56――傷愛
目を覚ます。
既に、自分が置かれている状況は分かっている。
あの時、バイオレットを庇いローチュに切り裂かれた。意識を失いかけていた俺をローチュはどこかへと運んだのだろう。その後の記憶はないが、恐らくローチュに軟禁されている。
椅子に脚も胴も手も首も顔も拘束された状態で、できうる限り周囲を観察する。
俺のいる部屋にある明かりは汚れて光が薄くなった頼りない電球一つ。薄っすらとなら見えるが、ほとんどは俺のすぐ周りしか見えない。天井の様子からすると、この部屋の壁は全て鉄だろう。
靴底で床を叩いてみると、ステンレス床のような音がした。
物音は全くしない。
無音すぎるこの空間、耳を澄ませば埃の落ちる音まで聞こえそうだ。
周囲には誰もいない。ローチュすらいないのは、どこかへ行っているのか。
山茶花が心配だったが、あいつ等がいるなら大丈夫だろう。
クロユリに誘拐された時を思い出し、同じように体を動かすが、どうやら手すりに腕を拘束しているものはロープではなく、革製のベルトのようだった。しかも指一つ一つまでガッチリと固定されており、全く動けない。顔も同じく、額と首が拘束されており、服越しの肌に感じる通り、残りは胴、両脚が固定されている。
はなから解放する気など微塵もない拘束のしように戦慄するが、ここまで動けないとなるとどうしようもない。
残された道は、なんとかしてローチュ自身に外させることだろう。幸い、口までは拘束されていない。
どうやって……? 話して分かるような奴ではない。
――『傷つけ合うことが愛』だと、彼女は語った。
その真意までは分からないが、少なくともローチュがそれを偽った感情の上で言っているようには思えない。ただのフィーリングだが、なんとなくそう感じた。あの目は本気だった。
と、足音が聞こえた。
ローチュだ。
鉄の重い扉が開く、微かに外の光が漏れ、ここがそう地上と遠くないことを確認出来てそこはひとまず安心する。
ゆっくりと、もったいぶるようにローチュは俺に近付いて来る。
その手に鎌は握られていなかった。
代わりにあったのは、トンカチ。
「おはよう、ホーズキくん」
「ああおはよう。おかげでよく眠れたよ。腹が減ったんだ、飯でも作ってくれないか?」
「ごめんね。私、私ね、お料理苦手なの。むかしっからすごく下手で、友達にもよく言われてて。でも、でもね、その代わりに、代わりにね、ホーズキくんをいっぱい、痛めつけてあげる!」
言うが早いか、取り出した釘を俺の人差し指にあてがい、トンカチで思いきり打ち付けた。
人間が思っているよりも堅いはずの骨を異常なほどの腕力で簡単に釘は貫通した。
痛みは勿論だ、だがそれよりも先に恐怖が競りあがってくる。
頭の拘束を外されたことで、俺は否が応でもそれを見てしまう。
折れ曲がった自分の指。
手すりに固定された肉と骨の棒。指の、骨の神経がナイフで切り付けられ続けるような痛みを訴え、耐えきれず俺の心は瓦解した。
喉の奥から自分のものとは思えない叫び声が上がる。
痛い、痛い、痛い――痛みにのた打ち回りたいのに体は拘束されて動かない。だからせめて手だけ動かそうとすると、釘で固定された部分が動いてしまう。剥き出しの痛覚を錆びた鉄が撫でる。
「ギ゛がァッ゛ああああああ!! ――ア゛ぁあ!?」
ぴくぴくと痙攣する指だったものを見て、自分の置かれている状況の異常性を再認識する間髪入れずに隣の指が同じように打ち付けられる喉が擦り切れるほどに咆哮が痛みを訴える視界が潤んで何も見えない痛みを感じたくない。
「痛いんだね……痛いよね……苦しくて辛いよね……うん、うん。分かるよ。すごく分かるよ。ぐすっ……ひぐっ」
ローチュは涙を流して床に膝から崩れ落ちた。
子どものように泣きじゃくる。
本当に俺を心配しているかのように。
「でもね、でも……でもさァ!! 私は私は私は!! もっと痛かった!! 苦しかった!! だから、ホーズキにも同じ痛みを味わってもらってるんだよ? それが、愛し合うってことなんじゃないかなぁ?」
指は痛い。
こんなものは後で幾らでも治り治まる。だがもし、このローチュが言う『痛み』が別のものだったとしたら?
