35――危険で禁忌で甘い恋
何もない荒野から仰ぐ乾いた青空。
ボクはこの青空が大嫌いだ。
たとえこの世でどんなに悲惨で無残な事が起きていようとも、いつも変わらず輝き続ける青空が、心の底から嫌いだった。
焼けるように痛む傷口を手で無意味に覆いながら、ボクはその時を待っていた。
下半身を切り取られても、こんなに生きていられるなんて正直驚いている。あの瞬間はこの世で一番痛かったが、今はもう痛すぎて逆に何も感じない。それよりも、小さい傷の方が痛い。それをなんとかして欲しい。今際の際まで苦しみたくはない。
なんて、誰に言っても無駄なのは分かっている。
この世界の神は非情だ。いったい、どの世界に優しい神がいるのかボクには疑問でならないが、とにかくこの世界で神に祈ったところで、なんの意味もありはしないことだけは確かだ。情けない命乞いの声が空気に溶けて消えるだけだ。
ああ、すごく痛い。
きっとボクはこのまま死ぬのだろう。
そして奴に食べられる。
幸いだったのは、あのゼレーネが生きたままの人間を捕食しない性質だった事だ。生きたまま食べられるなんて想像したくもない。
でも、まあ、これでいい。
これで彼女は守られたのだから、これでいい。
あのままでは彼女が食べられた。どうやら奴は彼女の方が好みだったらしいが、そんなことはボクの知ったことではない。好き嫌いはしないでもらいたいというものだ。
彼女はちゃんと逃げ切れただろうか。ちゃんと誰かに助けを求められただろうか。ちゃんと、自分が何者か説明できるだろうか。そして、出会った人が、優しい人であることを、切に願う。
もう動くことができないボクにできることは願うことだけ。
神にではなく、彼女の運命に。
「でも、死にたくないな……」
ああ、死にたくない。
当たり前だ。
いつまでだって彼女と一緒にいたかった。
決していい場所ではなかったけれど、彼女と二人でいられるこの場所での生活は、生きてきた中で最高の時間だったと断言できる。辛く苦しいこともあったけど、それはここで暮らすうえで必要なことだ。必要だから耐えたし、その分彼女と楽しく過ごせるという見返りもあった。
それも、誰かのせいで壊されたけど。
本当なら、ボクも彼女を伴って一緒に逃げたかった。
でも運が悪かったんだね。もっと足の遅いゼレーネだったらよかったのに。
本当に大丈夫だろうか。
野垂れ死にしていないだろうか。
悪い人間に捕まっていないだろうか。
怪我をしていないだろうか。
孤独に苦しんでいないだろうか。
心配だ――。
やっぱり、ボクが行かなきゃ。
ボクが守らなきゃ。
彼女を守れるのはボクだけだ。
ボクだけが、彼女を守れる唯一の存在だ。
だから、行かないと。
沸き上がる強い感情は、動かなかったはずのボクの体を強く震わせた。
ただ、下半身はもうないのに、どうやって動こうか……?
それは、杞憂だった。
@
「――ゼレノイド?」
エリーマイルから帰ってきた俺達は、色んな人から死ぬほど感謝された。
さっきまで一日中騒いで間違えて酒まで飲んでもう体中がダルさで塗れていたというのに、また同じような凱旋パーティがあると聞かされて気が遠くなった。
とは言え、折角準備してくれていたものを無碍にするわけにもいかず、俺達はゆっくり休みたい気持ちを抑えてみんなに歓迎された。
報酬、というものも貰った。
エリーマイルという国を守ったということなので、考えていた以上の、それこそ疲れがぶっ飛ぶくらいの金額だった。
これだけあれば、この世界でなら楽して暮らせる……とまでは行かないが、少なくとも、当分は休んでも問題ないほどはある。なので、疲れに疲れた俺達は休暇を取ることにした。
バルサミナは山籠もり、マルメロは部屋で一人ゆっくりと休みたいようだ。
そんなわけで、残った俺達は暇になった。
この世界に来て、サーヴァリアから逃げていた時以来の初めて落ち着いて二人きりになれる時間に、内心俺はワクワクしていた。こんなこともあろうかと、かねてからネルセットに何があるのかは事前に調査済みだ。山茶花を退屈させないようにかつ、俺と山茶花がゆっくり休めるような計画を俺は立てた。
題して『二人きりの休暇作戦!』。
そのまんまなのは気にしなくていい。
とにかく、俺は山茶花を連れて街に出ていた。目的の場所に向かいながら談笑していると、話の中で聞きなれない単語が飛び出した。
それが『ゼレノイド』。
ゼレーネと似た感じの言葉だが、いったい?
