55――病・甲
俺を見つめる死神少女の目は、とてもあんな惨状を作り出すようには見えなかった。
こう見ると巨大で歪な鎌を持っていること以外は普通の少女だ。
なんの変哲もない、ちょっと中二病チックな服装をしただけの、可愛い女の子だ。
「一人でお話? 私、私もやる。やるよ? 一人でお話してるとね、落ち着く、落ち着くよね。ね?」
だが、どれだけ情を移そうともこの少女は紛う事なき殺人鬼。
笑って人を殺せる怪物なのだ。
「ねぇ、それよりさ。まだ名前、言ってなかったよね。私の名前」
「呑気に自己紹介か。今から殺そうとする相手に冥土への手土産でも渡す気か? 三途の川で落としちまうぞ」
「殺す? 何言ってるの? 私、私はただ、あ、愛し愛し合いたいだけ。だけだよ?」
また『愛』だ。
意味が分からない。
どう頭の配線を繋げばあのグロテスクな惨状を愛へと関連付けられるんだ?
普通の頭で考えれば、死神姫が狂っているのだと思うだろう。だがこの少女もあくまで元は人間だった。なら、そう簡単に切り捨てて殺していいとはやっぱり思えない。
こうなるには、何か”理由”があるはずだ。
「私はローチュ。よろしくね、ホーズキくん」
「なんで俺の名前を――まさか山茶花の所にも行ったのか!?」
「行ったよ。でもね、邪魔されて何もできなかったから仕方なくこっちに来たんだよ?」
その様子はまるで苛立っているようだった。
赤色が滲んだ包帯が巻かれた首筋をしきりに触りながら、震える声色。
「なぁ、俺と話でもしないか?」
「おはなし……? どうして? 何か意味があるの? 愛情は痛みの中で確かめ合うものだよ?」
純粋にして無垢。
自身の言葉、思考に一切の疑問を感じてさえいないのか。
だがなんとなく分かってきたような気もする。ロジックはともかく、ローチュの頭の中では『痛み=愛』になっているのだろう。多分。
「そう言うなよ。言葉にしないと伝わらないこともあるぞ」
「分かんない。分かんないよ……ホーズキくんなに言ってるの? どうしてそんなこと言うの? 私がきらい……きらい? き、きらいじゃない、きらいじゃないよね?」
「ま、まあ落ち着けよ」
ガリ、ガリと、爪が肉を削ぐ音が大きくなっていく。
包帯には更に血が滲み、大鎌を持つ手は震えていた。気を抜けば、一瞬先の未来の俺は五体満足ではいられないはずだ。
神経が異常に張り詰める。
自然と腰に提げた剣の柄に手が伸びる。
夜中にコーヒーを飲みすぎた時みたいに、脳が目を閉じることを、意識の刹那の遮断すら拒絶する。
――遠くで破壊音が聞こえた。
ローチュも聞こえたようで、ニタリと張り付く笑顔で俺に笑いかけた。
「始まったみたいだね」
「お前が何かやったのか……」
「私は何もやってないよ? 近くにいたゼレーネ達が獲物を求めて狩りを始めたんだよ」
たった一体でも中隊を皆殺しにできるほどの怪物だ。それが複数体で三人を襲うのだから、助けに行きたい気持ちがはやるが、ここを離れるのは危険すぎる。
俺が今やるべきことは、目の前の危険をここに留めておくことだ。
あの三人がなんとかゼレーネを倒すか、逃げるまでの間の辛抱だ。まあ、俺がローチュから逃げ切れるかは分からないが。そこはもう気合だろう。
「愛もいいけど、まずは恋からだろ? 話が飛びすぎだ」
「うーん……そういうホーズキくんは、誰かと付き合ったりしたことあるの?」
「ぐっ……ないけど」
なんでいきなり的確に人の心の痛いところを突いてくるんだ。
だがこの反応で、ローチュが完全にぶっ飛んでいるわけではないと、確証はないがなんとなくそう思えたのは収穫だ。俺の心傷一つくらい安……くはないが仕方ない。
次はなんだ。
とりあえず……
「デートとか、しないか」
「ほぇ? でーと?」
「ああそうだ。俺は恋なんて青春一度も味わったことがない。生憎そういう環境だったんでね。そういうローチュはあるのか?」
「……ないけど」
額には汗が一筋。
少しでも間違えれば死ぬ。
もしかしたら既に死にに行っているのかもしれないが、後ずさる間抜けを晒すよりかは清々しく死ねる。
「そうだろう。そこでだ、俺達で今から『恋』をしよう。人間の関係ってのは順序が大切だ。まずはここでちゃんと段階を踏んでから、ローチュの言う『愛』をすればいい」
