41――内側のガラス箱
深い深い、足元の先が見えない常闇の淵。
平衡感覚がなくなったような脳を揺らす無重力。
伸ばした手を掴んだのは、見覚えのある少女の手だった。
「――バルサミナ?」
「よかった、間に合った」
突然元に戻った視界に戸惑いながらも、いつもと違う穏やかな表情のバルサミナを見上げる。
鬼灯は尻餅をついていた。
それをバルサミナが腕を掴んで引き上げる。
ただ、思考が元に戻っていくにつれ、自分が置かれている事態を思い出す。その途端に全身の毛穴から冷や汗が噴き出し、脳が沸騰しパニックになる。
バルサミナの腕を振り払い、説明する暇もなくまた剣に手をかける。だがそれをバルサミナがまた腕を掴んで止めようとする。
「離してくれ!! 山茶花とマルメロが殺されちまうんだよ!! だから俺は――」
「もう大丈夫だ。ルピナスに会ったんだ。ルピナスの連れが二人を助けに行った。だからもう、大丈夫だ」
「……そう、なのか」
それを聞いた途端、鬼灯は全身の力が抜けて、またへたり込んでしまう。
手から滑り落ちた剣の金属音が酷く耳に響いた。
そして、自分がしようとしていたことを改めて鑑みて、その恐ろしさに身震いした。あともう少しで、関係のない人間を、無意味に殺そうとしていたのだ。あの二人を助ける為とは言え、少しでもそれを実行しようとしたことに自己嫌悪した。
「なあ、バルサミナ。俺は守れなかったんだ。結局な。俺一人じゃ何もできなかった。お前が来てくれなかったら、きっと俺は……人間じゃなくなってたかもしれない。所詮はただの人間なんだ。超人的な力もない」
「そんなことはない。ホーズキの存在が私達の繋がりを生んだ。ネルセットやエリーマイルでの事件を解決したのは誰だ? あたし達だ。あたし達がいなければもっと多くの人が死に、苦しんでいた。ホーズキがいたから生きている人もいるんだ。だからそんなことは言うな」
「……そんなことは分かってるよ。でもさ、羨ましいと思うだろ? 自分よりも優れて自分よりも強い、憧れるし尊敬もする。でも俺はそれになれないんだ。俺が憧れた人はみんな、きっと山茶花とマルメロを傷付けなかった」
恥も外聞も捨て、鬼灯は心の奥底を吐き出した。
そうして出てきたのは他者への憧れ。どうしようもなく矮小で、本来なら他人に話す気など一切なかった心の中のドロドロとしたドス黒い膿。
バルサミナはそんな鬼灯を見てどう思ったのか。そんなバルサミナを見て、鬼灯はどう思われていると思ったのか。
「前にも言った。鬼灯一人の責任じゃない。あたしがあの時、毒を盛られていたことに気が付いていればこんなことにはならなかった。鬼灯一人で抱え込まなくても――
「そういう問題じゃないんだよ!! 誰の責任だとか、誰が悪い悪くないとかそんな次元じゃないんだ! 結果として俺は何もできなかった。あれだけバルサミナとボロボロになるまで鍛えた……あれも結局は鍛えた『つもり』だったんだ。それに伴う強い心もなかった。体が丈夫なだけのただの人間が、いったい何をできるんだ……?」
「……鬼灯」
鬼灯は俯いて、バルサミナの顔を見ていなかった。だから、震える声で名前を呼んだその声の主は、きっと情けない自分に怒っているのだろうと鬼灯は考えた。
だが――
「バルサミナ……? 泣いてるのか?」
「そんなにも、苦しかったんだな。鬼灯はずっと、そうやって傷を抱え続けてきたんだな……本当にすまなかった」
「……なんでお前が謝るんだよ」
「ホーズキを『独り』にしていたからだ。ああそうだ、ホーズキは弱い。役に立たないし弱音は吐くしとんだ木偶の坊だ。だからあたしが、あたし達が守ってやる! 一人で何もできないのなら二人でやればいいだろ……!」
