悲しみの先
サラが公爵令嬢となって9年が経った。
サラは14歳となり子供から大人の女性と進化する真っ最中である。母譲りのフワフワの金髪と蒼い瞳はそのままに、平民のパン屋の娘は立派な貴族の娘へ変化を遂げていた。高価なドレスに手入れがいき届いた身体を包み完璧な所作はまさに公爵令嬢の名に恥じるものではなく、窓辺に立つ姿は1枚の絵のようだ。しかしその顔はどこか暗い。
コンコン
庭を見渡せる窓の前に立っていたサラが顔だけ音がした扉へ向けると、ほどなく侍女に案内されて青年が1人入ってきた。
「お嬢様、旦那様がお呼びだそうです」
「……わかったわ」
侍女に言われてサラは開かない窓から身体を離すと青年の側に行く。青年に笑顔で手を差し出されたのでソッと手を重ねた。
「では行きましょうか、お嬢様」
「……よろしくね、アオ」
青年――アオにエスコートされたサラは侍女に見送られながら部屋をあとにした。その際扉の前に立つ2人の護衛がサラに軽くお辞儀をする。
開かない窓。
常に付いてくる複数の侍女と護衛達。
出ることのない外出許可。
今も久々に部屋を出れたが、そんな時はアオがピッタリとサラに密着し離れない。軽く添えられただけのはずの大きな手がサラには鎖のように感じられた。
――ねぇ母様、何故こんな事になったのかしら?
心に思い浮かべた母は変わらない笑顔でサラに笑い掛けるだけだった。
4年前サラ母が死んだ。サラ当時10歳。
予想通りサラ母は屋敷からほとんど出ることがなかったが、それでもサラや公爵家の人達とパンを焼きながら楽しそうに暮らしていた。
男はサラ母を大切に大切に愛し、サラにも本当の娘のような愛情をくれた。ジャーナルもコッソリと母に甘えつつ存分に可愛い妹を愛でていた。
ところが。
笑いに包まれて幸せな日々を過ごしていた公爵家だが、ある日突然サラ母が倒れた事で日常が一変した。
何人もの医師に診せ、しまいには王専属の筆頭宮廷医師まで引っ張りだしたが原因不明の病として確たる治療法が見つからない。そうしている間にサラ母はベッドから地力で起き上がれなくなり、食事が食べられなくなり、だんだんと痩せ細り、そして公爵家の必死の助力の甲斐なく倒れてから2か月後に眠るように亡くなった。
かなり細くなったサラ母を男は涙を止めることなく無言で抱き締め続け、サラとジャーナルもお互いにしがみついて泣いた。
――その日を境に公爵家から笑いが消えた。
男は以前にも増して仕事に打ち込み、ジャーナルも無口になった。使用人達の仕事ぶりは変わらないが皆どこか沈んだ毎日が過ぎていった。
そんな中、最初に声を挙げたのはサラだった。
「おはよー父様!」
「あ、ああ、おはようサラ」
「兄様もおはよう!」
「っ、おはようサラ」
朝いつものように食堂に来た2人を迎えたのは笑顔で元気に挨拶するサラ。サラ母が生きていた頃はよく見かけた光景だが、亡くなってからは初めてだった為2人は驚いた顔をした。それを見てサラがまた笑う。公の場では隙のない令嬢の振る舞いを身に付けたサラがこうやって砕けた言動をするのは身内の前だけだ。
「今日は私がパンを焼いたのよ」
サラ母がよく自分で焼いたパンを食卓に挙げていたからサラもよく手伝っていた。
「美味しい?」
「……ああ、旨いな」
サラ母が死んで以来パンを食べようとしなかった男が何かを思い出すように噛み締めながらパンを口にする。
「当たり前だよー母様直伝だからね!」
「そうか……そうだな。確かにカロリーナのパンの味がする」
サラ母の死と共に無表情になった男はパンを食べながら久し振りに笑った。それは小さな小さな微笑だったが確かに笑ったのだ。サラはそれを見て小さく安堵の息を吐いた。
「兄様はどう?これ前に母様と3人で作ったパンよ。覚えてる?」
「……覚えてる。あの時は君がウッカリとパンの粉を頭から被って真っ白になったんだったよね」
「まあ!そこは忘れてくれていいのよ!意地悪な兄様ね」
過去のウッカリミスを指摘されて顔を真っ赤にするサラを見てジャーナルも笑う。
「頭からか。それは凄いな」
「あ、はい。報告せずに申し訳ありませんでした」
恥ずかしがるサラが可愛くてついつい「父様には黙ってて!」というお願いに頷いてしまったが、 父を除け者にしてサラ母と秘密を持つなど怒られるかもしれないと思いジャーナルは謝罪した。
「いや、実はその日の夜にカロリーナから聞いていたから知っている。カロリーナに聞いた事を内緒にしてあげてと言われたから知らない振りをしていただけだ」