「本当!? 『恋』をしてからならいっぱい愛し合っていいの!?」
「ああ。今言ったとおりだ」
目をキラキラ輝かせて、本当に子どもみたいだ。
ふと山茶花の幼い頃を思い出す。
「で、でーとなんて初めてだよ。どうしようどうしようどうしよう! 服ってこのままでいいのかな!? ちゃんとおめかしした方がいいのかな!?」
鎌なんて投げ捨てて俺に抱き着いてくる。
その姿に邪気はもはやない。
思わず頭をそっと撫でた。
「そのままでいい。そのままのお前が一番綺麗だ」
「じゃあ早く行こ!」
そう言いながら、半ば無理矢理俺の手を引っ張って森を駆けて行く。
枝が肌をかすめて細かい切り傷をつけて行ったが、ローチュの近くにいるならこれくらいは我慢した方がいいだろう。何をするかは分からないのだから。
森を抜けると、またあの血肉腐臭の街が見えた。
やはり何度見ても慣れることは決してない。ペンキをぶちまけたみたいに木の壁に広がる血糊と肉片。鬱陶しい羽音は当たり前のこと、息を吸う度に鼻や喉の粘膜がイカれていく。
「デートって何すればいいの?」
異臭立ち込める死体の山で作られた道を歩く。
ローチュは俺の手を離さないようにか痛いくらい強く握っている。
「やったことない俺に訊くなよ――つーのもアレだな。店でも開いてりゃいいけど流石に無理だろうし……そう言えばゼレノイドって何食べるんだ?」
「人間だった頃と変わらないよ? でもなんて言うか、色々と気にならなくなったかな」
「気にならないとは?」
「どうでもよくなった、って言った方がいいのかな。私にとっての全ては『愛』だから、それ以外はどうでもいいの。食べられるものならなんだって食べるし、味なんて気にならないし。そもそも味なんて感じてないのかもしれないね」
つまり、五感が死んでると……?
「痛覚とかは、どうなんだ? あの時ピアニーは確かにお前の心臓を貫いたよな、ローチュは不死身なのか?」
「痛みは感じるよ。そうじゃないと愛し合えないし。不死身かどうかは……分かんないよ。でもきっと、私にこの力をくれたあのゼレーネは、私が永遠に愛し合えるようにしてくれたかも」
「そう、か」
五感全てではなくとも、一部は死んでいる。
人間はゼレノイドとなることで確実に、自身の人間性を捨てていく。その過程で、感情に歪みが生じてこうなってしまうのだろうか。
その失った人間性は取り戻せるか。以前、俺の腕がごっそりなくなった時にバルサミナが『元々体に腕があったという情報が残っていれば治せる』と言っていた。味覚はともかく、人間性という概念的なものを戻せるかどうかは分からない。
ただもし、『人間性』を傷と同じように取り戻せるのであれば、歪んだ感情を治すことも……
「ホーズキくん」
「どうした」
「私ね、夢があるの」
あれだけ強く握っていた手をわざわざ離してまで、死神姫は俺の少し前に立って空を見上げた。
この世の地獄すら瞬く綺麗な星空で照らす空を。
「いつかね、私が一番好きな人と『殺し合って死ぬ』こと。それが私の夢」
「ローチュ……それは――」
「私、小さい頃に大好きな人とお別れしちゃったんだ。今もどこかにいるかもしれないけど、きっともう二度と会えない遠くに行っちゃった。その人に殺してほしい。でも、どれだけ頑張っても絶対に会えないから――だから、ホーズキくんがその人になってくれる?」
「――ッ」
やっぱり俺は自分が嫌いだ。
ローチュが苦しんでいるのはなんとなく分かっていたはずなのに、俺がやっているのはローチュを殺す為に時間を稼ぐこと。俺自身が手を下すことなんて微塵も考えず、ピアニーがやってくれるだろうと思っていた。
ローチュを心配するようなことを考えながら、結局のところは怖かっただけだった。
自分が傷つくことを厭わずとも、俺が誰かを傷付ける勇気はどこにもなかったのだ。
死神少女は俺に微笑みかけていた。
「さて、そろそろいいよね。もう我慢できない。できないよ。我慢したくない。だって、愛する、愛することを拒む必要はどこにも……ないでしょッ!!」
振りかぶったその手にはいつの間にかあの大鎌が握られていた。
黒い風が吹き荒れて死神姫に収束していく。
俺の手が触れるこの剣は何の為にある? 護身用か? 違うだろ?