不甲斐ない自分に愛想を尽かすかと思っていた鬼灯は、そのバルサミナの言葉に目を丸くしていた。考えもしなかった。
「あたしも……完璧な人間ではない。二人で飯を食べに行った時に嫌というほど知っただろう。本来のあたしは自分以外の人間が嫌いなんだ。だがこんな私であっても優しく接してくれた。それが、ホーズキにとって心の枷となっていたもの事実だろう」
「ああ……しんどかったよ。他人に気を遣うってのは思ったよりも体力使うんだよな。特に俺みたいなのは、周りがみんな才能ある奴ばかりで委縮しちまうからな。少しでも同じ舞台にいたかったんだ。ほんの少しの亀裂で、すぐに置いて行かれそうだった」
マルメロの時もそうだった。鬼灯はマルメロに嫉妬していた。天才的な魔術の才能がありながら、勇敢で、死を覚悟していながらも信念の為に戦ったその姿に。それなのに悩むことができたいたことが妬ましかった。
山茶花も、いつの間にか魔術を覚えていた。元の世界にいた時から、鬼灯よりも成績は優秀だったし、友達も沢山いた。押し殺すべき感情だと分かっていながらも、妹に対して嫉妬していた。
自分にないものを求めることは人間として当たり前のことだ。しかし鬼灯は、自身のその感情を恥ずかしいものだと考えた。必要以上に自分自身を卑下し、自分よりも優れた人間に近づこうとするなど、おこがましいことだと。
そんなことをしていたいつまで経っても成長できないとも分かっていた。
分かっていても、どうにもできなかったのだ。ただ、みんなと楽しく過ごせていればそれでよかった。綺麗に言えばそうなるだろう。
そんな時間はどこにもなかった。
陰惨で凄惨で、理不尽で胸糞悪くて血腥くて、どうしようもなく趣味の悪いこの世界では、敦盛鬼灯という人間は脆すぎた。
「なあバルサミナ、守ってくれるのは嬉しい。でもさ、それって俺はもう強くなれないってことなのか? 所詮は気休めで、お荷物にしかならないのか?」
だったら死んだ方がマシだ、とまで思えた。
それほど、鬼灯の精神は擦り減っていた。
バルサミナは首を横に振った。
「ホーズキはまだ強くなれる。山茶花を、マルメロを、死なせたくはないだろ? 生きていてほしいだろ?」
「ああ……当たり前だ」
「『強さ』とはただ敵を武力で圧倒することだけを指す言葉ではない。何があっても折れない心と、何があっても立ち上がることを兼ね備えてこその強さだ。ホーズキにはそれがある。恩人の死も、妹との逃避行も、ルザーブへの特攻も、ゼレーネと戦っていたマルメロを見守っていた時も、ホーズキは諦めたか? 逃げたか? いいや、決して折れずに守るものを守り切った」
「でも今の俺は折れただろ?」
「その為にあたし達『仲間』がいるんだ」
「――――――」
気を使うことが苦痛だと思った。
人の顔色を窺って生きることが辛いと感じた。
しかし、そう考える自分が生きている世界には、自分一人しか存在していなかったのではないか?
本当に自分が生きる世界には、間違いなく自分以外の人間もいる。その他人もまた、同じように感じていたら?
自分もまた、気を使われていたら?
「ホーズキのおかげで私達は出会えた。そのおかげで今が楽しい。他人が怖かったあたしはホーズキに救われた。だから、あたしがホーズキを救って、神があたしに与える罰があるか?」
考えてもみれば当たり前のことだった。
苦しいのは自分だけではない。
なのにどうして、こんなに泥沼のような思考に嵌っていた?
いったい自分はどうしていた?
