ジャーナル兄様
「何もしなくていいからカロリーナは僕の側にいて」
最早断れないとわかっていてもサラ母は一応無駄な抵抗をしてみた。曰、自分のような庶民に公爵家夫人は務まらないと。その返答がこれである。
まさか本当に何もしないわけにはいかないだろうと思っていた母娘は、小さなパン屋兼住居から馬鹿みたいに大きな公爵家のお屋敷に引っ越してきた当初これから一体どうなるのかと緊張感一杯で過していたのだが――
――どうやら本当に何もしなくていいらしい。マジか公爵家。
「恐らく(絶対カイル様が他の方にカロリーナ様を見せたくない為に)しばらくの間(どころか余程の事がない限り)はカロリーナ様には家にいてもらう事になると思います(というか確定です)。ですので屋敷の中で好きにお過ごし下さい」
パン屋でも男に付き従っていた老人――公爵家の従者長を始め、母娘は公爵家からは予想外に「奥様」「お嬢様」と大歓迎された。身の回りの世話を自分でできると言っても笑顔でヤンワリとスルーされている毎日だ。彼女達もそれが仕事だろうからと諦めてサラ母は世話をされつつ侍女達と娘で遊んだりパンを焼いたりしている。全身隙間なく磨きあげられるエステは恥ずかしいから本当に止めてほしいのだが逃げ切れた試しがない。公爵家のお抱え侍女恐るべし。母娘共々全身ツルピカである。
本っ当に何もしなくてもいいみたいだが、基本真面目で頑張り屋のサラ母はただ何もせずに衣食住が与えられる状況が我慢てまきず、男に頼んで家庭教師――当然女性――を付けてもらって貴族の常識や作法、歴史などを学ぶ事にした。望んだ地位ではないがなってしまったからには自分のやれる事はするべきだと考えたからだ。サラもそんな母を見て「わたしもー」と言ったので淑女教育を開始。
勿論貴族になったのだから貴族の振る舞いが出来てこしたことはないが、贅沢三昧が可能にも関わらず頑張って貴族の事を学ぼうとする母娘に使用人一同の好感度が更に跳ね上がったのは言うまでもなく、暖かく見守った。
――例え男にサラ母を社交界等に出す気は一切なく、なんなら屋敷からすら出す気もないだろうな、とか。公爵家当主の婚姻なのに人前に出したくないからお式もあげないだろうな、とか。色々察してはいるが優秀な使用人達は口にはしない。学んだ成果をお披露目する日は来るのかしら?とか思ってても口にしない。ただ主の大切な方々に気持ちよく過していたけるように心を砕くのみである。
ああ、それにしても奥様って本当にお美しい上にお優しい!お嬢様も大変お可愛らしいし毎日お世話がとっても楽しいです。旦那様グッジョブ!!
「これが息子のジャーナルだ」
男にそう言われて母娘は男の隣にいる男の子を見る。銀髪にどこか神経質そうな品のある顔。将来はイケメン間違いなしの美少年。というか瞳色は男とは異なる碧色だが他は完全なる男のミニチュア版である。可愛い!子供が大好きなサラ母はサラの手を繋いでジャーナルの前まで行くと、しゃがんで目線を合わせた。
「初めましてジャーナル。私はカロリーナ。この子はサラよ」
母に促されてサラも「こんにちは」と挨拶をしたのだが、果たしてジャーナルの耳に届いているかどうか。
生まれてすぐに実母が出ていったためジャーナルは乳母に育てられた。男も多忙なせいで息子とあまりコミュニケーションを取らなかったためジャーナルを育てたのは使用人達である。主のミニチュア版な息子の容姿に古参を筆頭とした使用人達は悶えつつも大切に育ててはきたが、しかしやはり使用人としての壁が拭えなかった。
公爵家としての生き方は父がその身をもって教えてくれている。将来はこの家を継いで国を支えていくのだと言われるがまま勉強も頑張ってきた。使用人達も優しくて好きだ。でも不意に不安になる時がある。この広いお屋敷でたった1人なのだと怖くなる時がある。父は忙しいから自分の事で手を煩わせるわけにはいかないと、枕を抱えながら震えるように夜を明かした事も数えきれない。
それでも10歳にもなればそれもなくなり、ただ課せられた事をこなす毎日だった。出来ると先生も使用人達も喜んでくれる。たまに父に連れられてパーティーに出る時も、上手く出来れば父が誉めてくれたりもする。
だからこれでいいのだと思っていた。怖いのも、寂しいのも慣れた――と、思っていた。
ある日父に呼ばれて行ってみれば見知らぬ女性と女の子を紹介された。
『初めましてジャーナル。私はカロリーナ。この子はサラよ』
そう言って笑う女性はとても綺麗でドキドキした。パーティーで会う着飾った女性達とは全然違う優しい笑みだった。いや、それよりも!とジャーナルは現状に焦りだす。目の前の女性は今自分と同じ目線だ。有り得ないことにカロリーナと名乗った女性はフワリとスカートをなびかせてしゃがんでいるのだ。貴族の女性がしゃがむなど、スカートを地につけるなど今まで見たことも聞いたこともなかったジャーナルはかろうじて笑顔は張り付けていたものの心の中は大混乱だ。
何で父上は彼女を止めるどころか満面の笑みで見てるの?!従者長も使用人達も何その微笑ましそうな顔!