「何をしているホーズキッ!」
ピアニーの怒号と重なって手刀がローチュの胴を背中から貫いた。
だがローチュの顔色は変わらない。やはりどのような傷も、この少女にとっては愛にしかならない。ダメージを与える手段にはならない。
「戻って来てくれたんだぁ。ひっ……嬉しい、嬉しいよぉ!!」
振り返りざまの鎌の一閃をピアニーはすんでのところで避ける。
背後にはバイオレットもいる。
いつの間にか、ローチュの空いた風穴は塞がっていた。
ピアニーに飛び掛かるつもりか、姿勢を低く屈んだ瞬間、周囲の死体が動き出しローチュに覆いかぶさった。
「準備しておいた甲斐があったの」
ひょっこり現れたのはダウニー、だがその両手は血でべっとりと濡れていた。
「ネクロマンスで死体を操るには死体との契約が必要なの。本来は生前に済ませておくものだけど、今回みたいに身元不明の死体と仮契約する場合に必要なの」
「だからあの時死体を入念に調べてたのか……」
掃いて捨てるほどいた多くの死体に覆い被され身動きが取れないローチュ。
本人も言ったように、この死神は不死身だ。心臓を破壊しても、胴を二度も貫かれても、肉体を消し飛ばす程の炎に包まれても、決して死ぬことのない存在。ただただ死を齎す概念のような、文字通り死神のような少女。
今こうして動きは止めたが、どうすればいいんだ。
「またさっきのアレをされる前に、ガッチガチに縛っておくのがいいか」
ピアニーが羽交い締めにされたローチュの前に立ち、見下すようにそう言った。
あわよくば潰す勢いで頭を靴底で踏みつける。だがローチュは悔しがる素振りは見せず、感嘆の声を漏らすだけだ。
「ねぇ、貴方」
「ゼレーネと話す言葉などない。命乞いなら後で――
「本気で私を殺す気あるの?」
「なんだと……?」
ローチュはそう言った。
ただ本当に疑問に思ったことを口に出した、そんな声色でそう言った。
ローチュにとって呼吸をすることと同じくらい大事なのは『傷つけ合うこと』による愛を得ること、その終着点は『死』だ。
「貴方は気負うだけで、本当に殺そうという思いがない。殺す勇気がない」
「何を馬鹿なことを。あたしにとってゼレーネとは必滅永遠の仇敵。覚悟など、とうの昔にできている」
実際ピアニーはなんの躊躇いもなくローチュの心臓を貫いたはずだ。
だがローチュは不敵な笑みを携えたまま言葉を続けた。
「本当にそうかなぁ? 一度、会ったことあるよね私達」
「………………」
押し黙るピアニー。
バイオレットも少し苦い顔をした。
とは言え、会っていてもおかしくはないだろう。ピアニーはゼレーネを心から憎んでいる。今までもずっとゼレーネを殺し続けて来たのだろうし、その過程で死神少女に出会っていてもおかしくはない。
ただそうなると、ピアニーは知っていたのか? ローチュの特性を。
「私と一度戦って、あの時は倒せないと分かって逃げたよね。だから不死身のゼレーネを殺せる魔女を連れてきた。それでも倒せなかったから動きを止める為に心臓を破壊したり、大きな隙を作ろうとしただけなんだよね?」
「黙れ……どちらにせよ、その目的は今完遂される。貴様は誰の目も届かぬ牢の中で惨めに一生を過ごすがいい」
「人を殺すことが怖い人と傷つけ合っても、何も楽しくないよ。分かるよ、今までだって誰一人、殺したことなんてないんでしょ?」
「黙れッ!! 貴様らゼレノイドは人ではない!! 理不尽な死を撒き散らす醜悪な怪物が戯言を……ッ!!」
ローチュの言葉に酷く動揺するピアニーの様子は、その言葉を肯定しているようだった。
ピアニーはまだ人を、ゼレノイドを殺していない。
「殺す気がないなら、その気にさせてあげるね?」
最初からどんな拘束ですら無意味だったのかもしれない。
ローチュは死体の山を軽く吹き飛ばした。恐らく何百キロもあったであろう重りをいとも簡単に押しのけた。
風を切る音と同じ速さでピアニーを横切ると、死神の鎌の切っ先はバイオレットに向けられた。