「はい、昨日のパーティで誰かが話しているのを聞いんですけど、どうもゼレーネ化した人間を、そう呼ぶらしいです」
「ゼレーネ化……? つまり、人間がゼレーネになるのか?」
「多分、そうだと思います。詳しくは分かりませんけど……」
人間がゼレーネに……もしそれが本当だとすると、そのゼレーネになった人も同じように殺されてしまうのだろうか。
だとしたら、そんな理不尽なことはない。決して自分から好きでなったわけではないだろうし、もし自我が残っているのなら、それだけで怪物扱いをする事はどうも看過できない。とは言え、詳しく分からない以上どうにも言えないのだが。後で調べてみるか。元の世界に帰る方法とかも知りたいしそのついでに。
「おにーちゃん、ここ寄ってもいいですか?」
「ここは、本屋か?」
「はい! この前見つけて気になってたんです」
なるほど、本屋ってことは魔術に関する書物が売ってたりするわけだ。
山茶花は昔から勉強熱心だったから、俺達の為に治癒魔術を研鑽しようとしているのだろう。くぅ~、涙ぐましい妹の努力! 無駄にする訳にはいかない!
本屋? に入った俺達はとりあえず中を見て回る。
本棚には、昔小学校の図書室で見たような分厚い小説がズラリと並べてあって、基本的にマンガばかりの俺としてはかなりの重圧を感じる。チラッと山茶花を見ると楽しそうに鼻歌まで歌って本棚を覗き込んでいる。どこで差がついたのか。
さて、奥に進むと年季の入った雰囲気を漂わせる、羊皮紙を固い紐で括った本が並べてあるコーナーへ辿り着いた。
ふと手に取って表紙を見ると、
「サマギ式魔術入門書、初級……?」
また直球なタイトルだな。
完全に羊皮紙の雰囲気ぶち壊しじゃねぇか。
中をペラペラ読んでいると、思ったよりも文字が多く頭が痛くなってくる。しかし、俺でも分かるくらいには分かりやすく書かれていて、初級というタイトルに間違いはなさそうだ。
山茶花も目当てのものがないか熱心に漁っている。
「欲しいものがあるならなんでも言えよ。今はかなり余裕があるからな」
「そうですね……じゃあこれとこれとこれとこれと、あとこれも!」
「おお……すごいな……」
二冊ほど分厚い本があったのでその重さによろめきながらレジへ。
見たことないのに懐かしさを感じる電子式じゃないレジにちょっと感動しながら、これが日本円なら正直気を失うかもしれないくらいの大金を払って店員さんを苦笑させて店を出た。
「こっち、持ちますね」
「いいよ、全部持てるから」
「ダメですよ、おにーちゃんだけ楽をしないのは不公平です。ほら、貸してください。言いましたよね、わたしの方が腕力あるんですよ。今は……分かりませんけど」
あまりの多さに袋を二つに分けてもらい、今の通り片方は山茶花に奪い取られた。
「今まで、マルメロさんやバルサミナさんがいたからできなかったけど……わたしだっておにーちゃんを手助けできるんですからね」
「――っっっ!!」
くぅ~! 俺を殺す気か我が妹よ!!
ああ、そうか……女性の仲間が増えて嫉妬していたんだだなぁ。そうと分かるとより一層愛おしく感じる……!! 逆に父性に目覚めそうな勢いだ!!
