を出た。
絨毯の上を歩いて山茶花の部屋へ向かう。今回は俺と山茶花の部屋はそう離れていない。他の宿泊者の都合もあるので、全員が固まってとはいかなかったが、できるだけ近くの部屋にはしてもらっている。
――と、山茶花が前から歩いてきた。
どうやら既に起きていたらしい。
「あ、おにーちゃん。おはようございます。今から起こしに行こうと思ってました」
「おはよう。今さっき起きたんだよ」
「どうしました? 顔色悪いです」
「あー……まあ、いつものアレだよ。何も起きてないよな?」
俺の言葉に山茶花は察したようで、今のところは……と力なく答えた。
マルメロとダウニー、ルピナスはもう朝食を食べに行っているようなので、その三人は問題ない。
「バルサミナは……どうせ山籠もり、もとい森籠りでもしてんだろうな」
「何故この大陸は平地ばかりなのか! って怒りながら森に入っていきました」
「ホント、アイツは山に登るの好きだよな。鍛錬だとかなんとか言ってたけど」
「おにーちゃんは行かなくていいんですか?」
「確かに……バルサミナの奴なんか知らんけど俺を誘わないんだよな。本当は別のことやってるんじゃねぇか?」
とにかく、これで全員どうにもなっていないことが分かったからいいだろう。
あとはシクラだが……
「わたしならここに……きゃっ!?」
半透明のシクラが陽炎のように浮かび上がったかと思うと、空中でつまずいて顔から床にダイブした。
起こしてやると目尻に涙を浮かべながらタコみたいに真っ赤になっている。何もない場所でつまずく、というのはよくある話だが、本当に何もない空中でつまずいたのだからそりゃ恥ずかしい。つーかどうやってつまずくんだ。
「すいません……空中で半実体を持ったのが間違いでした……」
「よしよし、怪我はしてないな。まあこれで、本当に全員無事なのが分かったし、俺らも朝ごはん食べに行くか」
「はい! おにーちゃん!」
山茶花とシクラを連れて一階のエントランスホールに降りる。
そこでとても強い視線を浴びているような気がする。いったいなんだと周囲をチラ見すると、他の宿泊客だったり、職員だったりが俺達をジロジロ見ていやがる。
いやー人気者は辛いですねーというような目線でもない。
どうやら異世界であっても幼女二人を連れていると奇異の目で見られるようだ。実に不名誉極まりないが変に弁明すると最悪捕まりそうなので無視して食堂へ。
シックでモダンな木の扉をくぐった先には、これまた落ち着いた色合いの食堂が広がっていた。食堂――と呼ぶには憚られる、どちらかと言えば路地裏の喫茶店のような物静けさ。食事をとっている人々もどこか優雅だった。ほとんどがギルドからの派遣だろうから、その服装はみな野暮ったいものが多かったが、この部屋の中では上書きされてしまうのだろう。
ざっと見渡すと、隅っこの辺りに何かよく分からないものが見えた。
俺の脳がソレを理解するのを一瞬だけ拒否したようだ。
山茶花もその異常さに気が付いたらしく「えぇ……」と思わず困惑の声を漏らしている。
「なあ、俺達だけ外で食べないか?」
「いや……流石にそれは……」
山茶花は優しいな。
俺は嫌だ。
この清閑な雰囲気の中、机を四つくらいくっつけてその全てに皿を敷き詰めて、その皿全てに大量の料理を積載させたダウニーと一緒に食べるのは。
ルピナスはその隣で、ダウニーが運んできたのであろう料理を横合いから我が物顔でひょいひょい横取りしている。マルメロはそんな二人をオロオロした様子で眺めながら机の端で細々と食べていた。マルメロがあんな風に圧されているのは非常に珍しい。ライオンの檻に一緒に入れられたリスみたいだ。
「行きましょうおにーちゃん、お腹空きました」
「くっ……ルピナスのことだからどうせ俺達には気が付いてんだろうなぁ……」
観念した俺達はダウニー達のいる席へ向かった。
所狭しと並べられた料理達の『いい匂い』が混ざり合った混沌に声をかける。
「よお、お早い朝食だな」