厄介な能力から先に潰そうということか、それとも――
行く手を阻むようにダウニーが操る骸骨が立ちはだかるが数秒も保たない。
だがその数秒で十分だ。動揺で反応が遅れたピアニーに代わってバイオレットを守るべく刃で鎌を弾く。
「ホーズキくん! その気になってくれた?」
「俺は……」
答えを言うまでもなく、ローチュは攻撃の手を休めることはない。
常に全力で、全ての神経を集中させていなければ、嵐のように振り下ろされ続ける凶刃は捌けない。火事場の馬鹿力か、ここまで自分の腕が保っていることに驚きだ。以前なら既に折れていただろう。
それも、後数分保つか保たないかだ。
鉄が打ち合う度に骨の髄に響く激痛。
痛みを恐れない死神に、少しずつ圧されていく。
どうする。このままでは何も変わらない。殺すこともできなければ捕まえることもできない。歪んだ心が求めるモノは愛。だがその愛は傷つけ合うことでしか少女にとっての愛にはならない。俺はローチュを理解しようとした。そして理解した気になった。
理解したところで意味はなかった。
『傷つけ合うことが愛』だとして、だから俺がどうすればいい?
『この世には、どうしようもできない事もたくさんあります』
今は俺にしか見えないシクラの声。
それはまるで悪魔の囁きだ。
『その度に選択するのです。その度に切り捨てるのです。できる事とできない事を。それができない人間に、誰かを守る事はできません。誰かを救う事はできません』
「それは天使としての言葉か?」
『……っ、それは』
「シクラ自身がそう思っていないなら、俺はお前の言葉を受け入れない」
『私だって、誰も死んでほしくないですよ……ローチュだってこの世に生きている。生きているからには生きる意味があるんです。殺していいはずがありません』
「だよな。だったらやる事は決まってるだろ」
まだ誰も死なずに殺さずに、ローチュを救う方法は見つからない。
シクラの言う通り、俺が御大層に誰かを掬うなんておこがましいにも程があるのかもしれない。救えなかった時はその時だ。だから、そうならないように全力を尽くすだけだ――
「はぁ――!!」
「おっとっと。弾き返されちゃった……嬉しい、嬉しいよホーズキ君。ねぇ、答えを聴かせてよ。私と殺し合う気になってくれた? ねぇ? ねぇ!?」
「ローチュ、俺は――
「死ねっ!!」
俺に気を取られていたローチュの隙をついて、ピアニーが頭を狙って殴り掛かった。
体を貫くほどの力で殴れば頭ごと吹き飛ばせるだろう。
だが無意味だ。
「邪魔……また、邪魔。なんで? 痛いのは好きだけど、邪魔されるのは大嫌い」
軽く拳を避け、怒りの形相で振り返った。
避けられる事は考えていたのかすぐに距離を取ったピアニーだったが――
「なんでいつも私の邪魔をするんだよクソアマどもは……なァ!! 私が人を愛しちゃいけないのかよ!!」
ピアニーは明らかに冷静さを欠いていた。
そして理解していなかった。
ローチュはいつもこんな風に情緒不安定のように見えるが、この程度の感情の起伏は些細なものだ。どんな時でさえ、常に高水準の戦闘を行っていたローチュに隙はない。そして冷静さを欠く事もない。この状況で誰を殺せば足元を崩せるのかを理解している。
だからローチュはピアニーに距離を取らせ迎撃を遅らせた。
ダウニーはまだ動けない。
「バイオレット……!!」
気が付いた時には既に遅い。
死神の鎌はバイオレットの首筋を完璧に捉え、それを振りかぶった。
鎧の間の隙間を縫って確実に。
体は既に動いていた。
俺にできる一番の事はやっぱり、これしかないのだろう。
「バイオレット、ごめん」
バイオレットを庇うようにローチュの前に立つと同時に、バイオレットを気絶させた。
何も守るものがなくなった俺の体を、歪な刃は簡単に切り裂き、肉を、内臓を食い破った。
その瞬間から意識はない。