「ほ、本当、本当はね? サザンカを痛めつけるところを、ホーズキに見せたかった。見せたかったの。でも、でも、でもねでもね、あいつ等が邪魔す……邪魔するから、邪魔……邪魔邪魔ァ!! 邪魔なんだよあの女ども!! なんでいっつもホーズキと一緒にいるの!? ホーズキはわた、私のもの、私のものなのに!! ずっとずっと私を好きでいなければならないのに!! だからね、代わりにホーズキくんに『痛い』を感じてもらってるんだ。これで、これでね、ホーズキくんは私を好きでいてくれるよね?」
俺は……どうするべきなんだ?
やはりローチュは苦しんでいる。
ただの猟奇殺人鬼じゃない。どう見ても、その心は歪み、その痛みに苦しみもがいている。その痛みをこうして外に出して訴えている。その方法が人を殺すことだった。それは間違いだ。だが確かにこうしてローチュは俺に伝えようとした。
明確な痛みがあったのだと。
それと俺の関係は分からない、だが俺が関わっていることが確かな今、俺はローチュの為に何をするべきなんだ?
この拷問を受け入れるか?
嘘の好意を伝えるか?
ダメだ、拷問を受け入れればいつか死ぬし、傷つけ合うことが愛へと繋がるローチュに言葉で伝えることは絶対にできない。
俺はいったいどうすればいい?
あと少し、あともう一つ何かがあれば、答えは見つかるはずなんだ。
その為にここに来た、その為にわざとローチュに捕まった。
「なんでなんでなんでなんでなんで何も言ってくれないの!! こんなに愛してるのにこんなに痛みをあげてるのに……こんなに私はッ、苦しんだのに!!」
塵が集まるようにして出現したあの歪な鎌、あの切っ先が俺のまだ治っていない傷を抉る。
腐り始めていた場所はぐちゅといちごを潰したような音を上げて、鋸刃のような返しが肉を突き破り骨を撫でる。また激痛が全身を襲う。鋸刃が骨を削り切ろうとしている。かえしがついた刃をローチュは無理やり引き抜いた。既に見慣れていた人間の腸が引き出されるのを見た。
肩から腕が切断される。右脚が縦に引き裂かれる。
「殺さないと、愛してもらう為には……ころ、殺さないと。でも……殺したら、また……ああああああああああああ!!」
意識が霞む。
餅でもつくかのように、ローチュは鎌を乱雑に何度も降り下ろす。
大量の血液を失った心臓はその役目を忘れていた。脳に酸素が行き渡らなくなり、頭の中が苦しくなっていく。ぼやける。音にもやがかかったようだ。感覚も痺れ、最早五感は何も感じない。
結局このまま、俺は何もできずに死んでいくのか?
そんなのは死んでもごめんだ。
だが、今の俺にできることは何もない。これから訪れる死を覆す方法も、だとすればローチュを救う方法すらも。
やっぱり、俺には何もなかった。
あれだけ大口を叩いても、凡人の俺に大きな何かを成すことはできなかった。
全ては仲間がいてくれたから、俺独りでは、できることなど到底ない。
こうしてまた、あの絶望のドロドロとした坩堝に――そう、か。
思い出した。
ゼレノイドの力。あれはまだ俺の中にあるはずだ。
――お帰り。待っていた。意は決したかな?