そうして、鬼灯はあの時聞こえた心の中の声を思い出す。
――そして、
「あーあ、もう少しで”変わる”ところだったのに。余計なことをしてくれたわね」
その、鬼灯でもないバルサミナでもない声の主は、最初からそこにいたかのように突然現れた。
客船の乗務員の女性――殺されたはずの人間がそこにいた。
幽霊か? まずはそう考えたが、確かに実体はある。アレは間違いなく生きた人間だ。
「……やはりか。どうりであたしでも見抜けないはずだ」
いつもの気怠げな声色に変わったバルサミナの敵意が腰の短刀を抜かせていた。
「気付いちゃったんだ。なら仕方ないわね。そろそろ正体を見せてあげようかしら」
途端、女性の姿形にノイズが走り、別の姿へと変化させていく。
そうして現れたのは、蠱惑的かつ豊満な胸を強調するような露出の高い服を着た女性だった。だがどこか、常人とかけ離れた、目視できるくらいの妖艶さを鬼灯は感じ取った。
「……あまり直視するなホーズキ。あれはゼレノイド。ヴァイストインクのゼレノイドだ」
「ばいすといんく?」
「……ヴァイストインク。男性の夢に寄生し、性を糧として生きる淫魔のゼレーネ。男を魅了し操る力を持ち、対象の男性が最も望む姿で現れる。ヴァイストインクのゼレノイドはその力を受け継ぎ、人心を操作し、自分の姿を自由に変化させることができる。ただの変装なら見抜けたが、概念も変えられては見破りようがない」
「詳しいな」
「……ルピナスの連れに聞いた」
ゼレノイドという存在を直接みたのは初めてだったが、その異様な雰囲気以外は普通の人間だった。
つまりゼレノイドとは、ゼレーネの力を受け継いだだけの人間ということになる。
「お分かりだと思うけれど一応、言っておくわね。私は『ヴァイタル』の一人。ヴァイストインクのユウガオよ。よろしくね」
「――ユウガオ」
「本当は、キミのことを仲間に引き込もうと思ってたんだけどね」
「どういうことだ」
ユウガオが答える前に、バルサミナが鬼灯に答えた。
「……さっきの鬼灯のアレは、ゼレノイド化の前兆だ」
「なっ……!?」
「……ゼレノイド化の条件は三つ。どんな形であれ、ほんの少しでも該当ゼレーネのDNAを体内に取り込んでいること。そして異常なほど強力な負の感情があること――そして、一度死ぬこと。二つ目と三つ目はともかく、一つ目については思い当たる?」
そう言えば――と、山茶花とマルメロと、白蛇のゼレーネ〈アズダハ〉と戦った時のことを思い出す。あの時、アズダハの攻撃が何度か直撃していた。その時にもしかしたら……
「確かに……最後以外の二つの条件には当てはまるな。だったらなんで、お前は俺をゼレノイド化させようとした。なんの意味がある」
「欲しいからよ」
思わず「は?」と声が出てしまった。
言葉のニュアンスはなんとなく理解できたが、この状況で出る言葉とは思えなかった。
「私はね、キミが欲しいの。どうしようもなく愛おしくて……ね。でも魅了の力を使うのは女として癪に障るけど、この力は自分ではどうにもできないし。だから、ゼレノイド化させて人間達の中にいられなくさせて、ゼレーネの力で耐性をつけてもらってから私のものにしようと考えたんだけど……回りくどすぎたみたいね。さっさと魅了しておけばよかったわ」
既に本調子を取り戻しつつあった鬼灯は、それを聞いて、自分のことも含めてふつふつと怒りが沸き上がってきた。そんなことで自分達はこんなにも振り回されたのかと。山茶花とマルメロは苦しめられたのかと。
「……落ち着けホーズキ。ここは私に任せて、妹達のところにいってやれ。既にことは終わっているだろうが、お前がいた方が安心するだろう」
「――バルサミナ。分かった……ホントにありがとな。お前がいなかったら、今頃俺はマジで人間としては死んでたかもしれない」
「……お礼とお詫びは後にしろ。好きなだけ奢らせてやる」
「へっ、腹いっぱいで音を上げんなよ」
冗談交じりに吐き捨て合い、鬼灯は地下牢へと戻って行った。
そんな二人を見て、ユウガオは心底イライラしている様子だった。
そのユウガオをバカにするようにバルサミナは煽り始める。妙にゼレノイドとヴァイタルに詳しいダウニーに、色々話を聴いているので煽る材料はふんだんにある。
「……どうした? イチャイチャする男女を見せつけられて、自分が振られた過去でも思い出したか? ヴァイストインクのゼレノイドだものな。普通の恋愛なんて二度とできない。純粋な好意を相手に伝えることが永遠にできなくなったんだ。同情するよ」
「黙りなさい。その口を縫い合わせてしまいましょうか」
「……怖い怖い。そういうところが振られる原因だったんじゃないか? 重たい女は嫌われると、ママに教わらなかったのか?」
それにしても、ダウニーの情報収集能力は異常だ。
ユウガオが過去にその性格が原因で何度も降られていることや、母親が恋愛の達人だったことまで知っている。ほぼ個人情報だ。
「そう……あのダウニーとかいう子どもね。こそこそと着いてきては嗅ぎまわっていたけど、なるほどね。いい趣向じゃない。いいわ、まずは貴方よ。痛みだけで殺してあげる」
ユウガオの顔色が変わった。
相貌は据わり、バルサミナを改めて、そして確実に敵と認識したようだった。
バルサミナは不敵に笑う。久々の本気の戦いができると知って。




