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 黒い霧、一見して、ヒポクリフトはそう思った。

 ただそれが危険なものだと理解するよりも先に、黒い霧がヒポクリフトの体に纏わり付き、その身を、魂を、穢していく。


 意識が薄れていく感覚を、ヒポクリフトは覚えていた。


 そんな最中に、ヒポクリフトの耳へと、かの者の声が聞こえてくる。


「ヒポクリフトぉおッ!!!」


 呼んでいるのは、ガンスレイブ。ガンスレイブが、私を呼んでいる。何故…あれ?そもそも、ガンスレイブって、


 誰だっけ?


 私って…


 誰だっけ?


 ヒポクリフトは、思考を乗っ取られつつあった。それこそ、黒い霧の能力にして、その実態。


 対象の体へ、魂へと乗り移り、その全てを自身のものへと、書き換えていく。一度書き換えられた魂は、二度と戻らない。仮にゴーストが体を離れたとして、目を覚ます事はない。


 書き換えられるとは、そういうものだ。一度上書きされてしまえば、以前の魂はなかったことにされてしまう。


 ゴーストとはそうやって、長きに渡る時間を、渡り注いできた。


 全てはその意思に従って。その意思とは、ゴースト自身にも分からない。自分はどのようにして誕生し、どのような存在なのかを、知らない。


 ただ絶対的な意思命令、『ガンスレイブを苦しめ、抹殺せよ』という何者かの意思に準じては、突き動かされるに過ぎない。


 その機会とは今まさに、やってきたというだけ。


 それは冒険者で、名をヒポクリフトというらしい。記憶を覗く限り、普通の人間のようだった。最近、このダイスボードにやってきたばかりの、何の変哲もない、少女。


 だったら、乗っ取りは容易に済む。以前のエルフのように、魂の抵抗は皆無に等しい。


 あの時は少々、疲れた。アルビダというエルフは、強靭な魂の持ち主だった。中々、自身の魂汚染に従ってはくれない。だからムキになって、強い汚染を施してしまった。


 強い汚染の施された魂は、あまり質が良いとは呼べない。またそのせいで、長い封印に陥ってしまった。奴が封印を解除してくれなければ、自力での封印解除は不可能であったと言えるだろう。


『さぁ、ヒポクリフトよ。その体を、魂を明け渡せ。上手くは使ってやる。案ずるな、傷みはない。ただ、虚無に帰るだけ…虚無は、素晴らしいぞ?』


 ゴーストは着々た、ヒポクリフトに汚染の魔の手を広げていく。簡単だ。何の問題はない。今度こそ、必ず上手くいく筈、


 そう思って、疑わなかった。


『!??』


 気持ちの悪い、ゴーストは突然、そう思ってしまっていた。その気持ちの悪さが何なのかは、分からない。でも、普通じゃ考えられない。強い、誰かの意思が、伝わる。


「破邪、殲滅」


 声。ヒポクリフトのものとは違う、またガンスレイブのものでもない。全く理解の届くことはないだろう、そんな声が、ゴーストへと語りかけてくる。


 何だ、これは?


「邪気、抹殺。不浄、浄化。愚者、滅殺…」


 それは祝詞。強い意思の込められた、浄化の祝詞。何でそんなものが、このヒポクリフトの魂に残されているからは分からない。


 この祝詞は、自身の強い意思さえも浄化してしまうーーーゴーストは、未だかつてない恐怖を感じ、恐れていた。


 そして、


「滅殺、滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺滅殺…」


『!??』


 ついにはヒポクリフトの体を離れた。


 ヒポクリフトの体を覆い尽くしていた、黒い霧が再び宙へと舞い戻る。また、辺り一帯を覆っていた霧が、綺麗さっぱりには失せ切っていた。


 ガンスレイブの眼に、力なく倒れるヒポクリフトは映る。


「ヒポクリフトッ!!」


 瞬時に、ヒポクリフトへと駆け寄るガンスレイブ。ヒポクリフトの体を支え、顔を覗いた。


「ガ、ガンスレイブさん?私は…」


「…ヒポクリフトよ、無事か?」


「ええ…私は…一体?」


「奴に乗っ取られそうになっていたようだ。だが、何故か奴は、お前を解放した…何故だ…」


 それはガンスレイブにも分からない。


 ヒポクリフトが何かをやったわけでもないだろう。だったら、何があった?