そう、この声。泥のように俺を包み込む不快な声。
ああ、今ここでこれを使う。それ以外、俺に残された道はない。俺が生きて帰り、そしてローチュを救う方法は。
――そうだ、それでいい。受け入れろ。闇を受け入れろ。そして絶望の中に飲み込まれろ。
だがな、
決して、絶望に飲み込まれることなどない――ッ!!
「ローチュ――」
「ホーズキ……?」
世界が一変した。
まるでモノクロの映画を見ているようだった。
たった一人、古びた映画館で映画を見ているような。
どこかで見たことがある、幼い少女が映っている。
これはローチュの幼い頃。その記憶か……? ゼレノイドの力に触れたことで、同じゼレノイドのローチュの記憶に干渉したのか?
『ねえどうして!? わたし何も悪いことしてないじゃんか!』
『もういい……分からないならもういいよ! 私に近付かないで!』
幼いローチュは誰かと喧嘩していた。
『なんで……わたし、何も……』
どうやら、ローチュの行った何かで友人を怒らせてしまったようだった。
だが、納得できない。
良かれと思ってやったことだった。それが彼女にとって悪いことだったとは思えない。だって、だってわたしは彼女の為を思ってやったんだ。
私はそれからも、彼女にまたよりを戻してもらうように頼み込んだ。
何度も、何度も、何度も、何度も。家にまで行ったし。どんな時でも彼女について行った。だってわたしと彼女はとても仲が良かったから。永遠の親友なんだから。
でもなんで、彼女はわたしを拒絶するの?
『もう付き纏わないでって言ったでしょ!?』
『付き纏うなんてそんな……酷いよ。だってわたし、あなたのことが好きなのに。何がダメなの?』
『そういうところが気持ち悪いのよ!』
その言葉は、まるで鋭利なナイフのように深々とわたしの心に突き刺さった。
『そういうところが気持ち悪い』。
あなたを好きだと思うわたしが、あなたにとっては気持ち悪いの? 不快なの? そんなのはおかしいよ。だって、好きって感情は綺麗なのに。前はあんなに、楽しく二人で笑っていられたのに。
『そんな……いやだ。いやだよ……! 待ってよ! ねぇ!!』
納得できない。
納得できない。
納得できない。
どうして彼女はわたしをこんなに苦しめるの? わたしはこんなにも、彼女を愛しているのに。
それから何度も、彼女に考え直してもらうように頼み込んだ。
それから何度も、彼女に考え直してもらうように頼み込んだ。
そうしたら、彼女、死んじゃった。
ある日学校の屋上から飛び降りて、死んじゃった。
違う違う違う。わたしが嫌だから自殺したんじゃない。わたしから逃げる為に死んだんじゃない。わたしは愛していた。とても、とっても愛していた。それはきっと彼女に伝わっていたはずだ。彼女が気持ち悪いと言ったのは別のことだ。彼女を愛しているわたしをそう言ったんじゃない。じゃあ、なんで彼女は自殺したの?
なんで? なんで? なんで?
おかしいよね。わたしはこんなに彼女を愛しているのに彼女は自殺したんだよ。それっておかしくないかな。だってわたしは彼女をすごく愛しているんだから、彼女が死ぬのはおかしいよ。愛し合う二人はずっと一緒にいないといけないんだよ?
あっ、そっかぁ。分かったよ、わたし。
わたしが好きだから、愛しているから、彼女は死んだんだね。
わたしは彼女に拒絶されてすごく痛かった。それでもわたしは彼女をずっと愛していた。それってつまり、彼女はわたしを愛してくれていたんだよね。痛い思いをさせて、それが愛だって。この心がすごく痛むのが、愛し合うことなんだって。だったら、彼女もすごく痛かったんだと思う。人は痛すぎると死んじゃうから、それできっと彼女は自殺した。そうだよ。やっと分かったよ。ごめんね。もっと早く気づいていてあげられれば。わたしがあなたの愛に気づけなかったから、あなたはあんなに怒ってたんだよね?
