選評/八雲 辰毘古
突発的に起こった本企画だったが、思わぬ多数の方々の参加をいただくことになった。なろうの片隅のマイナー作家の立ち上げた企画にしては実に幸先の良いスタートである。これも協力してくれた数多の方々の御蔭である。先ずはこの場を借りてお礼申し上げる。
さあ、選評である。
良い紹介文について私が考えることは多く、その条件を挙げるときりがない。それは考察のなかできっちり書いた筈だし、読んでなかったとしても、おいおいわかるだろう。
レビューのなかで、紹介者は実に多くの意匠を凝らして読む側を説得しようとしている。自分なりに作品を解説する者、作品の魅力ポイントを抽出する者、「とにかく読め」と結論づける者、優しく親しみのある言葉を使う者、作品の背景を述べる者、作品を見つける自分を書いた者、批評をする者……諸君はレビューという文芸のなかに、さまざまな方法を見つけるだろう。ただのレビューと侮るなかれ。ここには紹介者のさまざまな創意工夫がある。一見ふざけているように見えたとしても、そこには紹介者の緊張がある。ただ成功したか否かの差しかない。ここで悪いところをあげつらっても仕方ないではないか。私は敢えて褒め称えることのみに専念する。
そもそもレビューは作品を褒めるために存在する。それは自分の体感した感動を言ノ葉に綴り直すことに始まる。これがなかなかむつかしい。あまり抽象的に書くと言葉が空虚になるし、具体的にすると作品解説になる。感動だって、行きすぎると酒に酔ったような昂揚とした文体になるし、抑えすぎると取扱説明書のように堅苦しく無味乾燥とした文体になる。レビューは、ひょっとすると小説よりもむつかしい。そこには常に自分が居る。自分と葛藤しなければろくなレビューも、批評も、書けない。好い作品を観るのは審美眼だが、それを徹底して解体するところに批評の基礎がある。小説を書くのには要らないかもしれないが、あればその分人生は豊かになるだろう。私はそういうものだと思っている。
さてまた前置きが長くなった。紹介文の批評に移りたい。今回の企画のなかで個人的に心惹かれたのは六つほどある。
一つは足軽氏のものである。《ギヤマン……》と始まるレトリックは、それ自体が偽史明治の世界観の反映であり、自身の読後感の表現である。ここで平たく「ガラス」と書いてしまえばそれだけ喪うものが大きかっただろう。それだけではなく、少なくとも足軽氏はあらすじの“解説”を「敢えて」しなかった。彼は作品の感動を、素朴かつ強力な比喩でつづり、その後から根拠となる作品世界に触れる。あたかも宝物を丁寧にためつすがめつするかのように。その眺め方には、どことなく無邪気な少年にも似た、ふつふつと沸き上がる情熱がある。みごとに映し出された純粋な感動がある。つまりそれは一つの詩なのである。
レビューそのものに熱さを感じるのならば、やはりその道で名の知れたベギンレイム氏のものも凄い。巧いだとか、美しいだとか、正当性があるだとか、そういうものではない。ただ彼自身が見出した作品を語るのである。そのことに強く惹かれた。彼の言葉ははっきり言えば乱暴だ。私は敢えて彼の『俺の親知らずを抜いていけ』評を薦めよう。ベギンレイム氏ははっきりと主人公をバカで、アホで、《どうしようもないダメ野郎なのである。》と断じている。根拠らしい部分は後述されてはいるが、これはもはや殆んど独断である。彼は「作品」そのものを語ってはいないのである。しかし、このことを非難する積りはないし、これらベギンレイム氏のレビューの価値を減じない。むしろ高める。彼は「自分が観た作品」を語る。ゆえに彼のレビューを読むとき、吾々は、彼と同じ驚きと感動を味わうのだ。
《そんな奴が、そんなどうしようもないクソ野郎なちっさい奴が、なんかカッコイイからというしょうもない理由で始めた指パッチンの特訓の末に、兵学校の授業中、遂に初めて指パッチンを成功させた瞬間、
世界が、止まった。》
これは他ならぬベギンレイム氏の驚きであって、私でも、あなたでも、況してや第三者の驚きではない。しかしこの表現のなかに吾々は彼自身の驚きを観る。その読みが正しいかどうかは知らないが、こうした表現を積み重ねたところに、読み手は彼の読書体験をまるで自分のことのように感じるのである。
