10――後悔と違和感を胸に抱いて
あれから、一体何日が経過しただろうか。
一向に景色が変わらない深い森の中を、俺たちは数日間ずっと歩き彷徨っていた。
体力も、精神も、既に限界に達している。
幸いと言えるほどなのかは分からないが、途中で綺麗な川水があったため喉は潤せた。
しかし、ロードさんから鍛えてもらったことでかなりの体力が身についた俺はともかく。
運動が得意じゃなくて体力もあまりない山茶花にとって、暫く何も食わないで歩き続けているのは死活問題である。
しかも、いつもの私服ではなくドレスを着用してしまっているため、余計に動きにくいだろう。
今となってはもう、一言も声を発さず、ただゆっくりと足を動かすだけになってしまっていた。
息も絶え絶えで、まるでもうすぐ死を迎える小動物のようだ。
隣で必死に歩を進める山茶花を見て、俺は自分の無力さを呪わずにはいられない。
俺にもっと力があったら、山茶花にここまで大変な思いをさせなくて済んだかもしれないのに。
そして――俺にもっと力があったら、タイは死なずに済んだかもしれない。
今更そんなことを痛感してもどうにもならないけど、体に募っていく疲労のせいもあってか先ほどの光景が鮮明に思い出され、思考を止めることができなかった。
せめて、もっと山茶花の力になってやりたい。
せめて、もっと山茶花に楽をさせてやりたい。
「……山茶花」
名を呼ぶと、妹は足を止めてこちらを見上げくる。
その顔は、やはり疲労のせいで物凄くやつれてしまっていた。
俺は、これ以上山茶花に歩かせることなんてできない。
「ほら、乗れ。負ぶってやるから」
言ってその場に座り込み、山茶花に背を向ける。
正直、俺だって途轍もなく疲れている。
足がガクガクで、足が棒になりそうで、いつ倒れてもおかしくないくらいだった。
だが、このまま山茶花に歩かせるくらいなら、俺が背負っていく。
たとえさっきまで以上の負担が俺に伸しかかろうと、山茶花が楽できるのならそれでいい。
ずっと怖い思いをさせてきたのだから、それくらい俺が担ってやろうじゃないか。
そう、思っていたけど。
「い、いい、です。まだ、歩けます……」
「でも――」
「だい、じょーぶ、です。おにーちゃんにばっかり、迷惑かけてられません、から……」
あまり負担をかけさせたくないためか、俺の申し出を拒み、山茶花は強情にも再び足を動かす。
どうして頑なに自分で歩こうとするのか――優しいからだ。
おそらく山茶花は、自分が拉致され、その結果タイが死亡してしまったことを自分のせいだと思っているのだろう。
だから、俺に迷惑をかけられないと、そう言ったのだと思う。
そんなことないのに。あれは、決して山茶花のせいなどではないのに。
「はぁ……はぁ……」
慌てて追いかけると、山茶花の乱れた息が聞こえてくる。
山茶花の覚悟は認めるが、さすがに無茶だろう。
無理矢理にでも負ぶろうかと、もう一度声をかけ――ようとして。
「……ッ!?」
驚愕のあまり、声を発することすらできなかった。
何故なら、へろへろとした足取りではあったものの、さっきまでは何とか歩けていたのに。
その足が、突如として止まってしまったのだ。
いや、止まっただけではない。
急に体から力が抜け、顔から地面に倒れ込んだのである。
「おい、さざん――」
名を呼びながら駆け寄るが、途中で俺の視界に異変が生じる。
「あ、あれ……?」
世界がぐるぐると回り、どっちが上でどっちが下なのか、どっちが右でどっちが左なのか認識できなくなる。
そして、俺は――。
§
気がつくと、淡い色のランプが天井から吊り下がっているだけのシンプルな天井が見えた。
木造の天井から視線を外し、ふと横を見やる。
隣では、山茶花が心地よい寝息を立てて気持ちよさそうに眠っていた。
今気づいたが、俺と山茶花は一緒にふかふかのベッドで寝かされている。
あれからどうなったのかは分からないけど、とにかく山茶花を休ませてあげられてよかった。
優しく頭を撫でてから、辺りを見回す。
モダン的でありつつ、どことなく前時代的な、まるでタイムスリップしてきたかのような雰囲気の部屋だ。
ここは、どこだ。誰かの家だろうか。もしそうだとしたら、誰かに助けられた、ということか。
……いや。俺には、もっと他にも考えるべきことがあるじゃないか。
今までは戸惑っていたこともあり、パニックの連続で深く考える余裕などあまりなかった。
しかし、ようやく落ち着くことができたのだ。だから、俺は思考を巡らす。
ここは、一体どこなのか――と。
魔術などという概念、見たことも聞いたこともない国や街、ゼレーネと呼ばれる怪物……他にも色々あるが、大まかにはそれらだろう。
生きるために、山茶花のために、と俺はずっと自然に受け入れていた。受け入れるしかなかった。
だけど、今ではもう思考に余裕が出てきたのだ。
さすがに、違和感を覚えないわけがない。
俺の頭の中で、とある一つの推測が浮かび上がっていた。
別の世界。
そう、俗に言う――異世界というやつじゃないだろうか。
普通なら、当然有り得ないことだ。フィクションならばよくあるが、現実で起こり得ることなんてまず有り得ない。
でも、俺たちが元々いた場所にはないものがあまりにも多すぎる。
それに、ここに来てからは俺が知っている常識なんか何の意味もないことを実感させられた。
信じ難いけど、そうとしか思えないのだった。
「……ん?」
ふと。考え込みながらも何気なしに壁を見ると、そこには何やら地図と思しきものがかけられていた。
大きな横長の一枚の紙――それは、間違いなく世界地図だ。
現に、地図の右上には『世界地図』と達筆な文字で記されている。
玩具や偽物には、どうしても見えなかった。
もし、本当にこれが本物だったとしたら――。
と、俺たちには毛布がかけられているのだが、何だか下腹部に違和感を覚えた。
訝しみつつ、その毛布を恐る恐る捲ってみる。
すると。
「な……え……?」
俺は、思わず絶句してしまう。
そこに、いたのだ。
一人の見知らぬ少女が、俺の下腹部に覆いかぶさるようにして眠っている。
幼くて可愛らしい顔立ちをしているところから察するに、年齢は山茶花と近いように思える。
当然、知らない子だ。
だから、どうしてこんなところにいるのかすぐには考えることもできなくて。
そうこうしているうちに、隣から声が聞こえた。
「ん……んみゅ……おはよーございます……」
寝ぼけ眼を擦りながら、山茶花が上体を起こす。
何故かドレスは着ておらず、腰をベルトで止めたワンピースへと服装が変わっていた。
が、今はそんなことを気にしている暇などない。
どうしよう。
こんな、あまりにも間の悪すぎるタイミングで目を覚ましてしまったらしい。
「あ、おにーちゃ…………ん?」
山茶花の視線は、俺の姿を捉える。
そのあと、俺の下腹部のほうへと視線を映し、怪訝そうな表情となった。
やがて、寝起きの瞳を突然大きく見開き、顔を真っ赤にして叫ぶ。
「な、な……何やってるんですか!? こ、こんな朝っぱらから、わたしがいるところで、な、なな、何してたんですか!」
「ち、違う! お前が考えてるようなことは何もしてない!」
「何が違うんですか! おにーちゃんは変態です、えっちですっ!」
「だから違うって!?」
赤面して取り乱す妹と、不可抗力を訴える兄の叫びが谺した――。