――頭が割れそうだ。吐き気で胸がなっても、何も吐き出せない気分が延々と続いている。
ローチュの心の闇が俺の中に流れてくる。
異常に歪んだ思考が。
だが、まだだ。まだ足りない。もう少しで見えるんだ。ローチュが――!!
『ねえ、おにーちゃん。なんでお父さんとお母さんはわたしとお話してくれないの?』
『それは……っ。なあ、お前も、痛いのは嫌だろ? もう、こんなことやめよう』
『なんで? 傷つけ合うのは、愛し合うことなんだよ』
おにーちゃんも分かってくれない。
わたしのことを分かってくれない。
ずっと好きだったおにーちゃん。わたしの傍にいてくれたおにーちゃん。わたしを守ってくれたおにーちゃん。なのになんで、わたしのことを分かってくれないの? 全然痛くない。痛くない。痛くない――!
でもお父さんとお母さんは、わたしに『痛い』を沢山くれたよ。前はあんなに仲が良かったのに、お母さんは今ではわたしが学校のこと話しても何も言ってくれない。お父さんは一緒に遊んでくれなくなった。そんな風にわたしを遠ざけて、わたしが嫌いなの? 違う違う違う違う違う――すきなの。すき、すきすきすき。好きだから、愛してるから、そんなことするんだよね? そう、そうだよね。こんなにわたしは苦しいの。心が痛いの。そうじゃないとおかしい。おかしいんだよ。
『……お前が、やった、のか?』
痛いよね。
痛い。痛い。すごく痛いに決まってるよね。
でも、これがわたしの愛。お父さんお母さん。分かってくれた? わたし、こんなに愛してたんだよ。家族だもんね。当たり前だよね? 好きだもんね。だから、痛いのは当たり前だよね?
『そんな……母さん! 父さん! 返事してくれよ!』
おにーちゃんもお父さんとお母さん、好きだったから、二人が死んでるのを見るのは辛いんだよね。よかったね。それで、二人を愛せるんだから。
ねえ、なんでおにーちゃんはお父さんとお母さんを隠そうとするの? 血痕も綺麗にして。なんで?
『大丈夫だ……お前は、俺が守るからな。絶対に俺が守るから……!』
『おにーちゃん。嬉しいよ、わたし。すごく、すごくうれしい』
でも痛くないね。
じゃあそれは、本当の愛じゃないのかな? おにーちゃん?
――やっぱり、おにーちゃんもわたしが好きだったんだね。安心したよ。だってこうして、わたしはすごく痛いもん。
『もう限界だ……なんでお前は……付き合ってられねぇよ! 意味が分かんねぇんだよ!!』
『嬉しい。やっと、わたしを愛してくれたんだね』
『勝手にしろ』
痛いよおにーちゃん。
どこへ行くの? わたしを一人にしないで。ねえ。これも、おにーちゃんの愛? わたし寂しいよ。これも、おにーちゃんの愛?
誰? 貴方、誰?
これは、ゼレーネ? 痛いよ。そんなに首を絞めたら死んじゃうよ。死ぬ……? わたし、死ぬの?
『あっはは、はハハハハハっ!! やったぁ、やっと、やっとわたし……!』
『愛』の行き着く先は『死』だもんね。
わたし、あなたに殺されるんだね。だからあなたは、わたしのことを愛してくれるんだね。すごく嬉しい。今まで生きてきた中で一番、一番嬉しい……!
こうしてローチュは死んだ。
だが、そのぐちゃぐちゃに混ざり合った歪な感情は、ゼレノイド化するには十分すぎたんだ。
ローチュはゼレノイドになり、不安定な精神状態のままその思考を受け継いだ。
ローチュは『傷つけ合うことを愛』だと語り、それを信じ続けた。
だが始まりはもっと別なものだったはずだ。
友達に嫌われたくなかったから、親友に嫌われたことを認めたくなかったから、無理やりそう思い込んだだけだったんだ。
みんな、それを元に戻そうとしたが、上手くいかずに……そのまま育ってしまったローチュは自分を愛さない人間を許さず、痛め付け殺す殺人鬼となった。誰も、ローチュを受け入れる者はいなかったはずだ。
否、彼女にとっては、『死』こそが受け入れると同義なのか。
こうなってしまった者を、元に戻す方法を俺は知らない。
だから俺にできることは、ローチュを殺すことだけだ。
それがローチュにとって一番の愛情だからだ。俺にはそれしかできない。
だが、あれだけ嫌った人殺しを俺自身がやるのか?