時期が時期なので、今回の彼の紹介文はやや散漫だ。しかし、彼自身のレビューは練りに練られている。並の作家の比ではない。平気で五六は改訂する。紹介文そのものではないが、今回載せた彼の『ラグナ録。』へのレビューは、おそらく彼のレビューの最高傑作だろう。そこには彼の読後感の全てが表れている。読後に溢れ出す感動に、突き立てられるようにして書かれたものほど、彼のレビューは力強くなるのだ。こういうのを指してレビューの力というのだと、私は思うのだ。
『ラグナ録。』に触れたので、私はベギンレイム氏とは異なるアプローチでこの作品に迫った綾埼氏のものも挙げたい。
自らの内で燃え盛る感動から作品を語るベギンレイム氏の手法とは異なり、綾埼氏の手法は一見ただの作品解説のように成っている。彼の言葉は《きゃのんたむさんは、迫る大火を予期させる静けさから爆発的に伸び上がる最高の伏線回収を得意とされている方だ》と作者を褒めるときに一番強い個性を見せるが、それ以外の箇所はむしろ穏やかだ。あたかも自分を韜晦させているかのごとく、言葉は慎重になり、作品の中身のみを書いている。だが彼の真価はここにある。彼は作品を説明しつつも、実に魅力的に描いている。むろん、読んだときの感動や作品の充実度があるのであろうが、その手法は足軽氏のものとも、ベギンレイム氏のものとも異なる。つまるところ、レビュー内で綾埼氏は黒子に徹しているのだ。そしてその逆説的な手法によって初めて彼は作品を巧みに語り出すのである。彼の黒子のような語り口は、結末部分の欠如によって完成する。「消えた言葉の先を埋めるのは、これから作品を読む人自身である」という、或る意味でレビューの本義を全うした中身なのである。つまり、彼のレビューとは、第三者に手渡されるべきバトンなのである。手渡された読者は、そこからさらに一歩進まなければならない。そう感じさせるのだ。
似たような手法を用いたのは観月氏である。彼女もレビューの結末を曖昧にしている。おそらく計算ではない。しかしこれは思わぬ効果をもたらす。なにせ冒頭からの流れが独特なのだ。
《人は、生まれ落ちた瞬間から壊れていくものだと思う。癒せる傷もあるかもしれない。でも、癒すことのできない傷を抱えながら、人は死ぬその時まで体も心も少しずつ少しずつ、傷つき壊れながら、この世界を生きていく。》
なにやら大上段に構えたような書き出しだ。しかしこれは作品を語る前口上であり、無くてはならぬものだった。この冒頭が文脈を作り、作品解説めいた本文を不思議な色に塗っている。それはどことなく憂いの影を帯びて、夢幻の世界を描き出す、なんとも言えぬ陶酔感。……私自身の好みだと言われればそれまでだが、わかる人にはぐっと迫る感覚に彩られているのである。こうした表現世界を築くことこそが、作家はもちろん、レビュー書きにも必要なのだ。
独特な表現世界というなら、太ましき猫氏のものも見逃せない。この紹介文は、非常に独特な骨組みを持っている。冒頭は作品世界を表す。ファンタジー好きにはたまらない素材をみごとに選り抜き、表現しきっていることに驚きを禁じ得ない。だがそれ以上に独特なのは、自身の造語である。「読み触り」というのは、また奇妙な言葉であるが、違和感はない。むしろ言われればよりしっくりと来る。本読みにとっては馴染みやすい感覚を表している。ここに最も強く表れる氏の表現世界は、やがて丁寧に作品の筋をほどき、読者の前に提示して見せる。一番秀逸なのは、氏によって編まれた「あらすじ」である。編集の都合上、あとがきに回すことになったが、このあらすじを読んで惹かれぬ読者が居たらきっと疲れているか、感性がすり減って使い物にならなくなったかとどちらかだと思われる。それほどまでに、自分の言葉で作品世界を表している。作家が小説のなかで作り出す独特の雰囲気を、そのまま切り出して見せる手腕に秀でているのだ。
さて、どうも私は結論をあとへ引き延ばす、悪い癖があるようだ。どうせならさっさと言ってしまおう。今回の最優秀賞は、本宮愁氏である。讃えるべき点は非常に多いが、どうしてこれがそうなのか、というところから書くことにする。
これは単純な話で、「最優秀賞はどうする?」と私が二人に尋ね、三者同様に「本宮さん」と一致したからである。あとから気づいたのだが、三人が「好い」と思ったのは足軽氏、太ましき猫氏のものもあった。私個人の意見を申し上げるならば、足軽氏のものはあまりにも個人の感性に根差されたものであるがゆえに、太ましき猫氏のものは独特な表現世界に自ら歯止めを効かせ、紹介に徹してしまったことに差異があるかと思われる。
