17――逃亡と出発の先に
ランプランサスとかいう〈サマギ〉の女王に謁見し、捕まって犯されそうになった。
捕まえようとしてくる魔女たちから逃げ、マルメロの家に匿ってもらった。
そのおかげで何とか一旦は落ち着けたものの、いつまでもつかは分からない。
それに、俺たちがここにいることが気づかれていないとは限らないだろう。
いや、おそらくはもう既にバレてしまっているかもしれない。
ランプランサスの下に俺たちを連れて行くとき、あの魔女たちはここへやって来たのだから。
「……おそらくじゃが、儂とマルメロの家だから無理に捕まえようとしてこないだけで、いずれは奴らが来てしまうじゃろう」
マルメロのお婆さんが、ふとそう言った。
このまま滞在し続けていると、マルメロやお婆さんに迷惑がかかってしまう。
できれば、その自警団が来るまでにここから離れておきたい。
だが、どうすればいいものか……と悩んでいたら、マルメロが口を開く。
「今日の夜くらいに船が来るはずだから、今のうちに森の中に逃げ込んじゃえばいいんじゃないかな。危険なゼレーネだっていっぱいいるし、簡単には追ってこれなくなると思うよ?」
だから、それまでにさっさと森へ行っておけば、逃げられる可能性は高い。
俺たちにだって当然危険であることに変わりはないけど、今はそうも言っていられない。
「……分かった。短い間ではあったけど、色々ありがとな」
行くなら、できるだけ早いほうがいい。
森のほうにまで逃げてしまえば、もう〈サマギ〉にまで戻ってくることはおそらくないだろう。
つまり、マルメロやお婆さんとはここでお別れとなってしまう。
そう思って、別れの挨拶をした――のだが。
「待って、あたしも行くよ」
不意に。予想だにしていなかった言葉が、マルメロから発せられた。
家から出るために翻そうとしていた身が、虚を突かれたせいで途中で止まってしまう。
驚いてマルメロの顔を見やると、決意が込められた瞳でこちらを見返してきた。
「何言ってんだ。お前が来る必要はないだろ? 危ないんだ、ついて来ないほうがいい」
ここからは、俺と山茶花の問題だ。
助けてくれたことや色々教えてくれたことは、もちろん感謝している。
でも、わざわざ一緒に来る理由なんて、マルメロにはどこにもないはずだ。
「……本人が決めたんなら、儂は何も言わん。止めもせん。勝手にすればいいじゃろ」
「な……ッ!?」
お婆さんの発言に、俺は再度驚かされてしまう。
いくら何でも、それは無責任すぎではないだろうか。
危険なゼレーネだってたくさん出現するし、他にもどんなことが起こるか分からないのだ。
そんなところに自ら行くと言っているマルメロに対して、お婆さんは何とも思わないのか。
「ありがと、おばあちゃん。ほらほら、さっさと行こうよっ!」
「ちょ、おい!」
マルメロが強引に俺と山茶花の手を引き、家から出る。
家に匿ってもらっただけでも申し訳なさやら感謝やらがいっぱいだというのに、まさか一緒に来てくれるなんて。
そんなの、どうやって恩を返せばいいというのか。
俺がいくら止めたところで、マルメロはきっと帰ってはくれないだろう。
それなら、せめてできるだけ危険な目に遭わせないようにしないと。
「あの……いいんですか、マルメロさん」
「うんっ! ずっと家にいるより面白そうだし、それに放っておけないしねー」
申し訳なさそうな山茶花の問いにも、マルメロはあっけらかんとして答えた。
……ほんと、変なやつだ。
§
街から歩いて数十分、森が開けた大口はすぐに俺達を迎え入れた。
空っと乾燥した冷たい空気が、木々の間を通り抜けて肌を撫でる。見た目以上に薄手なマルメロは何の気なく歩いているが、慣れていない俺と山茶花にとっては肌寒いどころではない。震えだした山茶花が身を寄せた。
「ひゅー、あっついあっつい。いや、寒いからやってるんだよね」