ゼレノイドは悪ではないと騙った俺自身が?
それは本当に正しいことか。
だが、そんなくだらないことはどうでもいい。
このままではローチュは永遠に救われない。
世界の全てを殺し尽くた最期に残るのは、誰からも愛されなかった哀れな少女だけだ。
それをここで絶つ。これは、俺にしかできないことだ。
何故かは分からない。
だけど、俺は確信している。
――これは絶対に、俺がしなければいけないことなんだ。
だから起きろ。
俺はもう一度、もう一度生きる。もう二度と誰も殺させない。
もう二度と、この少女を苦しませない。
その為に俺はローチュを殺す――
「がァァァァァァァァァ!!」
自分のものとは信じられない力が体の底から沸き上がる。
体を拘束するベルトも全て引き千切り、指を打ち付けた釘すら無視し、引き千切れる肉など意に介さず、俺は立ち上がれた。
確かに痛い。泣きたくなるような激痛が全身を襲い続けている。体は冷たく、もう血がないのだと思わせる。だがそれでも俺はこうして生きている。俺はこの世界にいる。確かにいる。
全ての傷は徐々に、勝手に消えてなくなった。
俺の体内にあった〈アズダハ〉のゼレーネ細胞。アレは如何なる傷も瞬時に癒すもの。俺が得た力もそれと同義だ。
「ホーズキ……? どうしたの?」
「ローチュ。俺の剣を寄越せ。お前の言う通り、お前のやり方で愛し合おう。その方がお前もやりやすいだろ」
「……! 本当に!? 本当の本当の本当に!?」
その笑顔は、今までで一番のものだった。
無邪気な子どもそのものだった。
「ああ、本当だ。傷つけ合おう。俺の愛をお前に伝える」
「うんっ!」
ローチュは壁に立てかけてあった剣を俺に手渡した。
これを握った瞬間から戦いは始まる――いや、違うな。ローチュの言葉で言うのなら、今から始まるのは『愛』か。
迷うことなど何もない。俺は柄を握った。
――意識が追い着く前に、俺は空中に蹴り飛ばされていた。
ローチュは確か階段を降りてきていた。だからここは二階以上の建物かと思っていたが、地下室だった。
なのに天井を突き破って宙を舞っている。
西日に照らされた干からびた荒野が見える。
数秒遅れて、腹と背中の肉が血しぶきと共に弾け飛んだ。
ローチュに蹴り上げられ、鉄の天井を地面ごと突き破ったのだ。鉄を砕く一撃を、人肉が耐えられずはずもない。
「ガッ、ァァァァァァァァ!!」
雄叫びを上げ痛みを誤魔化す。
傷はすぐに再生する。
ローチュの追撃に備えろ。
――来る。
ドス黒い閃光を引いた死神と空中で肉薄する。
脇腹を狙った鎌を刃で受け流し、柄で頭から叩き落す。
第三宇宙速度で堅い地面に叩き付けられたローチュ。
落ちる速度のまま倒れる少女に剣を突き立てる。
鉄と鉄が打ち合う音が受け止められたのだと知らせる。異常な摩擦は火花を散らし、少女を笑顔に染めてゆく。
「もっと! もっと傷つけ合おう!? 痛くて痛くてすごく痛い! 痛いよホーズキ! もっと痛くしようよ!!」
「そのつもりだ――!!」
距離を取る必要もない。
拮抗する刃が離れ、互いの間には人一人分ほどの空間。
剣を打ち上げられた俺の隙を突いて鎌が横合いに振るわれる。
本当なら避けるはずだ。避けようと思えば避けられる。
だがこれは戦いではない。
避ける必要はどこにもない。
歪な刃が横っ腹を切り開く。
そのまま鎌はスライドされ、魚を捌いた時のように開かれる。