むろん、だから悪いのだとは言わない。本宮氏のレビューは、本宮氏にしか書けないから素晴らしいのであって、真似などできるわけがない。そうしたらたちまち「似せ物」になる。それだけの個性を彼女はレビューのなかで発揮したのである。
そもそも、彼女のレビューは異色である。独特の趣向を凝らした文体、語るのは作品ではなく、己れである。しかも彼女はレビューではないと自ら述べ、これを告白、体験記だと云う。なるほど、これは若しかするとレビューではないかもしれない。一種の告白文学である。だがそれゆえに一層レビューらしく、強烈な表現世界を築いたと云えば、それは矛盾だろうか? 彼女もやはり、自分の内側に映った作品を描いたのに過ぎない。それも飛び切りの言葉を、惜しむことなく使い込むことによってそれを描き上げた。その完成度はとんでもない。自己完結している。ここについてはジョシュア氏が一番触れているので繰り返しはせぬが、《私とおなじ体験を、衝撃を、きっとあなたは味わえない。その代わり、いつか私の知らない体験を、衝撃を、別のどこかで味わうことでしょう。》と断言してしまう態度には、余人にはない覇気がある。これが逆に読み手を圧倒するのは、なんとも皮肉な話だ。だがここに彼女の確信がある。
「一つの作品はそれ自体では完成しない。読む人各々の心に映ずることによって初めて完成し、感動が起るのだ」と私は勝手に解釈している。
そもそも作品を読むとは不思議な行為である。なんら実用的な益にはならぬし、エンタメならともかく、わざわざ時間を掛けて読んで気分が悪くなることすらある。アリストテレスは芸術の作用を「感情の排泄」に見出したが、これだけには収まらぬ謎が、作品を読む態度のなかには混在している。感動と云う作用は、小説を読んだ人全員に与えられるものでは決してないと云うのが重かつ大なのである。それは二足す二が四にはならないと云うくらいおかしなことではないか。好い作品を読めばそれ相応の感動はあろう。しかし飛び切りの感動はいつ起きるかわからない。メディアの喧伝する「名作」を観ても感動しないときだってある。逆に友達の書いた何気ない一文に滂沱と泪を流して感動することだってある。いくら通のものが「傑作」と呼ぼうと、たとえ読む側がそうだと認めていたとしても、それが感覚に合わないなら縁はない。千載一遇のチャンスに頭痛でもしてたらお終いなのである。つまり、「本当に好い作品に出逢う」と云うことは、「好い中身の作品を見付ける」のではなく、「見出した作品と、読むコンディションが最高に合う『私』」がいることで初めて成り立つのだ。
このことを確信した読者は少ない。本宮氏の述べる《衝撃》とは、作品そのものと、本宮氏の読む態度が最高潮に合致したゆえの化学反応なのだ。これが、読者の憧れて止まない至福の感動と云うのではないだろうか。そのために吾々は当て所もなく彷徨い、作品を求め続けるのではないだろうか。だが好い「作品」を見つけても、好い「出逢い」は起きない。作品の方が足りなかったのか、それとも読む主体としての私がどこかへ逝ってしまったのか……ともかく似たような感動はあっても、同じ感動と云うものは二度と来ない。それは自分と他人とのあいだにも、過去の自分と現在の自分とのあいだにも存在する。
だがそれはたまに時間を超えて甦る。冒頭に私が書いたのは、つまりこのことである。作品を読んで感動した「私」は常に過去に居る。しかしレビューを書く「私」は感動した瞬間の「私」ではない。感動しながら文章は書けない。感動は人を黙らせ、言葉を喪わせるからである。文章を書くのは感動を思い出す「私」でしかないのである。レビューや批評と云うものは、実にこの矛盾をはらんで書かれなければならない。だから一歩間違えると解説になるし、詩にもなる。本宮氏の場合はとくに「告白」と云う形となって強く表れた。だがそこには鮮やかに甦った感動がある。吾々は彼女の感動を受け取る。正直言ってなにがなんだかわからない。わからなくていいのだ。それは彼女の感動であって、吾々一人一人がいずれ覚える感動ではない。わかるわけがない。だがそれは「とにかく読め」と脅迫するがごとく書くレビュワーたちが、千人束になって掛かっても敵いはしない厳然とした態度の表明でもある。それは「紹介文とは読者に作品を読ませる案内板である」と思い込むような人びととは一線を画し、一つの普遍性に到達する深みがある。読書の真髄が潜んでいる。そして強い感動、想いがある。
私を含む審査員三名は、こうして迷うことなく最優秀賞を決したのである。




