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なろうレビュー祭り2014  作者: レビュー祭り運営委員会
間章4
27/41

八雲 辰毘古『模倣と流行、そして個性と独創』

 私はなろう界隈やライトノベル業界の流行り廃りなんてものにまったく興味がないのであるが、今回はその話を抽象的にしよう。


 そもそも流行に乗るのは容易いことだ。VRMMOだか異世界転生なんだか知らないが、「大国のバスに乗り遅れるな」と云う魂胆が、透けて見えるような作者にはてんで興味が湧かぬ。流行に乗るのは作家の仕事ではなく政治家の仕事だろう。こういうところで「流行に乗れば私も有名人になれる」と云う幻想を抱くのは勝手だろうが、人心掌握の(すべ)を得て手にした名望は、作家のそれではないことをお気付きだろうか。読者の感性に(おもね)って作られた作品は常に一過性のものに過ぎない。なぜならそれは一般論であり、何も深く突いていない(むしろ突く努力を怠っている)からである。

 むろん流行に逆らえというわけではない。しかし流行に流されるようでは好い作家にはなれない。現代に活きる作家たちの、名だたる作品を観れば、その作品には「この作者でなければ決して書けないだろう」と思わされるような中身が詰められているのを見つけられる筈だ。ライトノベルとて例外に漏れぬ。かつて文学では「文は人なり」と言われたが、この(ことわざ)はまだ死んだようには見えない。模倣者よ、作者を甘く見ない方が良い。最も恐ろしい作者の作品とは、いかにも普通一遍のことを述べているようでいて、模倣しようとしてもできないのである。「姿は似せ難く、意は似せ易し」と云う諺をたんと身に沁みて考え直すと好い。


「姿は似せ難く、意は似せ易し」と云う諺を見て、諸君はきっと驚かれるだろう。通常はその逆だと思われている。「意」も知らないで口先だけを合わせるのは、「意」を知るよりも簡単なことだと信じているのだ。パソコンでコピー&ペーストがしやすくなった今日において、その信仰はなお跫固(きょうこ)になりつつある。だが考えても見よ。「意」はやはり似せ易いのである。人の考え方に雷同するのは実に簡単だと云うことに気付きやしないだろうか。それは流行に乗ることとまったく同じである。「貴様の云うことは尤もだ」と頷き、その考え方に雷同する。そうしてできるのが流行と云うものである。

 流行とは常に集団的だ。だが集団的なものは責任を取らない。勝手に起きて勝手に滅びる。ゆえに流行は大きな影響力を持つ。この世で最も自由なのは責任を持たない行為なのだ。そこには倫理も真善美もありはしない。あるのはただ数の力によって押し曲げられた正義だけである。そして数に圧倒された諸君は流行をさもありなんと納得し、その愚者の行進のなかに身を投じようとする。負うべき責任を捨てれば楽になろう。だが本当に独創的なものを作ろうと考えるならば、そこには常に責任が伴うことを知らねばならぬ。責任を背負うと云うことを知らなければそこに「姿」は生まれない。


 決して雷同ではないものを持つことが、「姿」を持つことである。それは模倣者の大群が束になって掛かっても解けないような意匠を凝らすことではない。己れの表現一つ一つに責任を負うことで成り立つのだ。責任を負うとは、極端な例だが、つまり作者が死ねば事が収まるように自己を管理することに他ならない。世の中には「テンプレート」と呼ばれるようなありふれた物語素材が無数にあるだろう。しかし選んだが最後、作者はそこに本当の最後まで向き合わねばならぬ。これを徹底させる作者は少ないし、それをやってのけた作者に賛辞を送る読者も少ない。徹底的に素材と向き合い、これと戦い、作品を創り上げるという、そのことだけで作者は好い作品を書けるだろう。なぜならおおかたは徹底させるまでもなく、飽きるなり、素材と戯れるなりすることで、作品を台無しにしてしまうからだ。しかし一方で読者も、徹底した作者に対して何も言わないのは残念である。読者は作者ではなく作品に対して賛辞を送ってしまうのだ。だが作品は作者ではない。作品がいくら優れていても、それを創り上げるまでの作者の葛藤に比べたら遥かに易しいものではないだろうか。そういう意味で、読者は「意」に雷同してばかりで作者の「姿」を観ていない。アマチュア作者が流行に乗った風に書いた作品が、どうにもオリジナルに劣るというのは、結局のところそういうわけだ。