だが傷は癒える。
一歩前に踏み込み、鎌を振り切ったローチュの肩口を斜めに切り落とす。
浴びる返り血で左の視界が赤く染まる。
「イギっ、ひ、はは……! こんなに愛されたのは産まれて初めてだよ……!」
踏み込んだ姿勢のまま腹に刃を突き入れた。
両手に広がる不快な肉を貫く感覚に顔をしかめる。ローチュの吐血が肩にかかる。
「まだ、まだまだまだまだまだまだまだァ!!」
ローチュは持っていた鎌を乱暴に投げ捨て、新たに持ったアサルトナイフを俺の首に突き立てる。
喉奥にじわりと不快感が広がり、引き抜かれた傷口から壊れた排水管のように血が噴き出る。
まだ、こんなに血が残ってたんだな。
より冷えていく自分の体。
本能的に感じる恐怖で引き攣った笑みが零れる。
まだだ。
まだ足りない。
ローチュが死ぬか、俺が死ぬまでこれはずっと続く。
日を跨いでも、他の何かを忘れてでも。
極限状態の俺の脳は、それ以外を許さなかった。
俺達は延々と愛し合い続けた。
互いの血と肉が擦り減りなくなるような感覚さえした。
肉体はすぐに再生する。だが、まるで脳を削られているようだった。
相手を斬りつける度に、傷付ける度に、自分の大切な何かが弾け飛んでいく。
そんな感覚に恐れはしたが、止まることは許されない。
俺はローチュを傷付けなければならない。殺さなければならない。それがローチュへの、俺からの贖いだ。
――贖い? 何故俺が?
鉄を打ち合う音が、紅い月に照らされた荒野に響く。
流血音を伴奏に、俺達はまるで舞踏会で踊っているようだった。
遂に、俺の手から剣が離れた。
ローチュの振るう鎌に打ち上げられた。
あの刃をまともに受けきれるものは何もない。
死が見えた。
全ての減少がスローモーションがかったような世界の中、明確に俺の命を刈り取る刃が――
「〈Epitachynsi〉ッ!!」
だがそれが永遠に振り下ろされることはなかった。
凄まじい速度で俺のすぐ前に飛来した山茶花の盾が、不可視の魔力の壁でローチュの一撃を食い止めた。
打ち上げられ、落ちてきた剣の柄を握る。
たった一瞬の隙、俺はローチュを貫いた。
その心臓を。
ヒトの命の源を。
「あ……は、はは。終わっちゃった、終わっちゃったね……もっと、愛し合いたかったなぁ……」
「ああ……これで終わりだ。ローチュ」
ローチュの体が黒い塵となって消え始める。
終わったのだ、全てが。
「わたし死ぬんだね。これでやっと死ねるんだね。わたし……愛してもらったんだよね」
「ああ。当たり前だ……愛しているに決まってるだろ」
俺の中にそんな感情は心の底からないはずだったのに、何故か言葉が止まらない。
「ありがとう……でもね、わた、し……ね――ローチュじゃ、ないんだよ?」
「どういう……ことだ?」
「でもいいよ……わたし、幸せになれたから。本当にありがとうね……おにーちゃん」
やがて、少女だったものは空気に溶けて消えてなくなった。
カラン、と鎌が地面に落ちる音だけが荒野に響いた。
「なんで……俺を……」
「おにーちゃん! 大丈夫ですか!?」
「山茶花……ああ。大丈夫だ。でも、ローチュは――」
「そう、ですか。分かりました――っ、おにーちゃんその体!!」
山茶花が何かを言っていたが、もう聞こえていなかった。
如何なる傷が再生できると言っても、疲労だけは消せないらしい。
電池が切れるように俺の体と思考は停止した。