「ギィイイイイッッ!!!!」


 金切声。怒りに満ち溢れた金切声を上げ、黒い霧が宙を走り回っていた。


 まだ、終わってはいない。


「くそ…ホーリークラフトは全て使い切ってしまった…どうすれば…」


 ガンスレイブは舌打つ。最早、手は使い果たした。だけど、ゴーストは封印は終わっていない。また、このままゴーストが2人を逃してくれるわけもないだろう。どうせまた、追ってくる。しかも次は、もっと執拗さを増してくるかもしれない。そんな雰囲気が、ゴーストから伝わってくるようだ。


 一体、どうすれば…


「ガンスレイブ、さん…」


 不意に、ヒポクリフトがガンスレイブの手を握った。そして、バックをゴソゴソと弄ると、例の、石ころ大の水晶玉を取り出した。


 それは、ヒポクリフトの家に代々伝わったとされる、浄化石。


「これを、使って下さい…」


「浄化石か…確かに、これは封印の供物として申し分ない。だが…」


 いいのか?と、ガンスレイブは真剣な眼差しを作る。


 ヒポクリフトは、笑って、ガンスレイブに答えた。


「ええ、いいのです…これが、ガンスレイブさんの役に立つのであれば…何の問題は、ありません」


「……そうか。ヒポクリフトよ、恩にきる」


「ふふ、ガンスレイブさん、それは、こちらの台詞ですよ?」


「???」


「…私は、ガンスレイブさんに、何度も救われています。だから、こんな水晶玉一つで、その恩返しができるのであれば、何個だって、差し上げたいくらいです」


 そう言ったヒポクリフトの言葉に、嘘はなかった。ヒポクリフトは心から、ガンスレイブに感謝をしていた。


 全く関わりのない冒険者である私を、守ってくれた。確かにガンスレイブは、冒険者でもなければ、また人ではない。だけど、その優しさと、強さは、ずっと弱い私を支え、導いてくれた。その事に嘘偽りはない。だったら、信じるしかない。今はただ、このガンスレイブという、獣顔の勇者に、全てを託そう。


「ガンスレイブさん、約束ですよ?必ず、私を、地下8階層まで、連れてって、下さい」


「ああ、もちろんだヒポクリフトよ。俺がこの命に代えても、お前を地上へと返すと、誓う」


 ガンスレイブの眼に、強い意思は灯る。その眼に灯ったものは、先程見せた憎悪の炎でも、復讐の眼光でもない。それは、ただただ純粋なる、決意の輝き。


 ガンスレイブは、ヒポクリフトとの約束を(たが)ない。もう二度と、交わした約束を裏切らないと、自身に、そしてヒポクリフトに誓う。


『アルビダよ、見てくれているか?』


 かつてのエルフの女が、走馬灯のようにはガンスレイブの脳裏を走り過ぎる。そのエルフは、眩しい笑顔を、ガンスレイブに見せていた。過去に置き去った記憶の中で、やはりアルビダは、ずっとアルビダだった。


 だったら、アルビダはまだ死んでいない。俺の中のアルビダが生きている限り、アルビダのあの笑顔は、誰にも(けが)されてなんかいない。


 だから、俺はもう寂しくないぞ、アルビダよ?


 何故なら、俺はもう、一人じゃない。


「ゴーストぉおおおおおおおッ!!!!!」


 ガンスレイブの咆哮が、空間を制圧していた。


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