「あ、ホーズキ君。おはようなの。お先に食べてるの」
「ホーズキ君! よかったぁ……!」
俺を見たマルメロが飼い主に会えた迷子の犬みたいに目をキラキラさせながら抱き着いてくる。
こればかりは同情するぜ……仕方がないので頭を撫でてやる。だがここが人前で相手がマルメロであったことを思い出し我に返る。
「遂に……遂にホーズキ君があたしを受け入れ――」
「はいはい黙って食べような……で、ダウニーよ。お前は何をやってるんだ」
「ん? 朝ごはんなの」
「いや、それは分かるんだがせっかくフレンチな料理なんだしゆっくり食べても……」
そう言いかけて、ダウニーがバン! とテーブルを叩いて立ち上がった。
周囲の視線が俺達のいるテーブルに集められる。突然の行動にあたふたするしかない。あの温厚なダウニーがわずかながらだが表情に怒りの色を見せていたのだから。
「食の自由を奪うことは嫌いなの。食事は即ち究極的には生きている中で最大の孤独の時間。自分という名の器を満たす神聖な時間なの」
「つまりあれじゃ、食べてる時に食べ方とかを横からとやかく言われるとイラッとくるじゃろ? そういうことじゃ」
「お、おう……すまないダウニー。確かにそうだな、俺が間違ってた」
「分かったならいいの」
ダウニーはいつものフレッシュな笑顔に戻ると席に着いて再び、黙々と食べ始めた。
むぅ……まあ確かに、俺も食事中になんやかんや言われると嫌だな、うん。
それにしても、改めて見ると異常な食べっぷりだ。まるで息をするのと同じように食べている。胃袋がブラックホールも比喩にならないほどだ。スプーンの上からスープが消えたかと思えば次の瞬間にはフォークに刺さったステーキが消えている。全ての食べる動作が同時に行われているほどに早い。
「はむっ……はぅっ……」
皿の上のものを全部食べ終えると骸骨に手伝ってもらいながら次の料理をよそいに行く。その繰り替えし。
ふと、ルピナスがダウニーを気にしながら口を開いた。死ぬほど眠そうな目をしている。
「食べてないと落ち着かんのじゃと。トードとやら……ダウニーがずっと追っている友人との思い出が食べることばかりらしくてな、それを忘れない為にらしいのじゃがのう。最初は我もよく食べるな―程度にしか思わんかったが、ここまでくると……なんというか、心配になる」
過去を忘れない為の行為――控えめに食べていたマルメロの手が止まる。
自分と重ねたのだろうか。
助けてくれた上で裏切った、恩を仇で返してしまったことに対する贖いを求め無茶をした。その結果、下手をしたら死ぬような怪我を負い……俺も、そう考えると人のことは言えないだろう。
俺は、今まで幸せに生きてきたのに、俺以外の人間が不幸を被ることが許せないと思った。ある種強迫観念的な感情だ。
「あぁすまんすまん! 辛気臭い空気にしたい訳じゃなかったのじゃ。謝るからそんな顔するでない。ほれ、ダウニーからちょろまかしたステーキ一片ずつやるから」
白い皿の上に載せられる動物の肉。
家畜を殺し得た肉を加工した、人の為に作られた食物。人の為に産まれ人の為に生き人のために死んだこの動物はいったい何を考えて……はぁ、ダメだダメだ。頭ん中がおかしくなる。最近こういうのばっかりだほんと。
大量の皿を、リュックサックから這い出す複数の骸骨の腕に持たせながらダウニーが席に戻る。
「どうしたの? 元気なさそうなの。そんな時はいっぱい食べるのがいいの」
「ああ……そうだな。よし、山茶花マルメロ! 俺達も食うぞ!」
「え、あ、はい!」
「よし来た! そーせーじ! ホーズキくんのかわつきそーせーじぶへっ!?」
TPOを弁えないマルメロにはおしおきの頭ぐりぐりを。
「時と場所を考えろ! ただの迷惑な奴等になるじゃねぇか!」
実に心外な事を口走ったマルメロには後でじっくり教えてやらねば……え? 何を教えるのかって? それはまあ色々……ってそんなことはどうでもいいんだよ!
今は食うことが先決だ!