紙袋を両手で持ちながら俺の隣を歩く山茶花の俯き加減な独白――そして少し前に出て振り向きながらの上目遣い。
そうかそんなにもこの兄のことを……
「な、なんで泣いてるんですか!? そんなに、嬉しかった……ですか? もう、おにーちゃんってば、子どもなんですから」
そう言いながら、懐からハンカチを取り出して俺の涙を拭こうと近付いて――
「はいドーン!! そこまでー!!」
「ぐぇっ――!? ま、マルメロさん!?」
どこからともなくマルメロが飛来して山茶花へ突っ込んだ。
「あたしがいないからってなに始めようとしちゃってんのー? ここ街中でしかもまだお昼時だよー? お盛んだねー」
「どこをどう見たらそうなるんですか! 涙拭こうとしてただけですよ!」
「妹が泣いてる兄の涙拭こうとするのは十分危ないと思うよ」
「な……そんな馬鹿なことは……!?」
そうだったのか!?
初めて知ったぞそんなこと……というのは半分冗談だが。確かにちょっと他よりは仲が良すぎるなぁと最近感じ始めていたところだったが、しかし改めて言われると恥ずかしいな。
「あー、この二人はそういう関係になったんだねぇ」
「ちーがーいーまーすぅー!!」
「はいはーい。でも真面目に放っておくと危なそうだったので止めにきた所存だよ。バルサミナからそう言われてるし」
しかもバルサミナには見抜かれてるし……俺のプライベートはどこいった。
「とりあえずお茶しに行くんでしょ? お邪魔ならあたしは帰るけど」
「そんな、邪魔だなんてことはないですよ。ね、おにーちゃん」
「当たり前だ。マルメロが元気なら誘おうと思ってたくらいだ」
「ほんと? やった! じゃあ早速レッツゴー!」
@
てな訳で、
「ここがおにーちゃんが言っていたところですか?」
「へぇ、良いところ知ってるんだね」
俺達が来たのは、元の世界でいうカフェ。
木造で、広いオープンテラスもあって、日当たりがよくて、極端に人が多くない。ゆっくりお茶を飲むには最適だ!
「おにーちゃんにしては、オシャレですね」
「ケーキバイキングみたいなのもあるらしいぞ」
「おにーちゃん最高です!」
他の女の子の例に漏れず山茶花もスイーツは好きなんだなぁ、としみじみ。
楽しそうに目を輝かせる妹の姿を見ると連れてきてよかったと心から思える。特に、これまで辛いことが続いて精神的にも疲れてるだろうから、今日だけでも休ませてあげたい。山茶花は強いから、たとえ辛くても表には出さずに無理をすることもあるし、俺に似て。ここでそれを発散してくれれば、兄貴冥利に尽きるというものだ。
店員さんに迎えられ、オープンテラス席に座る。
俺は適当にコーヒー的なものを頼んで、後は山茶花、マルメロと一緒にケーキ的なものを皿に盛りにいく。
甘い香りが鼻孔をくすぐって、朝飯は食べたはずなのに腹の虫が鳴きたそうにしているのが分かる。
「あ、じゃああたしもホーズキくんと同じのたーべよっと」
「じゃあわたしも食べます!」
まったく、元気な奴等だ。
少女二人の明るい笑顔を見ていると、今のこの日常が続けばいいのに、という絶対に叶わない願いが、嫌でも頭の中に浮かんでしまう。
今でもこの世界のどこかで、ゼレーネによって人間が殺され続けている。そんな中で、同じ青空の下の筈なのに、極端の幸せが目の前に広がっている。俺は今、こうしてその幸せを享受していていいのだろうか? 力ない一般人ならともかく、今の俺は誰かを守る立場になってしまっている。それなのに、俺は今、何をしている?
「また難しいこと考えてますね、おにーちゃん。ダメですよ、どんなに偉い人でも、どんなに強い正義のヒーローでも、休まないと死んじゃうんですから。おにーちゃんも、ちゃんと休んでください」
そうだな……やっぱり、今はこういうことを考えるのはよそう。
今考えても意味がない。いつ考えたって意味はない。
そう、大丈夫だ。人間は万能じゃない。常に全力の力で誰かを守り続けるなんて不可能なんだ。ましてや、正義のヒーローでもなんでもない俺なんだ、休まないと簡単に死んでしまうだろう。
「大人になったな、山茶花」
「おにーちゃん……」
頭を撫でると、猫みたいに喉を鳴らして喜んでいた。
「他のお客さーんのまーえでなーにやってるのーかなー?」
「はっ!?」
「ひゃっ!?」
その後、周りの客に茶化されまくってとても恥ずかしかった。