「マルメロは平気なんだな」
「そりゃもう、ずっとここに住んでるから」
砂利を歩く感覚から、徐々に草を踏み分ける感覚へと変わっていく。鬱蒼とした手入れのされていない森の中だ。追手に見つからないように獣道を歩いているせいもあってか足元は不安定。足音を立てずに歩きたいのは山々だが、プロの密偵でもない俺達には無理なことだ。
それを考慮してくれてか、マルメロは何度も複雑な道を選んでくれている。
それでもやはり、逃げる獲物よりも狩人の方が行動範囲に余裕がある。少しずつ、追い詰められていることが周囲の足音から分かった。
マルメロの額に汗が一筋。
「ここら辺が妥当かな」
「どうするんですか?」
不安げな山茶花の言葉に、二かッと笑って右手を前へ掲げた魔女っ娘。
その口から紡がれる呪文は怪しい紫色の光を齎した。
「――"Fragmos"」
光は一枚の薄い壁を形成した。試しに触れてみるとガラスのような感触がする。
「少しでも攪乱できたらと思ってね。でも、相手もそれは分かってるはずだから……」
「俺達にやれることがあるなら言ってくれ」
「リスキーすぎるから、本当はやりたくないんだけど、誰か一人が囮になってその間にあたしが森中にこの壁を張る。サマギの魔女はなんてったってバカだから、警戒しているのはあたしに対してだけのはず。そうすれば追手の数を分散できて、負担は減るよね。何より、サザンカちゃんの」
そうだ。数日休んだとは言え、山茶花はまだこの場所に慣れていない。
ましてや、これからどれだけ歩くかも分からない。必要以上の体力の消耗はそれだけ捕まるリスクを増やしてしまう。
だからマルメロは――俺に囮をやってもらいたいと言っている。
「分かった。俺がやる」
「おにーちゃん……わたしは……」
「いいんだ、山茶花の為だ。俺に任せてくれ」
マルメロは首肯した。
目指す場所はここから北。それさえ間違わなければはぐれることはない。いずれ港につく。そこに今停泊している船に乗り込めばこっちのものだ。
心配そうな顔をした山茶花が見えた。首を振って二人から離れる。何もしないでうまくいくなんて思わない。それは嫌と言うほど思い知らされた。俺が頑張らなければまた――
『大丈夫。オレは――絶対に死なない』
タイの言葉が胸に突き刺さる。
あの時俺は何もできなかった。俺は弱かった、山茶花を守ることだけで精一杯だった。いいや、あんな状態では守ることだってできやしなかった。逃げることしかできなかった。
俺は弱い。
でも俺には山茶花しかいない。だから俺は、山茶花を守る為に頑張らなくちゃならないんだ。
「いたぞ!」
追手が俺を見つけたようだ。
これで、追手の多くが俺を追いかけるだろう。だが、向こうではマルメロが魔術で壁を張っている。この数日サマギを見て回ったが、俺達のいた世界であった文明の利器と言えるものは何一つなかった。強いて言えば古ぼけたモダンな蓄音機くらい。
相手の連絡手段が口伝のみなら、俺達が二手に分かれたことに気が付くにも時間がかかる。この視界の悪い森の中、少しずつ分散していく追手。
今のところは作戦通りだ。
だが――
「あっつ――!?」
蒼い炎が――いやこれは、矢の形をした蒼い炎だ。木に当たっても燃えることはなかった。これも魔術か。
「やっぱ攻撃してくるよな……」
奇跡的に、飛んでくる火の矢や土の槍、雷を避けながらただ北を目指す。
「っ……」
肩を焦がす何かが素通りした。
痛みに顔をしかめるが足を止めるわけにはいかない。足にだけはなんとしてでも当たらないようにひたすら走る。
ほんの少しだけだが何か、人工的な光が見えた。もう少しだ。潮の香りもする。海は近い。このまま行けば、
「きゃああああ!?」
悲鳴が聞こえた。
誰のものかは分からない。少なくとも、山茶花ではないが……それでも一瞬、足を止めてしまった俺の脇腹に、火の矢が貫通した。