さて、ここのホテルの朝食はバイキング形式となっているが、言うまでもなくラインナップは軽めのものが多い。肉料理にしても生ハムサラダみたいなやつとかベーコンレタスみたいなやつが中心で、がっつり系はない。なのでダウニーも主にパンを食べているようだ。
「トースター置いてますね。これで焼けって事でしょうか?」
パンが積まれたバスケットの隣にコンベアになっているオーブンが置いてある。
どうやらこれで既に焼かれたパンを軽く焼いて、焼き立てみたいな状態にするようだ。試しにやってみると、外側だけを軽く焼くのでサクッとしてすごくおいしい。
「あ、焦げちゃった」
「手前の方に置きすぎるとダメみたいですね。もう少し奥から入れないと」
「なるほど……」
山茶花とマルメロがオーブンで楽しそうにしてる間に、おかずでもさが――
「ホーズキくんもしかしてオカズ探してる?」
「はいはいその話は後で人がいないところでなー」
「え? 見抜きとかはべぇ!?」
「いい加減にしろよ……」
頭をぐりぐりされて苦しむマルメロ。
そろそろされすぎて両方のこめかみがへこんできた頃だろう。
はぁ……さて、重すぎずないい感じのタンパク質っぽいものはっと、このベーコンポテサラみたいなやつでいいか。
うーむ、それにしても料理の感じが俺のいた世界とほぼ同じだ。
パンなんて全く同じ。つまりこの世界にも酵母菌が存在するのか? まあそりゃしてるだろうな酒があるんだし。
改めて考えてみると、言語も日本語で食文化も似通っている。エリシオニアにしてみれば二十二世紀の未来都市みたいな、俺のいた世界をそのまま発展させたような場所だ。少し古いテレビは置いてるし、無線もある。
人類が歴史を辿る中で必ず発見するものだと言われれば、そんな途方もない話否定する気にもならないが、どうも気になって仕方がない。
以前この世界に来た異世界人が情報を持ち込んだにしても、類似点が多すぎる。それこそ何度も来ていなければおかしだろう。こんなに広い世界なんだ。”極稀に”異世界から人が来るレベルでここまで同じになるだろうか?
「おにーちゃんそんなに食べるんですか!?」
「え? あ、すまんボーっとしてた」
気が付くと皿の上には山のようなポテサラが。
まあ、食おうと思えば食えるしいいか。
それよりも、山茶花の心配そうな顔だ。
「おにーちゃん、やっぱり昨日のこと……」
「心配すんな。昨日のことじゃない。俺達と同じようにこの世界に来た人が他にもいるなら、会いたいと思ってさ」
「あぁ、そう言えば時々あるってマルメロさん言ってましたね。ね、マルメロさん」
「へ? え、あ、あーっと、そんなこと言ってたっけかなー? はははー!」
パンが乗った皿を片手に笑うマルメロ。
口角が上がっていない。いつものような本物の笑顔ではない。
何か誤魔化してるのか……?
「もうマルメロさん。そんなに前の話じゃないですよ」
「で、でも異世界から来た事例なんて、あたしが知ってる中で一番新しいのでも、もう百年以上も前の話だし、会うなんて無理無理」
「そうですか……お、おにーちゃん?」
誤魔化している、いや、嘘を吐いている……?
だとしたら何の為に?
――マルメロもバルサミナも、みんなどこか昨日から様子がおかしい。
ルピナスも時折、バルサミナと二人で俺に隠れて何かをやっている。
ああくそ、ダメだ。こんな風に考えてたらまたおかしくなっちまうだろ! 落ち着けよ!!
「すまん。まだちょっと寝ぼけてるみたいだ。皿運んどいてくれないか? 顔洗ってくる」
「は、はい。それはいいですけど……」
「ホーズキくん……」
皿は山茶花に預けて近くにあった手洗い場へ向かう。
蛇口を捻り水を出す。
蛇口……? なんで蛇口があるんだ? これも同じだ。洗面台も、大理石も、石鹸も、トイレも同じ。同じ同じ同じ――!?
水の色も流れる音も跳ねる水滴の形も映る俺の顔も同じだ!!
何故だ!?
どうしてこんなに一緒なんだ!?
別の世界のはずなのにどうして!!
ふと、鏡を見た。
俺がいた。
俺の顔がニタリと嗤い、俺を見た。
「あっ、わあああああああ!?」
不安定になっていた俺の思考は、いつもなら軽く流せるようなホラーにも弱くなっていた。
鏡に映った自分の姿が、俺の意思とは違う行動をした。そんなのは見間違いか妄想だ。それか、そういうゼレーネがいただけの話だ。
ああ、落ち着けよ俺。深呼吸だ深呼吸。大丈夫だ。こんな事もあるんだ。何もおかしな事じゃない。リコリスは二億年以上生きている。その幾星霜の間に、何人も俺と同じように異世界から来た人間がいてもおかしくない。その度に文化を伝えていったんだ。
一つの生物が滅び切り替わるほどの時間が経ったんだ。
そう考えると普通な事だろう?
ホモサピエンスが産まれて今の人間になった時間よりも長い時間をかけたんだ。何もおかしくはない。
「どうしました!? 悲鳴が聞こえましたが!」
優しそうな男性がトイレに駆け込んできた。
鏡に映った自分に驚いたなんて言えないので、ゴキブリ的な虫がいたとでも適当に言っておこうと考えた刹那――
「きゃあああああ――!?」
その思考をかき消す悲鳴が木霊した。




