9――花びらは散って
「おにー……ちゃん……?」
俺の姿を視界に捉え、妹――山茶花はボソリと漏らす。
容姿、声……確かに山茶花だ。間違いない。
だが、その服装は俺の知っている山茶花のものとは大きくかけ離れている。
奴隷として、あくまで丁重に扱われていたのだろうか。
リアルではなかなか目にすることができないような、高貴なドレスを身に纏っていた。
一週間以上も経った。いや、体感時間的にはもっとある。
久しぶりに妹の姿を見ることができて、感極まって口元が綻び、涙が出そうになる。
――しかし。
「……今は大事な取引の途中だ、邪魔はしないでもらおうか」
不意に発せられた男の台詞に、俺は憤りを覚えずにはいられなかった。
何が取引だ。何が邪魔だ。人の妹を拉致しておいて、言えた義理か。
ほぼ無意識に拳を強く握り締めるが、何とか必死に自分を抑えて耐える。
あまり怒りに身を任せてしまうと、ロードさんと同じようなこと……いや、下手したらもっと悪い未来へと繋がってしまうかもしれない。
ロードさんから聞かされた『最悪の状況』は――山茶花が人質にとられることだ。
それだけは、何としてでも避けなければならない。
だから、俺は懐から短剣を手に取り、山茶花の隣にいる男に向かって投擲――しようとしたのに。
そのときにはもう、既に遅かった。
「――近づくんじゃねェ」
人相の悪い男の持つ拳銃が、山茶花のこめかみに突きつけられる。
阻止する暇も、考える暇もなく。
あっという間に、山茶花は人質にとられてしまったのだ。
「くそ……ッ」
悔しさと怒りを表すように奥歯を噛み締め、拳を強く握り締める。
だけど、そんなことをしていても事態は何も変わらない。
早くも為すすべがなくなってしまった――かと思いきや。
「その子を離せッ!」
そんな叫びとともに、男の背後から近づく人影があった。
――タイだ。
後ろから男に飛びかかったかと思うと、銃を持っているほうの腕にナイフを突き刺し、その拍子で男は銃を床に落としてしまう。
「ぐ、ぅあッ」
あまりの痛み故か、男はナイフが刺さって血の色に染まった腕を押さえる。
その一瞬の隙を、見逃すわけがなかった。
「山茶花!」
「おにー……ちゃん」
俺は急いで山茶花のもとへ駆け寄り、抱き抱えたまま再び壁のほうまで後退する。
よかった。疲れたような表情はしているものの、目立った外傷はないし無事なようだ。
これも、タイが一緒に来てくれたおかげ。正直、感謝してもしきれない。
山茶花を解放させることはできた。
あとは、山茶花やタイと一緒にここから逃げるだけ。
廊下にいた何人もの警備員は無力化されているだろうから、作戦は成功。
――そう、思っていたのに。
「ガキどもが……!」
いつの間にか、もう一人の男が俺達に銃を突き付けていた。
なんの躊躇もなく引かれる引き金、すぐに死を覚悟した。ああ、最後だけでも山茶花に会えてよかった。
だが、俺を鉛玉が貫くことはなかった。
山茶花が俺達を突き飛ばし、庇っていたのだ。
見れば、タイの左肩に風穴が空いていた。
血が溢れ、タイの左肩を赤黒く染めている。
痛そうに悲痛な声を漏らすが、そんな激痛にも体の動きを止めたりはしない。
「んの、野郎ォッ!!」
今まで聞いたことのないような、粗暴な怒号をあげながら。
瞬時に体の向きを百八十度変え、撃ってきた男へと駆け出す。
反応できなかったのは、今度は男のほうだった。
すぐに急接近を果たしたタイは、構えたナイフで。
男の腹部を、力一杯突き刺した。
「ぐ……ぅ、がはぁぁ……」
男は真っ赤に染まった腹を押さえながら、壁にもたれ掛かったままズルズルと床に倒れていく。
やがて、全く動かなくなってしまった。
死んだのだろうか。躊躇なく一人の人間を殺害したタイに何とも言えぬ感情を抱いてしまう。
だが、やらなければこちらがやられていた。
タイは、俺を守ってくれただけだ。これは、仕方ないことなんだ。
そう自分に言い聞かせるようにしつつ、俺は体制を立て直す。
一人は何とか斃すことができた。
あとは――もう一人だ。
「ミザクロ……ッ」
人相の悪い男に向き直って短剣を構えていると、タイがこちらに後退しながら忌々しげにそう漏らした。
ミザクロ……というのは、あの男の名前だろうか。
どうして名を知っているのか、怪訝に思っていると。
俺の疑問を表情で察したのか、タイは説明してくれる。
「……あんたの妹と一緒だよ。昔奴隷だったとき、オレを商品として扱っていたのが、あいつ――ミザクロだ」
その声からは、これ以上ないほどの強い憎悪が滲み出ていた。
そうか、タイがかつて奴隷だったというのは既に聞いてはいたが。
どうやら、この男とは個人的な因縁があるらしかった。
「それだけじゃない。オレの兄が……兄さんが死んだのも、全部ッ! あいつのせいだッ」
タイはミザクロを睨みつけ、声や表情などから異常なまでに憎しみを溢れさせる。
兄が昔死んだのも、何日か前に聞いた。
だけど、まさか殺した相手、もしくは死ぬ原因となった相手がこんなところにいるなんて。