じゅうっと肉の焼ける音。見開いた目に映るものは堅い地面。叫び声すら上がらずのたうち回る。周囲に複数の足音が俺を囲んでいるのが分かる。
「男は見つけたが、さっきの悲鳴はなんだ?」
魔女の一人が仲間に聞いた。
俺の腹の傷を布で抑えながら、羽交い締めにする魔女がマルメロ達なのではないか? と返したが、あんな声ではなかったと言う。
「アイツはどこ行った? さっきまで私達と一緒にいたはずだが」
「はぐれたんじゃないの。あの子トロいからさぁ。ま、いいじゃない。私達が捕まえたんだから、先にこの子味わうのは私達でしょ。取り分が減ってちょうどいいわ」
「おい、先に頂くのはランプランサス様だぞ。間違えるな」
「分かってる分かってる……ふふ、坊や、それまでに壊れないでね……?」
クソっ……こんなところで、終わるわけにいかないってのに……体に力が入らない。
ちょっと妖艶な方の魔女が俺の方を持って歩き出す。またあそこに戻るのか。結局俺達は……
「待て、この音はなんだ」
「次は何よ。早く帰りましょう? ゼレーネでも現れたら最悪――よ。ええ、とても最悪」
力の抜けた魔女の手からずるりと俺が落とされる。
魔女は何を見たのか、俺にははっきりとそれが見えた。
アナコンダを一回り大きくしたような白蛇が、口元を赤色に染めながら何かを食べていた。
ぬかるんだ泥を踏み躙るような音を立てて、痙攣する魔女の腿を食べていた。
その眼は、新たな獲物を見つけ、紅く光る。
「だ、だから言ったのよ……早く帰りましょうって……どうするのよこれ」
「落ち着け。こいつはよほどのことがなければ温厚だ。男は諦めてこの場は逃げるぞ」
それってつまり……俺を餌にして逃げるってことかよふざけんな!
「ね、ねぇ……でも、なんか、こっち見てない?」
「馬鹿なこと言うな! 早く逃げるぞ!」
蛇の首は思っていたよりも伸縮自在だ。それにこの体躯ともなれば、数メートルしか離れていない獲物など腹の中も同然だ。
逃げ出したと同時に、妖艶な方の魔女の腕が食いちぎられた。
骨を砕く音が蛇の口から聞こえるのはよく分かる。
「あ……あ、いや……いやああああああああああああ!?」
「待て! 攻撃するな! オイ!」
片割れの制止も無視してあの蒼い炎の矢を乱雑に放った。
白蛇は金切り声を上げて苦しむが、その傷口からは、その白蛇を一回り小さくした同じものが湧き出してきた。まるで蛆のように。それら小さい白蛇は片方の真面目そうな魔女の肉に食らい付く。仲間を心配し逃げるタイミングを失った魔女は腕を、腹を、腿を、小さい牙に肉を毟り取られるも、なんとか逃げようとする。
その足首を妖艶な方の魔女が掴んだ。
「待ちなさいよ……! アンタだけ逃げるつもり!?」
「馬鹿かお前は! クソが! なんで私が! あ……おい、そこは、そこはやめろ! 待て、ギっ、き、ああああ、がああああ!?」
恥部を食い破られ、この世のものとは思えない悲鳴で、魔女は叫んだ。
白蛇の本体はずるずると体を引きずりながら、逃げる力を失った獲物へと近づいて行く。先に受けたはずの傷はもうすっかり消えてなくなっていた。
妖艶な方の魔女の足に食らい付き、思いきり引き千切る。蛇は咀嚼しないはずが、まるで哺乳類のように、人肉を味わうように口を動かす。
まるで、痛めつけることを楽しむように。
やがて二人は動かなくなった。
涙を鼻水と涎と尿と、大量の血液を垂れ流したまま死んだ。
少しずつ体に力が入るようになってくるが、ここで動けば俺も同じように殺されるに違いない。
だがそれは杞憂だった。次はお前だと言わんばかりに、白蛇は俺を見ると体躯を引き摺りながら俺に近付く。
今度こそ死を確信した。
その刹那、
「Vallei――!!」
その巨体を、一陣の突風が吹き飛ばした。