どうやらすでに母からバラされていたようだ。よかったと胸を撫で下ろすジャーナルの隣でサラはまさかの母の裏切りで父にバレていたと知り顔が真っ赤である。
「母様の馬鹿ー内緒って言ったのにー!」
「ははっカロリーナが私に秘密を作るわけがないだろうサラ」
「その通りだけど恥ずかしいー!!」
男が笑い、手で顔を隠すサラをジャーナルがヨシヨシと慰める。その様子を部屋の壁際から見ていた使用人達は涙ぐんて見ていた。サラ母が亡くなってから火が消えたように静かだった公爵家に久し振りに光にが射したような朝の風景だ。
今朝早くに厨房に来たサラに調理場を貸してくれと言われて使用人達は驚いた。昨日までの意気消沈振りは見られず落ち着いた様子だったからだ。
『もうクヨクヨするのは終わりにする。こんなの私らしくないし、母様だって悲しむもの』
そういって笑いながらパンを捏ねる姿は生前の奥様と重なるモノがあり、料理人達は涙を溜めながらウンウンと頷いたのだった。
『取り敢え父様と兄様を笑わせるわ』と宣言した通りサラは見事に2人を笑わせた。やや自らのHPを削ったのは予定外だったが。
サラ母は明るく元気な女性だった。淑女の作法を身に付けてからもその明るさは変わらず、公爵家を照らす光となっていた。その母が理由で公爵家が悲しみから抜け出せないなんてきっと母は悲しむ。そう思い至ったサラは止まらなかった涙をキュッと拭い決意した目と共に立ち上がる。
この家を母様がいた時みたいに明るく元気にするんだ!
その目標を胸にサラは頑張った。出来るだけ明るく振舞い、笑い、動いた。働き詰めの男には休憩を取るように言ってお茶の時間用の手作りお菓子をもたせたり、無口になった兄には積極的に話し掛けたりした。庭師に頼んで庭に新しい花を植えたり屋敷内に飾ったりと視覚的にも明るくしてみたりした。
そんなサラの様子を見て使用人達もハッと気付く。お嬢様が頑張っているのだから自分達だって!と協力して取り組み、公爵家全体で旦那様とジャーナル様を元気付けよう大作戦が決行される事となった。
と言っても主に実行するのはサラなのだが。しかも何故か最終的にHPが減る事態になるのはどういう事か。母はサラの恥ずかしい話をほぼ2人に包み隠さず伝えていたせいだろう。母様の馬鹿(泣)!
サラが羞恥心という槍でチクチクと精神を攻撃されつつも頑張った甲斐があったのか、2人は以前と同じように笑顔が戻り公爵家全体も明るさを取り戻していった。
サラ母がいた頃のように、とはいかないが辛い思いを乗り越えて新しい日常が始まった――かにみえた。
最初は些細な事だったと思う。
「――え?」
サラは男からの伝言を侍女から受けとり、被ろうとしていた帽子を下げた。今日は街にお買い物に行く日だったのに、行く直前の今になって急に男から外出を中止するように言われたのだ。
「この前の遠出も中止にされて久々のお出掛けだったのに……」
最近男がよくサラの予定を中止にする。当主である男が中止と言ったらどんな予定も中止だ。不満はあるが、仕方がないとため息を付きながらサラは帽子を侍女に渡した。
最初は外出を制限されるくらいだったが状況はそこで止まらず。いつからか完全に外出禁止となり、庭にも男の許可がないと出れなくなり、今では部屋の前に常に護衛と称した見張りが立ち廊下へ出るにも儘ならなくなった。外に出たいと言っても皆口を揃えて「旦那様の許可が出ましたら」と言う。勿論何度も食事時などに言っている。しかし全くとりつく島がないのだ。「駄目だ」の一点張りでサラは途方にくれた。ジャーナルも何故か味方になってくれない。
一体どうしたと言うのか。これでは、これではまるで――
「――まるで母様の時みたいだわ」
サラは自分で言った言葉にハッとして思わず口に手を当てた。
男は確かにサラ母を大切にしていた。大切に大切に仕舞い込んでいた。屋敷の外には出さず、他人とも会わせず、常に護衛と侍女をつける程に大切に。サラ母は「仕方がないわね」と笑っていたが、ふとした瞬間外を開かない窓から眺めていたのを幼いながらに覚えている。
サラはゾクリと身体に悪寒が走り身体を両手で抱き締める。 何故。どうして。最近は2人とも笑顔が増えて昔みたいになってきたのに。
母は男の愛を感受したが、サラには無理だと思った。閉じ込められて外の世界と切り離されるなんて嫌だ!
――後日、サラは屋敷を逃げ出した。
【時系列】
前部:2年前。サラ14歳。
後部:6年前。サラ10歳。