 いつの世も言われることだが、《個性》のない作品は駄作である。しかしこれは何が駄作なのかというと、中身がつまらないということである。「私とあなたは人類であり動物である」というような、毒にも薬にもならない一般論を書いてしまうことである。それは安易な逃げであろう。作者の貧弱な「姿」が見える。

 それだけではなく、エゴを「個性」だと勘違いした作者の作品もまたつまらない。それは作者が、俺の鼻が高いぞ、とか、私は一重瞼だよ、と自慢するようなもので、それは(仮に友人や知合いには通じたとしても)ちっとも赤の他人には面白く感じられないのである。鼻が高いのは、一重瞼なのは、「個性」などでは決してない。それはただの特徴であり、ただ他と変わっていると言うだけのことである。なんら自慢の種になるようなものではない。むしろそういう意味での「個性」は、積極的に批判し、克服しなければならない。その克服する精神の「姿」が本当の《個性》である。こうした「姿」は誰にも真似できるものではない。そうではないだろうか?


 昨今の作者は、独創性というものを酷く勘違いするようになってしまった。むろん立派な文学者や芸術家は違うだろうが、何せ誰でも創作に携われるような御時世である。人の発想を剽窃(ひょうせつ)したり、模倣したりすることで(そし)りを免れない様だ。だが日本の創作伝統は常に模倣と剽窃があった。技は盗むものだったし、王朝和歌はしばしば本歌取りで詠まれた。世阿弥は「物学」と書いて「ものまね」と読ませているくらいだ。模倣と剽窃がなければ、芸は上達し得ないだろう。確かに海賊版のごとき利権の絡むことは問題であるが、それは創作そのものの問題ではない。

 私が心のそこから(いぶか)しんでいるのは、創作者各々が、自作を模倣されたり、剽窃されたりすることを怖れていると言う事実そのものだ。これはつまり、似せ易き「意」を作品の本質と誤って捉えているからこそ起きる事態であって、これはあまり好いことではない。まるで独創性というのはアイディア一発勝負の早い者勝ちであり、「自分のような人間が二人以上居ては不都合だ」ということを主張するために独創性という言葉が用いられているようにすら思われてならないのだ。これは本当の《個性》とは言い難く、独創性とも言えない。本当の独創性とは、模倣されても、剽窃されてもびくともしない確固たるものなのであり、それこそが「姿」を持つことなのである。


「姿」を持った作品はそれ自体が立派である。威風堂々としているからそうなのではない。わかる人には「この作者にしか書けまい」と直観させるからこそ立派なのである。この「姿」を発見してこそ初めて人は「文は人なり」と言い得るのである。いかなる模倣や剽窃も、その人自身にとって代わることはできぬ。代わることができるのは意匠であり、盗むことができるのは権利でしかない。しかし本当の《個性》、「姿」を持った作品は、盗むことも真似することもできない。ゆえに人びとに憧れを抱かせ、多くの模倣者を生むが、彼らが模倣するのは似せ易き「意」の方でしかない。剽窃しやすいアイディアを借りたところで、「姿」を持たぬものには永遠に猿真似しかできない。「姿」を知らぬ模倣者が書くのは常に「似せ物」だ。そんなものに興味はない。そんな作品はせいぜい三日天下を楽しめばよい。あとで集団自殺をしようが、読者は知らんぷりするだろう。

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