「ジャーナル」
所詮は10歳。大人ぶってもまだ応用力がなく突発的事項に弱いジャーナルの混乱した耳に優しい音が届いた。ジャーナルが自分の名前を読んだ女性と目を合わせる。父親と同じ蒼い瞳が少しジャーナルを落ち着かせてくれた。
「家族になるんだから仲良くしてくれると嬉しいわ」
「……かぞく?」
「お前の新しい母様と妹だ」
彼女の言葉をオウム返しに呟くと父がわかりやすく補足してくれた。新しい家族。この2人が僕の母様と妹。事態がうまく飲み込めず立ち尽くしていると、左手に温もりが広がった。女性の暖かい手に自分の小さな手が握られている。
「さあサラもお兄ちゃんに挨拶しなさい」
「こんにちはーえと、お兄ちゃん?兄さま?」
舌ったらずな声と共に右手を僕より小さな手が握る。温かい……この2人が僕の家族。ジャーナルの胸にホワンと温もりが広がった。
「……宜しくお願いします……母様、サラ」
嬉しさと恥ずかしさで顔を赤くしながら俯く美少年にサラ母は大興奮だ。可愛いわ!そうでしょう奥様!ウチの坊っちゃん可愛いんですよ!とアイコンタクトで共感しあう奥様と侍女達。
「無理しなくていいからね。少しづつ家族になりましょう」
一瞬何が起きたのかわからなかったが、すぐに女性に抱き締められているのだと理解した。父はそんな事しないし、乳母に小さい時にしてもらった以来だ。自然と作り笑いではない笑顔が広がる。肩の力が抜け、安心感に包まれた気がした。
しかし、抱き締め返そうとしたジャーナルはハッと途中まで挙げた腕を止めた。背中に刺さる威圧感と視線から女性が父にとってどれ程大切な存在なのか理解したからだ。
ジャーナルもカルテラード家の者の好意の表し方は知っているから息子相手に大人気ない、とは思わない。ここで距離感を間違えれば父は容易く新しい母と会わせてくれなくなくなるだろう。それは嫌だ。ジャーナルは静かにを下ろし、彼女の抱擁をただ感受したのだった。その様子を見ていた従者長は「そのお歳で空気を読むなんて素晴らしい!成長なさいましたねジャーナル様」と思いながらソッと涙を拭ったとか。
父がいないところで彼女に甘えようと考えていたジャーナルは、ふと横を見ると自分をジーッと凝視する大きな蒼い瞳と視線が合う。
「兄さまも王子さまみたいねー」
「……君はお姫様みたいだよ」
男の時と同じ感想をもらったジャーナルは、銀髪だからかな?と思いつつ返事をした。
「私がお姫さま?わぁ兄さまありがとー!」
少女に満面の笑みを返された。可愛い。小さな手をキュッと握ると握り返してくれた。この小さな生き物が僕の妹。母様は父のモノだから駄目だけどこの子はどうだろう。
丁度彼女が抱擁を解いてくれたので――と言うか長すぎると拗ねた男にサラ母が抱き剥がされたのだが――ジャーナルはサラと向き合った。
「よろしくね、僕のお姫様」
ジャーナルはサラのやや日に焼けた健康的な頬にチュッとキスをした。不思議そうにジャーナルを見返すサラにジャーナルは目元を細める。兄としてこの愛しい妹を大切に守っていこうと誓った彼の心にもう隙間は見当たらなかった。
そんな子供達を見てサラ母と侍女達は悶え、悶えるサラ母を見て男が悶える。何て平和な時間だろうか。公爵家の新しい日々がこうして始まったのである。
【時系列】
・11年前
・サラ5歳
・ジャーナル10歳
・母娘と息子との対面は男がプロポーズという名の脅迫で母娘を公爵家に拉t……迎え入れた翌日。