主催の八雲 辰毘古より長い挨拶
例えば面白いアニメを観たとする。オープニングからエンディングまで、寸時も目が離せないような、とびきり面白いアニメだ。そしてそれを観終わったとき、深い感動が残る。しかしそれは長続きしない。何故なら吾々はアニメのなかではなく、肉体的な現実の方を生きているからである。アニメが完結したからといって、人生は完結しない。むしろ観終わってから人生が動き出す、と言っていい。いつまでも感傷に浸っているわけにはいかない。ゆえに吾々は日常に引き戻される。そして日常世界のなかで、忙しなくやっているうちに、かつての感動を忘れて行ってしまう。
だが不思議なことに、なにかの拍子にこうした感動は甦る。吾々は、例えば青空を仰ぐときや、本を読んだときや、食事をしているとき、或いは転んだときに何かを思い出すことがある。幸せな記憶かもしれない。不愉快な記憶かもしれない。だがそれらはとにかく、表現しようとしても尽くせないような、怒濤の奔流となって甦るのだ。そうした思い出す機会のなかで、一番端的なものは、アニメのオープニングやサウンドトラックが、何か別のところで流れているのを聞いたときではないだろうか。どこかで聞いたことがある、と思った曲が、実は昔観たアニメのオープニングソングだった、なんてことは現代にしばしば起こり得るように思われる。アニメだけではなく、映画の主題歌でもなんでも構わないのだが、そのなかでもとりわけ思い入れの深い作品に関わりがあるきっかけならば、そこから映像が思い浮かび、キャラクターやストーリーと密接に結び合わされ、かつて味わった感動がそのままに甦るなんてこともある。それどころか、ふと「帰りたい」とすら思うことがある。作品を読み直すのはそういうときではないだろうか。驚くべきは、思い入れのある作品は心のふるさとになっていると云うことだ。そういう想いに人を駆り立てるものこそが、人をして「傑作」や「古典」と呼ばしめる。本当に読み返されるかどうかはわからないが、本当の「傑作」は再読に耐える。二読三読どころか百回読まれることにも耐えられる。そしていつなんどき読んだとしても、「傑作」はいつも出迎えてくれるような、懐の広さを持っている。そういったものがやがて時の試練に耐えて、「古典」となる資格を与えられるのだ。
むろん合う合わないの問題もある。好き嫌いの問題もあるし、わかるわからないということもある。万人に共通する価値尺度はそう滅多にあるものではない。しかしわかる人にはやがてわかるものだ。一回目でわからなくても、百回目で初めてわかるということもある。その事実はあたかも作品が難解であるとして、現代では敬遠されがちなものであるが、案外「傑作」とはそういったところに潜んでいる。もちろんメディアに広く触れて回されるような「名作」のなかに「傑作」があることもある。それは黙っていてもわかるのだから、苦労はない。だがメディアで広められる「名作」とは、ある種の流行でもある。流行に乗るということは、インフルエンザに罹るよりも簡単なことだ。簡単でわかりやすいからと言って、それが「傑作」であると錯覚してはならない。逆に一見して面白くないからと言って、駄作だと断じてはならぬ。「文は人なり」という諺がまだ活きているとするならば、好い作品に出逢うことは、良き友に出逢うようなものだ。本当に心通い合う人を見つけるマニュアルなぞ存在しない。そして他人の手助けは借りても、最終的にそれを見出すのは自分以外の何者でもあり得ない。友人の友人が自分にとって友人ではないように、或る読者にとっての「傑作」は、その人自身にとっての「傑作」なのであって、余人に通じるものとは限らないのである。
ところで、世の「傑作」に飢えた読者の一部は怒りの声をネットに散らかしている。「作者よ、もっと良い作品を書け」と。だが具体的に誰に対してだろう? 実は気付いてないだけで、「傑作」と呼べる作品はそこかしこに散らばっている。なぜ気付かないのだろう? これは作者の怠慢ではなく、読者の怠慢なのだろうか? 欲しいものをキーワードから検索できるようなインターネット時代において、読者は「傑作」に巡り合う機会に恵まれるようになったがごとく見える。私はやったことないからわからないが、おそらく「小説 傑作」と打てば直ぐに情報にありつけるだろう。そういう時代に吾々は活きている。だが道具がいくら便利になっても、読者は「傑作」に巡り合えないのである。これは事実だ。試しに「小説家になろう」のエッセイランキングを見よ。このサイトの偏りに対する不満の声が実に無気味にわだかまっているではないか。だが彼らの批判には大した意味を持たない。ランキングとはつまり「流行」を表すシステムでしかないということを、見逃しているからだ。有名だからと言って「傑作」だとは限らない。テレビでしばしば見かける有名人がある個人の好みに合うか合わないかと云うような話題をランキングと言うシステムは決して保証しない。
作品と読者の関係は常に一対一で行なわれる。作品の良さを強く保証するのはランキングシステムなどではない。個人だ。作品を読んで感動した個人だ。それは別の或る人にとって親しみやすいものでもあれば、まったく取りつく島もないものかもしれない。どういうものが好まれるかわからない。だが、諸君は「傑作」に出逢ったとき、こう直感するはずだ。「この作品は俺のためにあるに相違ない」「この言葉はきっと俺にしかわからないだろう」「俺以外の誰がこの作品を理解できようか」などという、或る種傲慢にも見えるかもしれない反応が自分のなかに見えたとき、読者は、初めて作品と一対一の関係を切り結ぶ。そこでは数字も、他人も切り離され、初めて読者個人の価値観が試される。初めはわからなくてもいい。だが二度三度と読むうちにわかってくる。わかった先に何があるのか知れたものではないが、そうやっているうちに、諸君は本当に良いものを見出せるようになる。
本企画で揃えられた紹介文たちは、参加者によって見出された作品たちだ。どれが、誰にとっての「傑作」であるかということは、誰にもわかるまい。ただ私自身が切に思ってやまないのは、ランキング・システムや小説Pick Up!ではない別の指標として、本企画が役に立つことである。この小さな企画が、読者にとってのよりよい作品に近付ける一歩となり得ることである。さて、前置きが長すぎた。次のページへ飛ぶといい。