かける言葉が思いつかず、俺はただタイと男を交互に見やるのみだった。
「んあ? あー……そういや、てめェみてえなガキもいたような気がすんなァ。俺様は奴隷商人なんかやってっからよォ。この仕事柄、会う人間も多くなっちまう。いちいち顔なんて覚えてられねえんだよなァ」
「……お前ッ!」
男の屑にも思える発言に、タイは憤慨してミザクロに飛びかかる。
しかし、相手もなかなか手練れだったらしく、軽々と躱されてしまう。
先ほどタイは、ボウガンの矢による一撃で左肩を負傷した。
きっとまだ激痛に襲われているだろうし、左肩は使えないはず。
しかも、今やタイの感情を大きな憎悪や憤怒が支配していて、冷静な判断力を失っている。
そんな状態で戦っても、苦戦するのが道理というものだった。
「はッ、そんなもんかよォ!」
「く……そッ」
短剣同士の剣戟。
お互い、それぞれの短剣を傷つけるだけで体に当てることすらできずにいた。
いや、ミザクロは躱しているだけだ。いなしているだけだ。
それだけで、全力で感情に身を任せているタイの攻撃を上手く避けている。
普段ならまだしも、今のタイだと勝てる見込みは皆無にも等しいかもしれない。
あくまで、一人なら。
だけど、俺がいる。どこまで通用するかは分からないが、俺だってロードさんに鍛えてもらったのだ。
タイと俺の二人なら、負けないはずだ。
そう考え、加勢しようと一歩踏み出す――と。
「ホーズキ、さっさと妹を連れて逃げろッ」
何度も剣戟を繰り返しながら、タイは俺に向かって叫んだ。
逃げる――。
それはつまり、目の前で戦っているタイを見捨てるということだ。
そんなこと、できるわけがない。あまり時間をかけていると、もしかしたら新手が現れてますますタイが危険な目に遭う可能性だってあるのだから。
「ふ、ふざけんな。お前を置いて行けるわけが――」
ない、と口の中で言った。言おうとした。
だけど、言えなかった。
ふと横に視線をやると、疲労が重なったためか酷くやつれた山茶花の姿が目に入った。
早く安全な場所で休ませてやらないと、精神的にも体力的にも辛いだろう。
でも、このままタイを放って逃げれば、いずれ来るであろう増援に捕まるか、最悪の場合殺されてしまう。
俺だって、できるだけ早く逃げないといけない。
どうすればいい。どうするのが、正解なんだ。
いや、長考する時間など今はあまりない。
山茶花には申し訳ないが、もう少しだけ我慢してもらおう。
タイと協力してすぐにあいつを斃し、早急に逃げればいいだけだ。
そんな考えに至り、俺はミザクロに狙いを定める。
逃げたりなんかしない。してたまるか。絶対に三人で、ここから逃走するのだから。
「オレんこと、忘れんなよ」
ふと。
斬り結ぶ音に紛れて、そんな言葉が聞こえたような気がする。
俺が訝しむ暇もなくタイは体の力を抜いた。
ミザクロは怪訝な顔をしたが勢いは止まらない。ナイフは確かにタイの柔らかい肉を貫いた、その心臓を。しかしそのせいで、ミザクロの動きは固定される。柄から手を離す前に、タイもまたミザクロの胸に刃を突き立てた。
「ぐ、うぁッ」
「か、ぁ……ッ」
貫いた。
短い悲鳴をあげ、苦悶に顔を歪ませて。
真っ赤な鮮血を、辺りに迸らせて。
二人は刺し違えた。
「な、なん、で……」
俺は、喉の奥からたったそれだけの言葉を絞り出す。
だけど、答えてくれる声などどこにもなかった。
ただ、そこにあったのは。
同時に心臓を貫かれたことで息絶えた、タイとミザクロの遺体だけだった。
視界が霞む。前がよく見えない。
涙が視覚を邪魔しているのだと気づくまで、数秒を要した。
ふらつく足取りで、タイの側へ近づく。
でも、それは動かない。音を発さない。そこだけ、時間が止まったまま。
ついさっきまで元気だった二人の人間は、こんなにも呆気なく、あっという間に生涯を終えてしまった。
その事実が、悲しくて。
守れなかったことが、悔しくて。
俺は、醜いほどに滝のような涙を零していた。
「……これは」
不意に。
涙でぼやける視界に、とあるものが映り込んだ。
タイの体の傍らに、あるのは。
淡い桃色の花があしらわれた、一つの髪飾りだった。
戦闘中に、外れてしまったのだろうか。
俺は髪飾りを拾い、強く握り締める。
これは、タイの形見だ。タイが生きていた証だ。絶対に、無くしたりなんてしない。
あまり、嘆いてばかりもいられないよな。
俺だって、決断しないといけない。覚悟は、もう決めたつもりだ。
タイの分まで――絶対に、逃げ延びてみせるから。
俺は疲労困憊の山茶花を抱え、恐怖などという感情を振り払って四階から飛び降りた。
できるだけ山茶花に負担を与えないように、それでいて骨が折れないように受け身を取りながら落下する。体が軋む感覚はしたが、止まっているわけにはいかない。
山茶花を抱えたまま裏庭から森を抜け、ただ走り続ける。
どこを目指しているのか自分でも分からなくなるくらい、ただただ無我夢中に。




