30――アナタは誰ですか?
ルピナスはああ言ったが、実際に、具体的にどうすればいいのかまでは、まだうまく固まっていない。
マルメロの目線に立って話をする、言葉では分かるのだが……とにかく、今日は寝るか。
という訳で俺が割り当てられた仮眠室へ。
「ホーズキさんっ!」
「!?」
突然、背後から女性のような男性声で名前を呼ばれたと同時に両肩を叩かれて驚いて硬直。
振り返ると、軍服を着た俺と同じくらいの背丈の中性的な男性がいた。確か、あの会議の時にもいたような気がする。
「いやー聞きましたよーすごいっすねホーズキさんは。あのルピナス隊長と裸の付き合いとは恐れ入りますよ」
「誰に聞いたんすか!?」
「あの、ちびっ子い魔女っ子に」
「やべぇよ……まさか言いふらして回ってるのか……」
「それはいいとして、これからお休みですか?」
よくねぇよ、と言いたい所だが、あまり面識もない人なので強く言えない。
「ああ、はい。そういうあなたは?」
「僕は今から夜間の見回りです。ゼレーネの方からまだ手を出してきていないとは言え、何が起こるか分かりませんからね」
「じゃあ、俺も」
「ダメです。ゼレーネを倒せるのは貴方達だけなんですから。無理はしないでください」
なんでこの人は肩に手を回してきてやけに艶めかしい手つきで触ってくるんだッ!?
とはいえ強く言う事もできないし……
「まだ時間ありますし、部屋の中で、二人きりで話でもしませんか。お茶もお出ししますから」
「い、いや……今から寝るんですけど」
「眠りにつくまでの時間だけです。遠慮なさらずに。あ、そうだ。僕、耳かき得意なんですよ。どうですか?」
「いやその……」
「さあさあ、怖がらなくても大丈夫ですよ。優しくしますから」
「何をですか!? ま、待ってください!! それは、ちょっと――
「何をやってるんじゃお前は……時間じゃぞ」
助かったぜ……
助け舟を出したのはルピナスさん。肩にタオルをかけて髪はボサボサ。まだ少しだけ濡れている紅潮した額に目を奪われる。
「あ、隊長。こんばんわーいやーちょっとホーズキさんとお話しでもしようかなと思っただけですよもー誤解しないでくださいじゃあ僕は行ってきますねー」
何がそんなに嬉しいのかニッコニコに笑いながら去って行った。
それにしても危なかったぜ。もう少しで……いや、考えないでおこう。
「すまんのホーズキ。奴はちょっとコレなだけで悪気はない」
「はは……」
「ほれ、さっさと寝ろ。明日は早いぞ」
優しく背中を叩かれた。
その声は、まるで優しい姉のようだった。
ああ、こんなにも期待されているんだ。ギルドの考えなんて関係ない。俺達は絶対に生きて、ゼレーネを倒すんだ。
「ああ、だが、無理はするな。わたしは、鬼灯に死んでほしくはない」
「ルピナス、さん?」
「ではな。我も仕事がある故、また明日じゃ」
なんだ、今の?
そんなことが、ある訳ないよな……?
「………………」
遠ざかっていくルピナスの背中。
厳かなはずのその背中は、何故かいつもよりも小さく見えた。だがそれは、彼女が弱気になったから、という心情的な理由ではなく、ただ、小さく見えた。幻覚でも見えるかのように。ルピナスのシルエットが揺れ、別の誰かに見えた気がした。
だがそれは、絶対にあり得ない筈の幻だ。
きっと寝ぼけているだけだ。もう寝てしまおう。
――縺 翫 ↓繝 シ縺。繧・s
何を、言ってるんだ?
――縺翫↓繝 シ縺。 繧・s
誰を、呼んでいる?
――縺 翫↓ 繝シ 縺。 繧・s
暗闇が、どこに手を足を伸ばしても触れる事ができなかった世界が晴れ渡り、その映像が鮮明に映し出された。
「ここは……」
この場所を俺は知っている。
この世界に来る直前に見た夢の中だ。
干上がった草木の生えない荒野が、地平線の先にどこまでも続いている貧しい世界。
そしてその一面全てに広がる、同じ形で同じ文字が彫られた石の墓標。だが以前と違うことが一つ。
山茶花と同じくらいの年に見える少女が、全ての墓標を一つずつ、丁寧に磨いていた。
俺は、その少女に話しかける。
「君は、何故その墓を磨いてるんだ?」
「縺翫↓繝シ縺。繧・s」
だが少女は、どこの言葉が分からない言語で、ずっと何かを呟いている。
同時に墓に刻まれている文字も俺には読む事ができない。全ての墓に同じ文字が刻まれていた。
「ずっと、こうして磨いてるのか」
「縺翫↓繝シ縺。繧・s」
やはり少女は答えない。
その他全てを意に介さず、それが息をする事と同じだとでも言わんばかりにずっと墓を。
この世界には風すら吹かない。
だが不思議と熱くもなく、寒くもない。少女も汗一つかかず、冷たい氷のような無表情。
「休んだ方が、いいんじゃないか」
「縺翫↓繝シ縺。繧・s……」
もしかしたら、俺は夢を見ている本人だから、この少女は俺が見えていないのかもしれない。
試しに肩に触れてみたが、全く少女は変わらない。
そのようにプログラミングされたロボットのように。
俺も諦めて、ずっと少女を眺めていた。
夢が覚めるその時までずっと待とうと思った。
「縺翫↓繝シ縺。繧・s……縺翫↓繝シ縺。繧・s……縺翫↓繝シ縺。繧・s……」
だが、自分の夢に二度も出てくることなのだ、ここまで少女が呟く言葉が何なのか気になってしょうがない。
とは言え、何を言っても答えは返ってこないのだから、どうしようもないだろう。
「何が、書いてあるんだろうな……」
世界中の言葉、文字を知っている訳でもないので何とも言えないが、こんな形の文字があるなんて思えないのだ。
掘られた文字を、指でなぞる。
そうすると、不思議とその形を知っているような気がしてきた。だがやはり形だけでは分からない。その形を頭に思い浮かべても、何故か分からないのだ。
「もしかして、縺翫↓繝シ縺。繧・s? どうして? どうしてここにいるのですか? あなたは、どうしてここにきたのですか? いまさらなにをしにきたのですか? わたしはずっとまっていた。ここでずっとまっていた。もうおそい。わたしはここにはいない。あなたのわたしはここにいない。わたしのあなたはここにいない。だからあなたは縺翫↓繝シ縺。繧・sじゃない――」
突然動きを止めたかと思うと、少女はこちらに振り返った。
人とは思えない紅玉のような瞳が俺を捉える。
石のように動かなくなる体。
無表情のまま、コピー機が紙を吐き出すように言葉を話す少女が、ルーチンを放り出してまで俺に迫る。
後ずさることもできず、動かない体のまま恐怖を押し殺そうとするが、何故か、それ以上に死ぬほど心が痛い。
感傷なんて全く感じていないはずなのに。
「しね」
少女のか細い手が俺の首筋にあてがわれた。
冷たい機械のような少女の手は、しかし思っていたよりも暖かだった。
そう感じた瞬間、首は折れた。




